広州湾(こうしゅうわん、仏: Kouang-Tchéou-Wan/英: Kwangchow Wan)は、19世紀末から20世紀半ばにかけてフランスが清朝から租借した中国南部・雷州半島(現・広東省湛江市一帯)の湾岸地域を指す用語です。租借地の中心は「フォール=バイヤール(Fort-Bayard、現・湛江旧市街の霞山地区)」で、行政は仏領インドシナの一部として運営されました。規模は香港や広東の条約港に比べれば小さいものの、南シナ海とトンキン湾を結ぶ回廊の結節点として、海軍の石炭補給、沿岸航路の中継、仏領インドシナの後背地(雲南・広西方面)への野心的鉄道構想の足がかりなど、戦略的な意味を持ちました。第二次世界大戦期には日本軍の占領を受け、戦後はフランスが返還し、中国側に復帰しました。以下では、地理と名称、租借成立の経緯、フランス統治の実像、戦時と返還、歴史的意義を、できるだけ分かりやすく整理して解説します。
地理と名称――雷州半島の内湾、なぜ「広州」湾なのか
広州湾は、雷州半島の東岸に開いた内湾部で、外海(南シナ海)に対しては半島と島嶼が防波の役を果たし、奥に向かって静穏な錨地と港湾を備える地形が特徴です。湾奥に現在の湛江湾があり、そこに面して旧来の集落・市場・船だまりが発達しました。周辺は低い丘陵と河川が作る潟湖・干潟が広がり、塩田・漁撈・小規模農耕が組み合わさった生業空間が形成されていました。
名称に「広州」とあるのは、現在の大都市・広州市を指すのではなく、前近代の行政単位である「広州府」など広域の呼称との連続に由来します。つまり、広東沿岸の一部としての「広州の湾」という意味合いが先行し、近代以降にフランス語・英語に転写される過程で、Kouang-Tchéou(広州)+Wan(湾)という表記が定着しました。地名のイメージだけを頼りに「広州市のすぐそば」と誤解すると位置関係を取り違えやすいため、雷州半島(海南島に向き合う)の湾だと押さえると混乱がありません。
租借成立――列強の勢力圏分割とフランスの海軍拠点化
19世紀末、列強は中国沿岸に租借地・租界・勢力範囲を設定し、港湾と通商路を確保していきました。フランスは中南半島に築いたインドシナ連邦(トンキン・アンナン・コーチシナ・カンボジア・ラオス)を本国と結ぶ海上ルートの安全、ならびに中国南部市場への入口を求め、1898年前後の「租借ラッシュ」の中で広州湾の租借に踏み切ります。
清朝との取り決めでは、広州湾の一定区域(おおむね湾奥の港湾と周辺陸地、のちに警備上の必要から軍事境界が調整)を、長期(一般に99年と理解される)にわたりフランスが租借し、行政・警察・司法などの自治的管理を行うことが認められました。港湾・灯台・検疫・税関など、海運のハブに不可欠な施設の整備が想定され、仏海軍の石炭・補給拠点(コーリングステーション)としての役割が最初期から意識されていました。租借地の行政府は、ハノイのインドシナ総督の指揮系に組み込まれ、予算・人員・警察組織はインドシナ側から供給されました。
当時のフランスには、雲南・広西へ通じる内陸ルートを自国の専門技術と資本で開発し、インドシナと中国内陸をつなぐ「縦の回廊」を築くという構想がありました。実際、ハイフォン—ラオカイ—雲南、さらに紅河水系を通じた鉄道・水運計画は部分的に実現しましたが、広州湾を起点とする大規模な鉄道が完成することはありませんでした。地形的制約、コスト、市場規模、国際政治の不安定さが、計画を縮小・変更させたためです。
フランス統治の実像――小租借地の行政、港湾・衛生・警察
広州湾は、香港や青島、威海衛のような巨大な植民港とは比較にならない小規模な租借地でした。このため、統治の性格は「軍港・補給港+小商港」という現実志向に傾き、華やかな自由港型の商都像からは距離がありました。行政府は港湾の浚渫・灯台・航路標識の設置、税関・検疫の運用、埠頭・倉庫・ドックの整備に重点を置き、併せて道路・上下水・病院・学校といった基本インフラの整備を進めました。熱帯病対策や飲料水の衛生改善など、インドシナ植民地行政が得意とした領域がそのまま持ち込まれた側面があります。
警察・治安は、港湾と市街の秩序維持、密貿易の取り締まり、周辺農村との衝突管理が課題でした。特に塩やアヘン、酒税に関わる密輸は、沿岸世界の常で、租借地の財政に直結するテーマでした。フランス側は、アヘン専売・酒税・関税・港湾使用料・免許税などの組み合わせで歳入を確保し、行政コストに充てました。司法制度は、フランス法と慣習・清朝法が「領事裁判権」的に交錯する多層構造で、フランス人・欧州人、インドシナ籍の住民、中国人住民で裁判管轄や適用法が異なる状況が続きました。
社会構成は、地元の漢人(広東系・雷州方言圏)と客家、インドシナからの行政・軍人・技術者、少数の欧州人商人によって成り、商工業は小規模な造船・修繕、製氷、倉庫業、海産加工、運送、雑貨商などが中心でした。港に寄る外航船は限定的で、主に沿岸航路(香港—海南—トンキン)や、仏領インドシナの連絡船が利用しました。学務は宣教師系の学校・病院が担うことが多く、フランス語教育と漢字文化圏の教育が併存しました。
戦時と返還――日本軍占領から中国への復帰へ
1930年代後半、東アジア情勢が緊迫化すると、広州湾の戦略的価値は相対的に上がります。とはいえ、租借地自体の軍事的防備は脆弱で、太平洋戦争の勃発後、1943年には日本軍が広州湾を占領し、港湾・施設は日本側の管理下に置かれました。Vichy体制下のフランスは極東での主導権を大きく喪い、租借地は実質的に機能不全に陥ります。
1945年の戦争終結後、フランスは名目上、広州湾の主権的権利(租借権)を回復しましたが、国際秩序の変化と中国側の民族主義の高まり、インドシナ戦線への資源集中などの事情から、租借の継続に実利は乏しくなりました。交渉の結果、広州湾は1946年に中国へ返還(復帰)され、以後は広東省の管轄下で再編が進みます。湾奥の都市は「湛江」として位置づけ直され、港湾・造船・漁業・軍港の機能を担いながら、華南の海上交通の一拠点として発展していきました。
返還に伴う実務では、港湾施設・学校・病院・警察などの資産・文書の引継ぎ、土地・建物の法的地位の整理、住民の国籍・戸籍の切り替えなど、多くの課題がありました。フランス系の教育・医療機関は、一部が中国側の公的機関や宗教団体へ移管され、港湾の管理は中国の海関・港務局が掌握しました。戦時の被害の修復と、戦後の商流再建には時間を要しましたが、華南経済の回復とともに湛江港は役割を取り戻していきます。
歴史的意義――「小さな租借地」が映す海域世界と帝国の論理
広州湾の歴史的意義は、第一に、列強による中国沿岸の「点の支配(ポイント・コントロール)」の一例として、帝国主義時代の海域秩序の作法を観察できる点にあります。巨大な植民都市ではなく、補給・検疫・関税・警察というミニマムな機能を備えた港湾拠点は、海上交通のネットワークを維持するための現実的な装置でした。灯台・検疫・警察・税関の運用は、近代港湾都市の標準仕様であり、その移植過程を追うと、技術と制度が国境を越えてコピーされる様子が見えます。
第二に、フランス帝国と中国南部・インドシナの結節としての役割です。フランスは南支那海を「内海化」する発想のもと、サイゴン(コーチシナ)—カムラン湾—ハイフォン—広州湾といった拠点を鎖のように連ね、補給と情報、軍艦の錨地を確保しました。広州湾はその中でも末端に近い位置づけでしたが、インドシナ行政の視線がどこまで中国沿岸へ伸びていたかを示す「外縁の証拠」です。結果的に大規模な鉄道や自由港は実現しませんでしたが、構想と現実の落差が、帝国の限界と海域世界の自律性を浮かび上がらせます。
第三に、返還のプロセスが示す「脱植民地化」の初期形態です。法的主体の切替え、資産の移転、住民の法的地位の調整、教育・医療機関の継承といった手続きは、のちの香港・マカオや世界各地の返還・独立でも繰り返される課題でした。広州湾の事例は、小規模であるがゆえに、行政と生活のレベルで何が起きるのかを具体的に検証しやすいケーススタディを提供します。
最後に、地域社会の視点です。湾岸の漁民・塩民・小商人、内陸の農民にとって、租借地は「外から来た制度」と「港から入る機会」の両義性をもつ存在でした。税・警察・司法の枠組みが変わる負担と引き換えに、衛生・教育・医療や港湾インフラが導入され、生活のリズムと価値観に新旧の層が重なりました。近代の国家と帝国、海と陸の間で、住民がどのように適応し、回路を作り替えたのかを、広州湾は静かに物語っています。
総じて、広州湾は、巨大な貿易都市でも決定的な戦場でもない「中規模の港湾租借地」だからこそ見える歴史の断面を提供します。港の灯り、検疫所の白い壁、税関の秤、石炭の匂い、学校の黒板――そうした細部の積み重ねが、帝国の論理と地域社会の現実をつなぎ、20世紀前半の海域アジアの素顔を今に伝えているのです。

