膠州湾 – 世界史用語集

膠州湾(こうしゅうわん、Jiaozhou Bay)は、中国・山東半島の南岸にえぐれた内湾で、現在の青島市(チンタオ)の前面に広がる天然の良港です。地形的には外洋の黄海に対し、湾口が諸島・半島で守られたラグーン状の入江をなし、風波を避けられる静穏な錨地と広い水面を持つことから、近代以降は大規模な港湾・海軍基地・工業集積の舞台になりました。歴史上もっとも知られるのは、1898年から1914年までドイツ帝国が清朝から租借して築いた「膠州湾租借地(いわゆるキアオチョウ/Kiautschou)」で、ここに建設された青島(ツィンタオ/Tsingtau)の近代都市計画、港湾・鉄道・電信・上下水道・醸造業などは、東アジアの植民港市の典型例として今も記憶されています。第一次世界大戦勃発後は日本軍が占領し、その後の山東問題と五四運動、1922年の返還、日中戦争期の再占領、戦後の再編を経て、今日では橋梁・トンネル・コンテナ港を擁する北方の国際物流拠点として発展しています。本項では、膠州湾の地理と名称、ドイツ租借地の成立と都市建設、世界大戦と山東問題、現代までの変容を、分かりやすく整理して解説します。

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地理と名称――山東半島の内湾が生んだ天然港

膠州湾は、山東半島南岸の中央付近、黄海に面した凹形の内湾です。西・北・東の三方を陸に囲まれ、湾口は南東に開いています。湾の奥部は浅海の干潟や塩田に適した地形がひろがり、古来、漁撈・塩業・小規模な沿岸交易が営まれてきました。気候はモンスーンの影響で冬は乾燥し寒冷、夏は湿潤で、海霧や季節風、潮汐の干満差が航行・港湾設計の前提となります。こうした自然条件は、外洋からの波浪を減衰させ、停泊・修理・荷役に有利な環境を提供しました。

「膠州」という地名は、古代の行政区画名(膠州)や膠東・膠莱などの地理名と連続し、近代以降の「青島市」とも重なりつつ使われます。とりわけ租借期の外国語史料では、湾(Kiautschou Bay)と行政名(Kiautschou)と都市名(Tsingtau/Qingdao)が混用され、読み手を混乱させやすい点に注意が必要です。今日の行政的中核は青島市ですが、用語として「膠州湾」は湾そのもの、またはその沿岸地域を指す呼称として定着しています。

湾岸の地形は、東側に黄島・崂山の山地が迫り、西へは平野がひらけ、内陸には膠萊河・白沙河などの水系が流入します。湾の奥部は干潟・砂州・湿地が発達し、近代以降、港湾・工業用地の造成に伴って大規模な埋立てが繰り返されました。湾を跨ぐ交通インフラとして、21世紀に入ると「膠州湾大橋(海上橋)」や「膠州湾海底トンネル」が整備され、道路・鉄道・港湾を統合した物流動線が形成されています。これにより、湾岸の各区(市南、黄島、城陽、膠州など)間の移動時間は大幅に短縮され、都市圏の一体化が進みました。

ドイツ租借地の成立と都市建設――港・鉄道・計画都市としての青島

19世紀末、列強は中国沿岸に租借地や租界を設け、海上交通と市場へのアクセスを確保していました。ドイツ帝国は1897年の「膠州湾出兵(済南教案・教士殺害事件を口実)」ののち、1898年に清朝と条約を結んで膠州湾の一定区域を99年期限で租借します。目的は海軍の東アジア根拠地の確保、ドイツ資本の中国市場進出、内陸への鉄道・鉱山利権の獲得でした。租借地は湾岸とその背後の狭い帯状地域からなり、行政は総督(海軍大佐クラス)とドイツ人官吏が担い、警察・法廷・税関・検疫といった「港市の基本装置」が整えられました。

ドイツはここに計画都市「Tsingtau(青島)」を建設します。碁盤目状の街路、電気・上下水道、レンガ・石造の官庁街、学校・教会・病院、ビール醸造所、ドック・倉庫・クレーンを備えた埠頭などが短期間で整備されました。都市景観はドイツ風の屋根瓦と白壁が特徴的で、海軍兵営や海岸通り、灯台と防波堤が「近代の港町」の輪郭を形づくりました。衛生観念の導入と規則的な都市管理は、当時の中国沿岸都市の中でも先進的な部類に属し、のちの青島の都市文化に長く影響を残します。

港湾整備と並行して重要だったのが、内陸への鉄道「膠済鉄道(青島—済南)」の建設です。1904年前後に全通し、山東内陸の農産物・鉱産資源(とくに石炭)を青島港へ集め、外洋へ輸出する仕組みが整いました。鉄道は駅前市街や倉庫群、検査所、電信局、税関などの関連施設と結びつき、膠州湾の背後地(ヒンターランド)を形成していきます。鉄道敷設に付随する採鉱・土地収用・労働力動員は摩擦も生みましたが、総体として、膠州湾は「港—都市—鉄道—鉱山」という開発のパッケージが可視化された場になりました。

産業面では、港湾関連(造船・修繕・製氷)、食品(ビール・麦芽・製麺)、建材(セメント・煉瓦)、繊維や軽工業が早くから集積しました。なかでも有名なのが1903年創業のビール醸造所(のちの青島ビール)で、ドイツの醸造技術と気候・水資源を活かした製品は、都市のアイコンとして世界に知られるようになります。商業では、銀行・保険・運送・倉庫・荷為替といった金融・物流サービスが港と一体で発展し、ドイツ系・華商・他国商人が交錯するコスモポリタンな市場ができあがりました。

世界大戦と山東問題――日本軍の占領、五四運動、返還まで

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、日英同盟を背景に日本はドイツに宣戦布告し、青島要塞を陸海から包囲・攻撃して占領しました(青島の戦い)。以後、膠州湾租借地と膠済鉄道は日本の軍政の下に置かれ、ドイツが持っていた鉄道・鉱山・通信などの権益も日本側に移管されます。戦後のパリ講和会議では、ドイツの山東における権益を日本に譲渡する決定がなされ、中国国内では強い反発が広がりました。これが1919年の「五四運動」の直接の契機であり、膠州湾は中国近代のナショナリズムの沸点の一つとなります。

国際政治の転換の中で、1921–22年のワシントン会議において、日本は山東問題の解決に応じ、1922年、膠州湾租借地は形式的に中国へ返還され、膠済鉄道は中日合弁の「山東鉄道公司」を通じて運営されることになりました。これにより、行政主権は中華民国政府へ戻りましたが、実務面では日本企業・銀行・商社の影響がなお残り、青島は多国籍の利害が錯綜する国際港湾として機能を続けました。

1937年以降、日中戦争が全面化すると、青島・膠州湾は再び日本軍の占領下に入り、港湾・工場・飛行場が軍需に動員されます。海軍の前進基地・補給拠点としての役割が前面に出て、輸送・造船・通信は軍事優先の体制に組み込まれました。1945年の日本の敗戦により、膠州湾の施設は中国側の管理に復帰し、国共内戦を経て1949年に中華人民共和国の体制下へと移行します。

現代の膠州湾――港湾・産業・都市圏、そして環境の課題

新中国成立後、青島は北方の重要な工業・港湾都市として再整備され、海軍(北海艦隊)の基地、造船・機械・繊維・食品・家電などの産業、科学教育機関(海洋大学・科技大学分校など)が集積しました。改革開放期にはコンテナターミナル・保税区・経済技術開発区が相次いで設置され、膠州湾は国際物流のハブへと飛躍します。港は前湾港・董家口港など複数の岸壁群に分散し、深水岸壁と大水深航路の浚渫により、超大型船の寄港が可能になりました。空港・高速鉄道・高速道路・橋梁・トンネルが結節して、青島都市圏の経済圏は湾の周縁部にまで広がっています。

産業構造は、従来の製造業に加え、海洋工学・海洋観測・海藻・水産加工、ソフトウェア・家電ブランド、観光・MICE(見本市)などへ多角化しています。歴史的遺産を活かした観光都市としての側面も強く、ドイツ風建築が残る八大関や山海の景観、西洋風の街路・教会・ビアストリートなどが国内外の来訪者を惹きつけます。港湾と観光、研究と産業、軍港と民港が近接する「複合港市」の性格は、膠州湾ならではの都市像を形づくっています。

一方で、急速な開発と埋立ては海域環境に負荷を与え、赤潮・富栄養化・湿地の縮小、沿岸生態系の断片化といった課題を顕在化させました。これに対し、保護区の設定、下水・産業排水の高度処理、干潟・湿地の復元、港湾建設における環境影響評価の厳格化などが進められています。陸海統合の「流域—湾」管理(流入河川の汚濁負荷の抑制と湾内の循環改善)や、海洋ごみ対策、沿岸防災(高潮・台風)と都市レジリエンスの強化は、現代の膠州湾が直面する共通課題です。

文化的記憶の側面では、ドイツ租借期の都市文化、第一次世界大戦の青島攻囲戦、五四運動と山東問題、返還・再占領・再返還のねじれた経路が、湾の地名と風景に重ね書きされています。青島ビールに象徴される消費文化、欧風建築と中国的街区の混淆、港市的コスモポリタニズムと国民国家のナショナリズムが交錯する場として、膠州湾は近代東アジアの縮図とも言えます。

総じて、膠州湾は、自然地理の恵み(内湾・深水・防波)と、近代の制度・技術(租借・港湾・鉄道・都市計画)が結びついて形成された「海の都市圏」の典型例です。ドイツの租借都市から日本の軍政、ワシントン体制下の返還、戦時の再編、改革開放の物流ハブへ――そのたびに、湾は新しい役割を与えられ、都市は姿を変えてきました。地図の上のひとつの入江に凝縮されたこの変遷を辿ることは、帝国主義と国際政治、工業化と環境、地域社会の生活世界がどのように絡み合ってきたかを読み解く、有効な入口となります。