シャルル10世 – 世界史用語集

シャルル10世(在位1824–1830年)は、フランス復古ブルボン朝の最後の国王であり、革命前の王権とカトリック秩序を取り戻そうとした「超王党派(ウルトラ)」の象徴的存在です。兄ルイ18世の現実協調路線から舵を切り、旧体制の威信を儀礼と法律で回復しようとしましたが、議会政治と報道の自由、納税額に応じた制限選挙に支えられた都市ブルジョワ社会の抵抗に直面しました。1825年のランスでの戴冠や亡命貴族への補償法、反宗教冒涜法、検閲強化などの政策は、王国の「道徳的再建」を目指すものでしたが、結果的に自由主義世論を結束させ、1830年の七月革命へと連鎖します。アルジェ攻略など対外行動で権威回復を図ったものの、サン=クラウド勅令(七月勅令)で憲章を踏み越えたことが決定打となり、在位6年で退位・亡命に追い込まれました。復古王政の限界と、立憲王政の「国民王」への転換点を理解するうえで、彼の治世は避けて通れない節目です。

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出自と即位――復古王政の「右傾化」を体現した国王

シャルル10世(Charles X, 1757–1836)は、ルイ15世の孫、アルトワ伯として若年期から宮廷文化と狩猟・儀礼の世界に親しみました。フランス革命下では亡命し、王党派の武装反乱や外国軍に連なる形で反革命運動に関わります。ナポレオン失脚後の1814年、兄ルイ18世が王位に就くと、シャルルは王弟として宮廷・儀礼の再建に力を注ぎ、保守派の後ろ盾となりました。1815年の「白色テロ(反革命的報復)」の空気の中、彼は革命・帝政期の遺産に批判的な立場を鮮明にします。

1824年にルイ18世が崩御すると、シャルルが即位しました。憲章(Charte constitutionnelle, 1814)による立憲体制は形式上維持されましたが、国王は「王権の尊厳」を儀礼と法で可視化し直すことを重視しました。1825年、かつてのフランス王たちの伝統に倣い、彼はランス大聖堂で戴冠(サクル)を挙行します。革命期に中断されていた聖別の復活は、王権の神聖性を強調する象徴的行為であり、古式の衣装・油注ぎ・儀礼が国内外に広く報じられました。これは同時代の多くの人々にとって、革命後の社会に逆行する合図とも映り、政治的反発の種にもなりました。

内政――補償法・宗教立法・検閲と議会対立

シャルル10世の初期政権を率いたのはヴィレール(ジョゼフ・ド・ヴィレール)内閣です。1825年に成立した「亡命貴族補償法(エミグレ補償)」は、革命期に没収・売却された貴族や教会の財産に対し、国債で金銭補償を行うものでした。旧支配層の被害回復は「正義の回復」として王党派から歓迎されましたが、国庫には大きな負担となり、また革命の成果(国有地購入者=新地主層の権利)との緊張を生みました。同じく1825年の「冒涜法(反宗教冒涜法)」は、聖体や聖具の冒瀆に重罰を科す内容で、政教の距離を再び近づけるものでした。教育・慈善を担う宗教団体への支援も拡大され、カトリックが公的空間で存在感を増します。

報道と出版の自由は、復古王政期を通じた最大の争点でした。政府は検閲と保証金制度で新聞・パンフレットを統制しようとし、野党は裁判所(陪審)を通じて抵抗します。1827年、パリでの近衛兵閲兵式で国王への敵意を示す市民のブーイングが起こり、政治的緊張は臨界に達しました。ヴィレールは議会の支持を失い、より穏健なマルティニャック内閣(1828–1829)が成立します。彼らは検閲の緩和や宗教団体の公立教育への介入抑制など「中道調停」を試みましたが、王の不信を買い、短命に終わりました。

1829年末、国王は強硬派のポリニャック公を首相に任命します。ウルトラの再登板は、議会多数派(立憲派・独立派)との正面衝突を予告するものでした。ポリニャック内閣は、フランスの名誉回復を掲げて対外的冒険(後述のアルジェ遠征)を企図し、国内では行政権強化と報道抑圧を推し進めます。1830年3月の議会開会に際し、下院は国王演説に対する答礼演説(アドレス)で不信を突きつけ、憲章に基づく責任内閣制の原理を暗に主張しました。国王はこれに反発し、解散・選挙で形勢の逆転を狙いますが、7月選挙でも反政府派が伸長しました。

対外政策とアルジェ遠征――栄光の演出と国内危機の交錯

王権の威信回復をめざす内閣は、外交・軍事での「成果」を国内政治のテコにしようとしました。地中海では、オスマン帝国の属州アルジェが海賊行為と交易妨害で欧州諸国の問題となっており、またフランス側には「扇で打たれた侮辱(フランス領事とアルジェの太守との確執)」として知られる事件もくすぶっていました。1830年、ポリニャック内閣は遠征を断行し、7月5日にアルジェ市を占領します。戦果は手早く、戦利金とともに国内へ伝えられ、政府はこれを政権支持の梃子にしようとしました。

しかし、アルジェの勝利は政治的失策を覆い隠すには不十分でした。遠征は議会の事前承認を欠いたまま進められ、しかもその最中に、国王は憲章に挑戦する勅令を出してしまいます。外征による「栄光の演出」は、むしろ七月革命の火に油を注ぐ形になりました。結果的に、アルジェの占領はオスマン権威の退潮とフランスの植民統治の始まり(アルジェリア植民地化)という長期史的意義を持ちますが、シャルル10世個人の王権を救うことはできませんでした。

七月勅令と七月革命――憲章を踏み越えた瞬間

1830年7月25日、サン=クラウド宮から四本の勅令(通称「七月勅令」または「サン=クラウド勅令」)が発せられました。(1)新聞・定期刊行物の無審査発行の停止=事前検閲と許可制の復活、(2)新議会選挙の無効化と下院の即時解散、(3)選挙法改正による有権者資格の大幅な絞り込み(商工業に有利だった納税資格の廃止・地代納税限定など)、(4)新選挙の招集。これらは、1814年憲章の核心である「法による課税」「報道の自由の枠組み」「議会の権能」を事実上無視するもので、国王大権の乱用と受け止められました。

7月26日、パリの新聞各紙は抗議の「白紙号」や休刊で応じ、印刷工・活字工が街頭に出て石畳を剥がし、バリケードを築き始めます。学生・職人・市職員・国民衛兵が合流し、「自由への叫び」「憲章擁護」のスローガンが市中に響きました。27・28・29日の三日間、いわゆる「栄光の三日間(トロワ・グロリユーズ)」に、蜂起はパリ中心部を制圧し、王宮・公文書館・印刷所・武器庫が次々に占拠されます。ラファイエットが国民衛兵の指揮に復帰し、革命の正統性を演出。王党軍は市街戦に不慣れで、士気の低下もあって後退を重ねました。

政治の舞台では、自由主義の議員たちが王政の継続形態をめぐって協議します。急進派は共和国を、穏健派は「憲章を守る王政」を志向し、最終的にオルレアン家のルイ=フィリップを「フランス人の王(ロワ・デ・フランセ)」として擁立する妥協案が形成されました。これは、主権の源泉を「フランス国民」に置きなおし、王は憲章(改正憲章1830)を守る執行者とする理念転換でした。ブルボン直系の王権は、この時点で政治的な支持基盤を失ったのです。

退位と亡命――王朝の幕引き

蜂起のさなか、シャルル10世はナント方面へ退却しつつ、7月31日付で退位文書に署名しました。彼は王位を孫ボルドー公アンリ(「シャンボール伯」)に譲る意向を表明し、長男アングレーム公ルイ=アントワーヌにも継承権放棄を求めました。しかし、国会とパリの実力は、もはやブルボン家の継承案を受け入れる気配を見せません。8月7日、議会は王位空位を宣言し、8月9日にルイ=フィリップを国王に選出しました。これにより、復古ブルボン朝は終焉し、七月王政(1830–1848)が始まります。

シャルル10世は英国に亡命し、その後ハプスブルク領内を移り住み、1836年にゴリツィア(当時オーストリア帝国領、現イタリア領ゴリツィア)で没しました。彼の最期は静かでしたが、歴史の上では「革命に終わった王」として記憶されます。王家は亡命先で分裂と和合を繰り返し、レジャンス問題(正統派のシャンボール伯支持か、オルレアン家支持か)は19世紀フランス政治の潜在的争点であり続けました。

社会・経済と世論――都市ブルジョワと印刷メディアの時代

シャルル10世の時代背景として、経済・社会の変化を押さえることは不可欠です。復古期のフランスは英国に比べて産業化の速度は遅いものの、綿紡績や機械工場、運河・道路整備が進み、都市人口が増加していました。選挙権は高額納税者に限定され、農民や職人の大多数は政治的に排除されていましたが、新聞は部数を伸ばし、サロン・カフェ・読書会・学会が議論の市場を形づくりました。検閲や保証金制度による統制は、逆に「政治新聞」の購読共同体を育て、職人・学生・小市民の間に自由主義言説を浸透させました。七月革命のバリケードに立ったのは、こうした印刷文化と都市ネットワークに育てられた市民でした。

政治制度の側面では、下院(代議院)の任期や選挙区割、納税資格をめぐる駆け引きが続き、王権と議会の「二元代表」が緊張をはらみました。憲章は王に広い勅令権・解散権を認める一方、予算・租税は議会の同意を要しました。シャルル10世はこのバランスを王権優位へ傾けようとし、議会・司法・世論の三者と衝突します。とりわけ陪審制による報道犯罪の審理は、政府にとって厄介な障害でした。これが七月勅令で一気に迂回され、公憲政治の回路が遮断されたことが、蜂起の引き金になったのです。

評価と遺産――「正統」への執着と立憲政治の成熟

シャルル10世の評価は二極化しがちです。王党派から見れば、彼は革命の傷を癒やし、宗教と王権の秩序を回復しようと努めた信仰厚い国王でした。他方、自由主義史観では、彼は19世紀の社会に逆行した過去の幻影に囚われ、立憲政治の実務感覚を欠いた統治者とされます。今日的視点からは、両面を見合わせる必要があります。彼が目指したのは、革命の「行き過ぎ」を正す保守的モラル・エコノミーでしたが、それを実現するための制度設計(議会多数派の形成、閣僚任命の柔軟さ、報道との共存、税制と国債管理の説得)に失敗しました。儀礼と法の重視は一貫していましたが、社会の受容力を読み違えたと言えます。

とはいえ、彼の治世はフランス立憲主義の成熟に寄与しました。七月革命は、暴力的でありながらも、王政の枠内で主権の所在を「国民」へ移すという憲法思想の実験でもあり、1830年憲章の改正は、報道自由・選挙制度・宗教の位置づけを調整しました。また、アルジェ攻略は帝国主義の扉を開き、以後の仏領アルジェリア構築(軍政・移民・土地収奪)へ連なる長い影を落とします。シャルル10世の「短い治世」は、国内の憲政と対外の帝国、両方の19世紀的課題を凝縮していました。

小括――復古の終わり、七月王政への橋渡し

総じて、シャルル10世は、復古王政の理想を最後まで信じ抜いた国王でした。戴冠の聖油、補償法と冒涜法、検閲と勅令。彼が動かしたレバーは、どれも革命前の秩序を呼び戻すものでした。しかし、都市の活気と印刷メディアの拡張、議会と司法の自律、納税者ブルジョワの自己意識は、すでに後戻りできない地点に達していました。七月勅令で憲章を越えた瞬間、復古の物語は静かに閉じ、七月王政という新しい立憲の章が開きます。シャルル10世を学ぶことは、制度と儀礼、信仰と自由、王権と世論のせめぎ合いが、近代国家の入口でいかに決着したのかを知る道でもあります。