膠州湾占領(こうしゅうわんせんりょう)は、第一次世界大戦の勃発直後、1914年に日本とイギリスがドイツ帝国の租借地「膠州湾(青島・キアオチョウ)」を攻囲・降伏させ、その後に日本軍政下に置いた一連の出来事を指す用語です。膠州湾は山東半島の天然良港で、ドイツの海軍根拠地・貿易拠点として整備されていました。開戦と同時に日英同盟を根拠に日本は出兵し、陸海からの包囲・砲撃・塹壕戦の末、青島要塞は11月に降伏しました。以後、膠州湾と膠済鉄道などの権益は日本側に移り、戦後処理の場では「山東問題」として国際政治の争点になります。本項では、占領の背景、作戦の経過、軍政と社会への影響、そして講和・返還に至る政治過程と記憶を、分かりやすく整理して説明します。
背景――ドイツ租借地の成立と日英同盟、東アジア戦略の文脈
膠州湾は1898年、ドイツ帝国が清朝から99年期限で租借した地域で、総督府の下に近代的な港湾・市街・鉄道(膠済鉄道:青島—済南)・電信が整えられていました。青島はドイツ式の計画都市として急速に整備され、海軍の東アジア根拠地、並びに山東内陸を背後に持つ輸出港として重要性を増していました。湾口の堡塁・砲台・機関銃座、丘陵を利用した複郭の防御線、地雷原や鉄条網の敷設など、要塞は近代的な防備を誇っていました。
1914年7月に欧州で戦争が勃発すると、日英同盟(1902年締結、更新を経て有効)は極東のドイツ軍事拠点に対する共同作戦を可能にしました。日本政府は、連合国側の通信・海上交通の安全確保と、対独権益の処理を目標に掲げ、8月下旬、ドイツに対して膠州湾からの撤退・租借地返還等を要求しました。ドイツ側が応じなかったため、宣戦布告とともに青島攻略作戦が発動されます。ここには、東アジアでの勢力圏調整、山東鉄道・鉱山利権の掌握、対華影響力の拡大といった日本側の思惑も重なっていました。
イギリスは「日英共同」の枠組みで海上封鎖や陸上の一部部隊派遣を行い、連合国の一員として作戦に関与しました。他方、中国(中華民国)は戦時中立を宣言しており、その中立領域内で展開される戦闘・軍政は主権の観点から大きな摩擦の種となります。こうして、膠州湾は欧州戦争がアジアへ波及する象徴的な舞台になりました。
作戦の経過――海上封鎖から塹壕戦、青島要塞の降伏まで
1914年8月下旬、日本艦隊は膠州湾近海で海上封鎖を開始し、湾口の機雷原・沿岸砲台を警戒しつつ、偵察・砲撃でドイツ側の反撃能力を探りました。ドイツ東アジア巡洋艦隊は主力が既に外洋行動に移っており、青島港には老朽艦や河川砲艦、沿岸砲台が中心でした。日本は輸送船団で大規模な陸軍部隊を上陸させ、湾の外側から半円形に展開して陸上からの攻囲を固めます。イギリス陸戦隊も小規模ながら加わりました。
作戦の要は、近代要塞に対する正面攻撃を避け、塹壕・掩壕・迫撃砲・重砲を用いた計画的な接近戦を積み重ねることでした。日本軍は工兵を先導し、夜間の築城、対砲兵射撃の観測、前進塹壕(サップ)と連絡壕の構築を進め、次第に要塞線に迫りました。重砲(28センチ榴弾砲など)を揚陸・据付して湾口の砲台・弾薬庫・司令部施設を精密砲撃し、同時に海軍艦砲との連携で火力を集約しました。ドイツ側も照明弾・逆襲・狙撃・反砲兵戦で粘り強く抗戦し、至近距離の白兵戦・爆破戦が繰り返されました。
10月末から11月初旬にかけて、外郭陣地の多くが日本軍により制圧され、港湾施設・鉄道・発電所への砲撃が効果を上げます。兵站面では、秋雨と泥濘、揚陸の困難が続いた一方、工兵・鉄道隊・通信隊の周到な準備が徐々にものを言い始めました。11月6日夜半から7日未明、最後の総攻撃が敢行され、主要高地と砲台が相次いで陥落、午前中にドイツ守備隊は降伏を決定しました。これにより、青島要塞は開戦から約二か月半で陥落し、膠州湾は連合国側の掌中に入りました。
戦闘の特徴は、第一次世界大戦型の塹壕戦・砲兵戦を、アジアの港湾要塞に適用した点にあります。海と陸の火力協同、工兵による築城・爆破、観測と測距、夜間の前進と鉄条網突破など、のちの欧州西部戦線に通じる技術が広範に用いられました。一方、町や港の被害は避けられず、軍事・民生の施設に損傷が広がりました。
占領・軍政と社会――鉄道・港湾・企業の接収、統治の実務
降伏後、日本は膠州湾租借地と青島市街、関連する港湾・鉄道・電信・司法・警察を軍政下に収めました。ドイツが保有していた企業・不動産・インフラは接収され、膠済鉄道は日本軍の管理下で運行が再開されます。港湾の浚渫・埠頭修繕・灯台・検疫・税関の再稼働が進められ、軍需と通商の両面で機能が復旧しました。
行政の現場では、ドイツ時代の都市インフラ(上下水道・市電・発電)と街路・建築規制が引き継がれ、日本人官吏・技術者・商人と華商・在地住民が共存する体制が組み立てられました。治安では、警察・憲兵が市街秩序と港の警備、諜報と密輸取り締まりを担い、検閲と許可制が敷かれました。学校・病院・教会などの社会施設は、管理主体の切替えや一時閉鎖・再開を経験します。経済面では、日本の銀行・商社・運送会社が進出し、荷為替・保険・通関業務が日本式に再編される一方、華商ネットワークは柔軟に適応し、繊維・食品・倉庫業などが稼働を続けました。
こうした軍政の展開は、中国の主権から見れば「中立宣言下の外国軍の占領」にあたり、国民的反発の火種となりました。とくに、鉄道・鉱山・関税収入などの経済権益の掌握は、各地の世論に強い不信を呼び、のちの山東問題を通じて全国的なナショナリズムの高揚へつながっていきます。
講和・返還と記憶――山東問題、五四運動、ワシントン体制へ
第一次世界大戦後の講和会議(1919年)では、ドイツの中国における権益が日本に譲渡されることが決定され、中国国内の強い反発を招きました。北京の学生・市民が抗議に立ち上がった五四運動は、その象徴的な爆発点であり、外国権益・軍政・不平等条約への抗議が、文化運動・政治運動のうねりとなって全国へ広がりました。膠州湾占領は、この運動の直接の前史に位置づけられます。
国際政治はやがてワシントン会議(1921–22年)へと移り、日本は対米協調と海軍軍縮の文脈の中で山東問題の解決に応じました。1922年、膠州湾租借地は形式的に中国へ返還され、膠済鉄道も中日合弁(山東鉄道公司)による運営に切り替えられます。これにより、行政主権は回復したものの、実務面では日本の経済的影響は一定期間残り、青島は国際港として多国籍の利害が交錯する状態を続けました。
1937年に日中戦争が全面化すると、膠州湾は再び日本軍に占領され、軍需拠点として動員されます。1945年の敗戦後、施設は中国側に復帰し、戦後の国共内戦を経て、新中国の体制下で再編が進みました。今日の青島・膠州湾に残るドイツ風建築や都市景観、港湾インフラの骨格、鉄道網の配置には、租借・占領・返還の波が刻んだ歴史の層が読み取れます。
膠州湾占領をどう記憶するかは、視点により異なります。軍事史の立場では、近代要塞攻撃の教科例であり、陸海協同と工兵・砲兵の運用、塹壕戦術の展開が注目されます。国際政治の立場では、日英同盟の機能、戦時中立と主権、講和会議の権益処理、ワシントン体制の形成が論点です。中国近代史の立場では、ナショナリズムの形成、民衆運動の起点、条約改正運動の文脈で評価されます。いずれの読みでも、膠州湾占領は、欧州起源の大戦争がアジアの港市と人々の生活を直撃した瞬間であり、その余波が長く政治・社会を揺さぶった事件であったことに変わりはありません。
総じて、膠州湾占領は、「戦争—占領—軍政—講和—返還」という20世紀前半の東アジアを貫くプロセスの縮図です。地図上の一湾で起きた攻囲戦の背後には、同盟・条約・権益・世論が複雑に絡み合っていました。そのからくりを丁寧に読み解くことは、国際秩序が変わるたびに港と都市が担わされてきた役割を理解することに直結します。膠州湾の歴史は、いまも海風にさらされる埠頭や街路の輪郭の中に、静かに生き続けているのです。

