シンハラ王国 – 世界史用語集

シンハラ王国(シンハラおうこく)とは、インド洋の島国スリランカにおいて、主としてシンハラ人(スリランカの多数派をなす民族)が築いてきた古代・中世・近世の王国を総称する呼び方です。世界史の教科書では、アヌラーダプラやポロンナルワ、キャンディなどの都を中心とした王国が、紀元前5世紀頃から19世紀初頭まで、仏教王権を掲げて続いてきた流れをひとまとめにして「シンハラ王国」と呼ぶことが多いです。インドから伝わった仏教と、それを保護する王権、そしてインド南部・ヨーロッパ列強とのせめぎ合いが、この王国の歴史を通して重要なテーマとなります。

島全体が常に一つの統一王国であったわけではなく、時期によっては内陸のシンハラ系王国と、海岸部のタミル系政権や南インド勢力、さらにはポルトガル・オランダ・イギリスといったヨーロッパ勢力が並立しました。それでも、シンハラ人の言語(シンハラ語)と上座部仏教を軸にした王国の伝統は、スリランカの「島の中心」を自認し続けます。シンハラ王国の盛衰をたどることは、スリランカという島が、インド洋世界の中でどのようにインド・東南アジア・中東・欧州とつながり、同時に自らの文化的独自性を守ろうとしてきたのかを理解する手がかりになります。

世界史で「シンハラ王国」と聞いたときには、まず場所として「スリランカ島の内陸・高地を中心としたシンハラ人の王国」、信仰として「上座部仏教を保護する仏教王権」、そして対外関係として「南インド・タミル勢力とヨーロッパ勢力とのはざまで生きた島の王国」というイメージを持っておくと、全体像がつかみやすくなります。

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シンハラ人とスリランカ:王国成立の背景

シンハラ王国を理解するためには、そもそも「シンハラ人」とは誰なのか、スリランカの地理と歴史的背景から見ておく必要があります。スリランカ島はインド南端からわずかな海峡を隔てた位置にあり、古くからインド亜大陸との間で人・モノ・宗教の交流が盛んでした。島の中央部には高地と山岳地帯が広がり、その周りを平野部と沿岸部が取り巻く地形となっています。

伝承によれば、シンハラ人は北インドから渡来したアーリア系の人びとの子孫だとされます。古代の叙事的歴史書『マハーワンサ』(大史)では、北インドの王子ヴィジャヤが仲間とともにスリランカに到来し、現地の人びとを従えて王国を築いたという物語が語られています。もちろん、これは伝説的要素を多分に含みますが、インド北部・東部からの移民と、もともと島に暮らしていた人びととの混淆によって、「シンハラ人」と呼ばれる集団が形成されていったことを象徴的に示していると考えられます。

紀元前5世紀頃までには、スリランカ島には灌漑農業を基盤とする定住社会が発達し、内陸部には王権を中心とした政治組織が形成されていました。やがて北中部のアヌラーダプラが最初の本格的な王都として整備され、以後およそ千年にわたって島の政治・宗教の中心となります。稲作と貯水池(タンク)を組み合わせた灌漑システムは、シンハラ王国の富と人口支え、同時に王権が水利を管理することで、社会統合を保つ基盤にもなりました。

シンハラ人は、言語面でもインド北部のインド・アーリア語派に属するシンハラ語を話し、文字もインド系のブラーフミー文字をもとに発展させていきます。一方、島の北部や東部沿岸には、南インドから渡来したドラヴィダ系のタミル人が居住し、タミル語を話すコミュニティを形成していました。この「シンハラ人の内陸王国」と「タミル人の沿岸部」が並存する構図は、古代から現代に至るまでスリランカ社会の重要な特徴となります。

アヌラーダプラとポロンナルワ:古代シンハラ王国の展開

古代シンハラ王国の最初の本格的な王都は、島の北中部に位置するアヌラーダプラです。紀元前3世紀頃、マウリヤ朝のアショーカ王の時代に、インドから仏教がスリランカに伝えられたとされます。アショーカ王の息子マヒンダが僧団を率いてスリランカに渡来し、アヌラーダプラの王デーワーナンピヤ・ティッサに仏教を布教したという伝承は有名です。以来、上座部仏教はシンハラ王国の王権と密接に結びつき、「仏教を保護し、ダルマ(法)にもとづいて統治する王」というイメージが確立していきました。

アヌラーダプラ時代(おおよそ前3世紀〜後10世紀)には、多くの仏塔(ダゴバ)や僧院、巨大な貯水池が建設されました。ルワンウェリサーヤ大塔やジェータヴァナラーマなどの壮大な仏塔は、王権の威信と信仰の厚さを象徴する建造物でした。また、マハーヴィハーラ(大寺)をはじめとする僧院は、仏教教理の研究・修行とともに、文字文化や歴史記録の中心地でもありました。『マハーワンサ』などの年代記は、この時代の王たちの業績や仏教史を伝えており、シンハラ人自身が自らの歴史をどう理解していたかを知る貴重な手がかりとなります。

しかし、アヌラーダプラはその繁栄の一方で、南インドからの侵入や内部対立にもたびたび悩まされました。とくに南インドのチョーラ朝などの勢力が、たびたびスリランカに遠征し、王都を攻め、仏教寺院を破壊することがありました。10世紀末〜11世紀初頭には、チョーラ朝によってアヌラーダプラが長期にわたって占拠され、王権は一時的に島内他地域に逃れる事態となります。

この危機を乗り越えて登場したのが、ポロンナルワ時代です。シンハラ王たちは、内陸の新たな拠点ポロンナルワを王都とし、11〜13世紀にかけて再び灌漑施設と仏教建築の整備に努めます。パラークラマ・バーフ1世などの王は、「一滴の雨も海に流れ込ませることなく灌漑に利用せよ」と言ったと伝えられるほど、水利事業を重視しました。ポロンナルワには、シヴァ神殿などヒンドゥー教の遺構も見られ、南インドとの関わりや多宗教的な側面も垣間見えます。

とはいえ、ポロンナルワ時代も長続きはせず、13世紀以降、シンハラ人王国は内陸高地へと重心を移し、キャンディ周辺の山岳地帯に小さな王国が分立するようになります。沿岸部や北部は、南インド系のジャフナ王国などタミル系政権の影響下に入り、島は多極化していきました。これが、のちにヨーロッパ勢力が進出してきたときの前提条件となります。

キャンディ王国とヨーロッパ勢力:シンハラ王国の最終段階

15世紀末以降、インド洋にポルトガル・オランダ・イギリスなどのヨーロッパ勢力が進出すると、スリランカ島もその影響を強く受けるようになります。最初にやってきたポルトガルは、海岸部の港湾都市を掌握し、シナモンなどの香料を求めて沿岸支配を強めました。その後、オランダ東インド会社がポルトガルに取って代わり、さらに18世紀末〜19世紀初頭にはイギリスが島全体の支配に乗り出します。

こうしたなかで、内陸高地に残ったシンハラ系王国がキャンディ王国です。キャンディは高地の要害に位置し、ヨーロッパ勢力の軍事力に対しても容易には屈しませんでした。キャンディ王国は、仏歯寺(ブッダの歯の聖遺物を祀る寺院)を中心に、仏教王権の象徴性を維持しつつ、ポルトガル・オランダ・イギリスとの間で巧妙に同盟と対抗を繰り返しました。

17世紀には、キャンディ王国はオランダと手を結んでポルトガル勢力を海岸部から追い出すことに成功しますが、その後はオランダによる海岸支配が強まりました。18世紀末、イギリスがオランダ領を継承してスリランカ沿岸部を掌握すると、キャンディ王国は今度はイギリスとの駆け引きを迫られます。イギリスは、海岸部を抑えつつ内陸王国に圧力をかけ、交易や外交を通じて影響力を拡大していきました。

19世紀初頭、イギリスはキャンディ王国の内部対立を利用し、王の専制や不人気を口実に介入を強めます。1815年、キャンディ王が一部の貴族や僧侶に見放される形で、イギリスとの間に「カンディ条約」が結ばれ、王は退位させられ、王国の主権はイギリスへと移譲されました。このとき、イギリス側は「仏教の保護」や「伝統的な特権の尊重」を約束しましたが、実際には徐々に植民地統治の枠組みが整えられていきます。

こうして、キャンディ王国の崩壊をもって、シンハラ王国としての独立した王権は終焉を迎えました。以後、スリランカ(当時はセイロン)はイギリス植民地として統合され、コーヒー栽培・のちには茶のプランテーションが展開されるなか、経済構造と社会構造が大きく変容していきます。シンハラ人は植民地支配のもとで宗教・言語・土地をめぐる新たな課題に直面しつつも、仏教と歴代王国の記憶を、自らのアイデンティティの基盤として保ち続けました。

シンハラ王国の歴史的意義と現代スリランカとのつながり

シンハラ王国の歴史は、単にスリランカの古代・中世史というだけでなく、現代のスリランカ社会や政治を理解するうえでも重要な背景となっています。まず第一に、仏教王権の伝統です。アヌラーダプラ以来、シンハラ王たちは仏教を保護し、僧院や仏塔の建設に力を注ぎました。この「仏教を守る王」というイメージは、植民地期を経た20世紀の民族運動においても、「シンハラ人=仏教徒」「スリランカは仏教の島」という意識として再活性化します。

第二に、シンハラ人とタミル人の関係です。古代から中世にかけて、シンハラ王国と南インド・タミル政権との間には、戦争と同時に交易や婚姻を通じた交流も存在していました。しかし、植民地期に人口移動と経済構造の変化が重なり、20世紀には民族間の緊張が高まります。シンハラ王国の歴史的記憶は、ときに「この島はシンハラ仏教徒のものだ」という排他的なナショナリズムと結びつけられることもあり、内戦と紛争の一因ともなりました。

第三に、灌漑と水利をめぐる伝統です。古代の王たちが築いた貯水池や運河の遺構は、現在もスリランカの農業と生活を支える重要なインフラの一部となっています。近代の技術によるダムや灌漑事業も、しばしば古代シンハラ王国の遺産を参照しながら計画されました。水を管理することが統治の基盤であったという発想は、現代の開発政策にも影響を与え続けています。

現代のスリランカでは、アヌラーダプラやポロンナルワ、キャンディといった旧王都は世界遺産にも登録され、多数の仏教徒巡礼者と観光客が訪れる場となっています。王国の遺跡は、宗教的な聖地であると同時に、「民族の誇り」を象徴する場所としても位置づけられています。他方で、それらの遺跡が特定民族だけのものではなく、多様な背景を持つ人びとに共有されるべき文化遺産であるという視点も重視されるようになっています。

世界史で「シンハラ王国」という用語に触れるとき、単に「スリランカの古代王国」とだけ覚えるのではなく、「仏教王権」「内陸高地の灌漑国家」「南インド・ヨーロッパ勢力とのせめぎ合い」「シンハラ人とタミル人の長い関係」といったキーワードをあわせて思い浮かべてみてください。そうすることで、インド洋世界の一角に位置するこの島の歴史が、はるかに多層的でダイナミックなものとして見えてくるはずです。