アブデュルハミト2世 – 世界史用語集

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アブデュルハミト2世の即位と治世の開始

アブデュルハミト2世(在位:1876–1909年)は、オスマン帝国の第34代スルタンであり、帝国の衰退期における最も重要な統治者の一人です。彼は1876年に即位し、オスマン帝国の近代化と存続のためにさまざまな施策を行いましたが、その統治はしばしば「専制政治」として記憶されています。

即位当初、アブデュルハミト2世は立憲制の導入を約束しました。これはヨーロッパ列強の圧力と国内改革派の要求に応えるものであり、1876年にはオスマン帝国初の憲法(ミドハト憲法)が制定されました。しかし、翌1877年に露土戦争(ロシア=トルコ戦争)が勃発すると、帝国は深刻な危機に直面しました。この戦争で大敗したオスマン帝国は領土を大きく失い、アブデュルハミト2世は議会を解散し、憲法を停止して事実上の専制体制に移行しました。

専制政治と国内統治

アブデュルハミト2世の治世は「専制の時代」と呼ばれます。彼は憲法と議会を停止し、絶対的な権力を保持しました。秘密警察の強化や検閲制度を通じて反対派を抑圧し、帝国内の政治的自由は大きく制限されました。この統治スタイルは国内外から批判されましたが、一方でオスマン帝国の中央集権化を進める効果もありました。

アブデュルハミト2世は教育やインフラ整備を重視しました。学校制度の拡充や鉄道建設、通信網の整備などは帝国の近代化に寄与しました。特にヒジャーズ鉄道の建設は、イスラム世界との結びつきを強化する象徴的な事業となりました。

しかし、国内には依然として民族運動が広がっていました。バルカン半島ではギリシア人、ブルガリア人、セルビア人などが民族独立を求めて闘い、アルメニア人の民族運動も激化しました。アブデュルハミト2世はこれらに対して強硬な弾圧を行い、特にアルメニア人に対する大量虐殺(いわゆる「ハミディエ虐殺」)は国際的な非難を浴びました。

パン=イスラーム主義と外交政策

アブデュルハミト2世の特徴的な政策の一つが「パン=イスラーム主義」でした。彼はオスマン帝国のスルタンであると同時にカリフ(イスラム世界の宗教的指導者)でもあり、その地位を活用して世界中のムスリムに団結を呼びかけました。これにより、帝国内のイスラム教徒の忠誠を維持し、さらにイギリス領インドなどの植民地に住むイスラム教徒の支持を得ようとしたのです。

外交においては、列強の均衡を利用する「バランス外交」を展開しました。ロシアに対抗するためにドイツ帝国と接近し、カイザー・ヴィルヘルム2世との関係を深めました。ドイツの技術協力を得て鉄道建設などの近代化事業を推進した一方で、イギリスやフランスとも一定の関係を維持しました。この柔軟な外交は一時的に帝国の生存を支えることになりました。

退位と歴史的意義

20世紀初頭になると、アブデュルハミト2世の専制政治に対する反発は一層強まりました。青年トルコ人運動と呼ばれる改革派が勢力を拡大し、1908年には「青年トルコ人革命」が勃発しました。この革命により憲法が復活し、議会政治が再開されました。アブデュルハミト2世は形式上スルタンの地位に留まりましたが、権力は大きく制約されました。

翌1909年にはイスタンブルで反乱が発生しましたが、青年トルコ人がこれを鎮圧し、アブデュルハミト2世は退位させられました。彼は生涯をイスタンブルの外れで過ごし、1918年に死去しました。

アブデュルハミト2世の治世は、オスマン帝国の近代史において「専制と改革」「宗教と民族問題」「外交的バランス」という三つの側面を象徴する時代でした。彼の強権的な統治は多くの批判を招きましたが、同時に帝国の延命に一定の役割を果たしたことも否定できません。その遺産は、オスマン帝国崩壊後のトルコ共和国や中東の政治思想に少なからぬ影響を残しました。