ギベリン(皇帝党)とは、中世後期のイタリアを中心に、神聖ローマ皇帝の権威と利害に肩入れした政治勢力の呼称です。しばしばライバルのグエルフ(教皇党)と対置され、都市国家どうし、または同一都市の内部においても長期的な派閥抗争を引き起こしました。要するに、ローマ教皇と皇帝が優位を争った時代に、皇帝側の立場から都市の統治や対外関係を進めようとした人びとの総称がギベリンです。都市ごとに事情は異なりますが、貴族的な一族や皇帝の封臣、帝国の通商政策や治安維持にメリットを感じる商人・職能集団が核となり、都市の政権運営や軍事同盟、対教皇領政策に影響を与えました。まずは〈教皇vs皇帝〉という大枠の対立が、イタリア都市の政治・社会・経済の細部にまで染みこんだ結果生まれた派閥名だ、と理解すれば十分です。
この呼称は、ドイツの諸侯・騎士のあいだで唱えられた「ヴァイブルク(Waiblingen)」という地名に由来するといわれ、シュタウフェン家(ホーエンシュタウフェン朝)の支持勢力を指す合言葉が、イタリアで皇帝支持派一般の名称へと転用されました。対立するグエルフ(教皇党)は、ヴェルフ家(Welf)に結びつけられて説明されるのが通例です。こうした合言葉の拡張と転用は、単なる戦場の叫びにとどまらず、都市の制度や法、婚姻関係、商取引の相手選びにまで影響を及ぼし、数十年単位で政治地図を塗り替えました。以下では、ギベリンという用語の成立背景、社会的基盤、主要な事件、そして名称が後世にのこした記憶のあり方を、もう少し具体的に見ていきます。
起源と名称の由来――「ヴァイブルク」から「ギベリン」へ
ギベリンという言葉の出自は、12世紀から13世紀にかけてのドイツ・イタリア複合世界にあります。皇帝位をめぐる勢力は、シュタウフェン家とヴェルフ家の対立という構図を背景に持ち、ドイツの戦場では兵が自陣の合言葉として「ヴァイブルク!」と叫び、相手は「ヴェルフ!」と呼応したと伝えられます。この合言葉がイタリア化して「ギベリン(Ghibellino)」と「グエルフ(Guelfo)」となり、やがて皇帝支持・教皇支持という二大ラベルとして定着しました。名称の普及は言語の問題だけでなく、政治的・軍事的介入の制度化と連動していました。すなわち、皇帝側は帝国直轄地やイタリアの封土を通して裁判権・関税権・鉱山権などの「帝国権利(レガーリア)」を再主張し、教皇側は教皇領の防衛や都市の自治を支援することで、都市社会の利害を巻き込みました。
用語の成立期において、ギベリンは必ずしも固定したイデオロギーを持つわけではありませんでした。皇帝のイタリア遠征に随従した諸侯や騎士、都市貴族は、権威秩序の維持や自らの特権保全を求めて皇帝と結びつきました。一方で、同じ都市においても交易利得や対外同盟の都合から立場はしばしば揺れ動き、ギベリンとグエルフが入れ替わることも珍しくありませんでした。つまり、ギベリンは理念だけでなく、きわめて現実的な都市政治の利害調整の名札でもあったのです。
都市社会と政治構造――誰がなぜ皇帝党になるのか
ギベリンの中核とされたのは、騎士的な武装貴族層(マグニャーティ)や、皇帝からの特許に基づく都市内の有力家系でした。彼らはしばしば城郭・塔屋敷を持ち、私的軍事力の動員が可能でした。皇帝側に立つ理由は多様で、第一に、皇帝が都市に付与する特権(市場開催権、通行・関税の免除、裁判権の確認など)が自家の経済的利益を守るために有効だったこと、第二に、教皇や教皇領が近隣に強い影響力を持つ地域(たとえばローマやボローニャ周辺)では、均衡のために皇帝の後ろ盾が必要だったこと、第三に、都市内の社会対立――商人ギルドや職人組合(ポポロ)と貴族層の軋轢――が外部の大権威への接着を促したことが挙げられます。
一方で、グエルフは大商人層やギルドの台頭と親和的で、都市の自治制度(コムーネ)の拡大を支持する傾向が強かったといわれます。ただし実態は都市によってまちまちで、フィレンツェのようにグエルフ優位が長く続いた都市でも、内部は「白派」「黒派」に分裂し、皇帝党・教皇党という二項対立だけでは説明できない複雑さを示しました。ギベリンとグエルフは、都市の執政官選出、傭兵の雇用、城壁や橋の建設、徴税や貨幣鋳造の権限配分など、具体的な行政・財政・軍事政策に直結するラベルであり、対立はすなわち都市国家の制度設計をめぐる綱引きでした。
また、地理的条件も派閥選択を左右しました。アルプス以北との交易路や帝国直轄地に近いロンバルディア平原の都市は、皇帝の保護を受けることで通商の安定や関税の一体化を期待できました。他方、トスカーナやローマ近郊では、教皇庁との近接性や教会財産への依存がグエルフ的志向を強めました。ギベリンは、単なる「皇帝好き」の集団ではなく、地理・経済・身分・制度の諸条件を束ねる実利的な選択の帰結だったのです。
主要な局面と転機――シュタウフェンからアンジュー、そして没落へ
ギベリンが歴史の表舞台で最も力を振るったのは、シュタウフェン朝の諸皇帝、とりわけフリードリヒ1世(赤髭王)と孫のフリードリヒ2世の時代でした。赤髭王のロンバルディア遠征は、都市同盟との戦闘(レニャーノの戦い)を通じて皇帝権再建の限界を示しつつも、皇帝党・教皇党の線引きを鮮明にしました。フリードリヒ2世は、南イタリアの王権(シチリア王国)と皇帝位を併せ持つという稀有な立場から、イタリア政策を強力に推し進め、ロンバルディア諸都市やトスカーナでギベリン勢力を鼓舞しました。彼の晩年、しばしば破門と和平を繰り返した教皇庁との緊張は、都市内の内戦を激化させ、街路戦や塔屋敷の攻防が日常化しました。
フリードリヒ2世の没後、帝位は空位期や対立王の併存を経て権威が低下し、イタリアでのギベリンの求心力は揺らぎます。転機となったのは、ナポリ・シチリア支配をめぐるアンジュー家(フランス系)とホーエンシュタウフェン家残党の争いでした。1268年のタリアコッツォの戦いは、シュタウフェンの血を引くコッラディーノが敗れる象徴的敗北で、南イタリアにおけるギベリンの挽回余地を大きく削りました。とはいえ、北中部イタリアでは、ヴェローナのスカラ家、ミラノのヴィスコンティ家、モデナやフェラーラの支配層など、ギベリンを自認する都市政権がなおも勢力を保ち、たがいに連携して教皇党に対抗しました。
14世紀に入ると、イタリア政治は外部勢力の再編と銭金の力学に大きく左右されます。神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世(ルクセンブルク家)のイタリア遠征(1310–13年)は、ギベリンに一時的な復権をもたらしましたが、皇帝の早逝で持続性を欠きました。続くルートヴィヒ4世(バイエルン公)のローマ戴冠強行や、対立教皇の擁立といった強硬策も、都市の支持を長くはつなぎ止められませんでした。傭兵隊長(コンドッティエーレ)の時代の到来は、派閥の理念よりも雇用主の財布が戦局を左右する局面を増やし、ギベリン/グエルフという古い枠は次第に実態を失っていきます。
具体的な都市史に目を転じると、フィレンツェはグエルフ優位の代表例として知られますが、ダンテ・アリギエーリの追放に関わる「白派」「黒派」の抗争は、教皇との距離や皇帝への期待をめぐる微妙な差異を映し出しました。ピサやシエナ、アレッツォなどは長くギベリン色の濃い都市で、ピサは海上覇権と通商利益の確保のために皇帝との結びつきを重視しました。1289年のカンパルディーノの戦いでアレッツォのギベリン軍が敗れるなど、各地で勝敗は揺れ動きましたが、総合すれば14世紀半ばまでにグエルフ的秩序(ギルドに基盤を置く統治)が制度として優位になっていきます。
こうしてギベリンは、15世紀には名称としては残りつつも、実質的には「皇帝党」という機能を失い、都市の名家や領主家の家格表現、あるいは過去の栄光を示すレトリックへと変質しました。ミラノのヴィスコンティ=スフォルツァ支配やフィレンツェのメディチ家の台頭は、もはや皇帝か教皇かという枠では捉えきれない、新しい主権と金融・文化パトロネージの論理を前面に押し出しました。
用語の変遷と記憶――文学・法・都市景観にのこる痕跡
ギベリンという名称は、政治実態としての賞味期限を過ぎたのちも、文化的記憶の層に深く沈殿しました。文学ではダンテが『神曲』でフィレンツェの党派抗争を背景に自己の運命を語り、登場人物の配置や地名の選択にギベリン/グエルフの余燼が見え隠れします。年代記や都市史の編纂物は、各家の出自や党派色を誇示・糾弾する場となり、後代の歴史家はそこから政治文化の感情史を読み解いてきました。
法制度の領域でも痕跡は明瞭です。勝者が制定した法はしばしば敗者の権利を制限し、追放令(バンディ)や財産没収、塔屋敷の破却などが行われました。都市景観に残る切断された塔や、石積みの違いは、派閥抗争の物的記録ともいえます。都市の公共建築――政庁舎、司教座聖堂、城壁の門――をめぐる紋章や碑文は、どの勢力がいつ優位であったかを雄弁に物語ります。ギベリンの鷲章や、帝国の象徴を掲げる権利は、都市の対外的威信と結びついていました。
また、用語の使用範囲も時代とともに拡張・転用されました。イタリア以外の地域でも、皇帝寄りの姿勢や中央集権的傾向を示す勢力に対して比喩的に「ギベリン」と呼ぶ例が現れます。もっとも、厳密な学術用語としての用法は、12~14世紀イタリアの都市政治に限定されるべきだという指摘が一般的です。派閥名が常にイデオロギーの純粋表現であったわけではないこと、都市ごとの編成原理が異なること、党派帰属が血縁・地縁・経済利害によって頻繁に変化したことを踏まえれば、ギベリンという語は「歴史上の便利なラベル」であると同時に、「具体の事例に即して再定義されるべき可変概念」でもありました。
総じて、ギベリン(皇帝党)は、帝国と教皇という二つの普遍権威が張り合う時代に、イタリア都市の政治社会がとった一つの自己組織化の形でした。皇帝の威信・法・軍事的後ろ盾を梃子に、都市の利害と身分秩序を守ろうとした人びとがいた一方で、同じ都市の別の層は、自治・ギルド・商業の自由を守るために教皇側へ傾きました。両者のせめぎ合いが、城壁の線引き、法の条文、商人の帳簿、塔の高さにまで刻み込まれているのが、中世イタリア史のダイナミズムです。ギベリンという名前は、そのダイナミズムを読み解く入口として、今もなお教科書と研究書のページに生き続けています。

