ジンバブエ独立(ジンバブエどくりつ)とは、アフリカ南部の英国植民地ローデシアが、長い白人少数支配と武装闘争を経て、1980年に「ジンバブエ共和国」として正式に独立した出来事を指します。地図の上では「国名がローデシアからジンバブエに変わった」「イギリス植民地が独立した」と一言で説明されがちですが、その背景には、入植者による土地支配、人種差別的な政治制度、アフリカ民族主義の高まり、ゲリラ戦争、国際制裁と仲介外交など、複雑な過程が折り重なっています。
ジンバブエ独立までの流れを大づかみに見ると、①19世紀末のイギリス系白人の入植と南ローデシア植民地の成立、②第二次世界大戦後も続いた白人少数支配と人種差別体制、③1965年の白人政権による一方的な「ローデシア独立宣言(UDI)」、④これに対抗するアフリカ系住民の武装闘争(ゲリラ戦)と国際社会の制裁、⑤1979〜80年のランカスター・ハウス会議と選挙を経ての正式独立、という段階に分けて理解することができます。
世界史の教科書では、「白人政権ローデシアが黒人多数の民族解放闘争の結果として倒され、ジンバブエとして独立した」という一文で片づけられることも多いですが、そのプロセスを少し丁寧にたどると、植民地支配の仕組みがどのように作られたのか、それに対してアフリカ側がどのような戦略と言語で立ち向かったのか、そして独立がどのような妥協と合意の上に成り立ったのかが見えてきます。
ローデシア支配の成立と白人少数支配
現在ジンバブエと呼ばれている地域は、かつてグレート・ジンバブエ遺跡に代表されるショナ系王国など、アフリカの独自の国家と交易ネットワークが存在していた土地です。15〜19世紀にかけては、金や象牙、後には奴隷などがスワヒリ商人やポルトガル人を通じてインド洋世界と結びつき、内陸と海岸を結ぶ交易が行われていました。
19世紀末になると、アフリカ分割の流れの中で、イギリス人セシル=ローズ率いる南アフリカ会社(ブリティッシュ・サウス・アフリカ・カンパニー)がこの地域に進出します。ローズは鉱山開発と鉄道建設を名目に各地の首長と条約を結び、事実上会社による支配を進めました。やがてこの地域は「南ローデシア」と呼ばれるようになり、イギリスの保護領・植民地として位置づけられていきます。
南ローデシアでは、ヨーロッパ系入植者が土地の多くを占有し、アフリカ人は「原住民保留地」に押し込められました。肥沃で気候のよい土地は白人農場主に割り当てられ、アフリカ人は小さな土地で自給的農業を行いながら、農場や鉱山で低賃金労働者として働くことを強いられます。土地と労働を支配することで、白人少数派が政治・経済の実権を握る構図が形づくられました。
政治制度の面でも、人種差別的な枠組みが整えられました。選挙権は一定以上の所得や教育を条件とする「制限選挙」とされ、実際にはほとんどが白人入植者によって占められました。アフリカ系住民は人口の大多数を占めていながら、議会での代表をほとんど持てず、法律や税制、教育・労働政策は白人社会の利益に沿って決められていきます。この点で、南ローデシアの体制は、南アフリカ連邦のアパルトヘイト体制と似た構造を持っていました。
第二次世界大戦後、世界的に植民地独立の波が広がるなかで、アフリカ各地ではアフリカ民族主義が台頭します。ガーナやケニア、タンザニアなどでは、イギリスとの交渉や武装闘争を通じて次々と独立が実現していきました。しかし、南ローデシアでは白人入植者の人口比率が比較的高く、彼らの特権的地位への執着も強かったため、「多数を占める黒人への一人一票の選挙権付与」に対して激しい抵抗がありました。ここが、他の英領アフリカ植民地と大きく異なる点でした。
ローデシア単独独立宣言(UDI)と武装闘争の激化
1960年代に入ると、イギリス本国は「植民地の多くを多数派支配のもとで独立させる」という方針を明確にし、南ローデシアにも黒人多数の政治参加拡大を求めるようになります。しかし、ローデシアの白人政権はこれに激しく反発しました。彼らにとって、「一人一票の原則」は、自らの政治的支配が終わり、土地所有や経済的利権が脅かされることを意味していたからです。
白人入植者を基盤とする政党ローデシア戦線を率いたイアン=スミスは、イギリスとの交渉が行き詰まるなか、1965年、一方的に「ローデシアの独立」を宣言しました。これは、宗主国であるイギリスの承認を得ずに、白人少数派政権が自らを「独立国家」と称したもので、国際法的には認められませんでした。この事件は「一方的独立宣言(UDI)」と呼ばれます。
UDI に対して、イギリスや国連、アフリカ諸国は強い非難を浴びせ、ローデシアに対する経済制裁が科されました。南アフリカやポルトガル領モザンビークなど、周辺の白人支配・植民地政権がローデシアを支援したため、制裁の効果は限定的でしたが、それでもローデシア経済は徐々に圧迫されていきます。
一方、国内のアフリカ系住民の間では、政治結社や民族主義団体が組織され、白人政権に対する抵抗運動が強まっていました。代表的な組織として、ロバート=ムガベらが率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)、ジョシュア=ンコモらのジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)があります。両者はイデオロギーや民族構成などに違いを抱えつつも、共通して「白人少数支配の終結」と「多数を占める黒人の政治的権利」を求めて活動しました。
1960年代後半から70年代にかけて、ZANU や ZAPU は隣国ザンビアやモザンビーク(ポルトガルから独立後のFRELIMO政権など)を拠点にゲリラ部隊を組織し、ローデシア政府軍との間で武装闘争(ブッシュ・ウォー)が激化していきます。鉄道や農場、警察施設などが攻撃対象となり、政府軍側も村落への掃討作戦や住民の強制移住など、苛烈な対抗措置を取ったため、農村部を中心に多くの民間人が被害を受けました。
この長期化する内戦は、ローデシア経済と社会に深刻な疲弊をもたらし、白人社会内部でも「このまま戦争を続けられるのか」という疑問の声が広がっていきます。国際的にも、アフリカ独立の流れがほぼ一巡し、ポルトガル帝国が1974年のカーネーション革命で崩壊してモザンビーク・アンゴラが独立するなど、状況は大きく変化しました。ローデシア政権は、もはや孤立を深める一方となりました。
ランカスター・ハウス会議とジンバブエ独立の実現
1970年代後半になると、ローデシア問題をめぐって、イギリス本国・アフリカ諸国・アメリカなどが仲介に乗り出し、政治解決への道が模索されるようになります。ポイントは、「武装闘争を続けている民族主義勢力を含めて、いかに新しい政治枠組みを作るか」「白人少数派の権利や安全をどのように保障するか」「土地問題をどう扱うか」といった点でした。
1979年、ロンドンのランカスター・ハウスで、ローデシア白人政権の代表と、ZANU・ZAPUを含む民族主義勢力、そしてイギリス政府代表が集まり、包括的な交渉が行われました。これがランカスター・ハウス会議です。長時間にわたる交渉の末、①一時的にイギリスがローデシアを再び直接統治の形で引き取り、②すべての住民が参加できる選挙を行い、③その結果にもとづいて新国家を独立させる、という枠組みで合意が成立します。
土地問題については、白人農場主の土地をすぐに強制収用するのではなく、「志願売却+補償」の原則を採用し、将来的な土地改革を段階的に進めることが取り決められました。この点は、武装闘争を続けてきた側にとっては譲歩でもありましたが、白人側の抵抗を和らげ、独立への移行を比較的スムーズにする妥協案でもありました。
ランカスター・ハウス合意にもとづき、1979年末〜1980年初頭にかけて、イギリスの監督下で総選挙が実施されました。この選挙では、ZANU(ムガベ)とZAPU(ンコモ)、白人系政党などが争いましたが、結果としてZANUが多数の議席を獲得し、ムガベが新政府の首相として指名されます。白人側にも、議会内の一定議席が保障される仕組みが暫定的に設けられました。
1980年4月18日、旧ローデシアは正式に「ジンバブエ共和国」として独立を宣言しました。国名は、中世のショナ系王国と石造遺跡に由来する「ジンバブエ(石の家の意)」を採用し、植民地期の名称ローデシアと決別しました。首都は当時ソールズベリーと呼ばれていましたが、のちにハラレと改称されます。国旗も新たに制定され、解放闘争と農業を象徴する緑・黄・赤・黒の色彩が用いられました。
独立ジンバブエの出発とその背景
独立直後のジンバブエは、長い内戦と制裁からの回復と、新しい多民族国家の建設という、難しい課題に直面していました。政治的には、ZANUを中心とする政府と、ZAPUを支持基盤とする地域勢力の関係調整が大きなテーマとなりました。両組織は独立闘争期から連携と対立を繰り返しており、内戦から統一国家への移行には、軍や行政機構の再編が不可欠でした。
経済面では、独立時点でのジンバブエは、農業・鉱業・製造業などが比較的発達しており、インフラも一定程度整備されていました。これは、ローデシア時代に白人社会向けに作られた経済構造が、そのまま残されていたことによるものです。ただし、その成果の多くは白人農場主や都市の富裕層に偏っており、農村の多数を占める黒人農民の生活は依然として厳しいままでした。独立後の政府は教育と保健への投資を増やし、識字率の向上や基礎医療の普及に一定の成果をあげていきますが、土地再分配など根本的な構造改革には時間がかかりました。
国際関係の面では、ジンバブエはアフリカ諸国、とくに南部アフリカ地域との連帯を重視しつつ、西側諸国とも一定の関係を維持しました。南アフリカ共和国やナミビア(当時は南ア支配下の南西アフリカ)における反アパルトヘイト闘争を支援する拠点の一つともなり、冷戦構造と地域解放運動の中で、ジンバブエは重要な位置を占めました。
同時に、独立過程で取り決められた妥協点――たとえば白人農場主の土地所有を一定期間維持する約束や、議会内の白人枠――をどう扱うかは、国内政治の議論の的となり続けました。時間の経過とともに、「解放闘争の正当な成果として、より急進的な土地改革や経済的再分配を行うべきだ」という声が強まり、その後のジンバブエ政治のゆらぎと対外関係の変化につながっていきます。
ジンバブエ独立という出来事は、アフリカ南部で最後まで残った白人少数支配の一角が崩れ、多数を占めるアフリカ系住民が形式的・法的な意味での主権を手にした転換点でした。その一方で、植民地期から続く土地所有構造や経済格差、武装闘争の記憶と地域・民族間の緊張など、多くの課題を抱えたスタートでもありました。独立に至るまでの道筋と、その直後の状況を押さえておくと、ジンバブエという国がたどってきたその後の歩みを考える際の前提として役立ちます。

