護国卿 – 世界史用語集

護国卿(ごこくきょう、Lord Protector)は、17世紀半ばのイングランド共和国において国家元首の地位を示す称号で、主にオリヴァー・クロムウェル(在任1653–1658)と、その子リチャード・クロムウェル(在任1658–1659)の二人を指します。王政崩壊(チャールズ1世処刑、1649)後の国家運営を、軍と議会の力学、清教徒(ピューリタン)諸派の宗教政策、対外戦争と貿易競争の中で舵取りするために創設された非常設の最高職でした。護国卿の制度は、王冠なき「共和的君主制」とも言える強い行政府を志向しつつ、憲法文書(『政府章典』1653/『謙虚なる請願と勧告』1657)により権限と統制を規定しようとした試みです。短命に終わりましたが、イングランド史上初の成文憲法と内外政策の集中指導、宗教的寛容の一部導入、海運・通商の覇権追求など、近代的統治の先駆的要素を示しました。他方、軍事政権化への不信、議会との持続的対立、財政基盤の脆弱さが破綻を招き、1660年の王政復古へとつながります。本稿では、成立の背景、制度と権限、内政・宗教・外交の実際、終焉と歴史的評価を整理して解説します。

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成立の背景:内戦・共和国・軍の台頭と「政府章典」

護国卿の職は、イングランド内戦(1642–51)の余波の中で誕生しました。国王派(王党)と議会派の抗争は、ニューモデル軍の勝利とともに王政の正当性を根底から揺さぶり、1649年にチャールズ1世は反逆罪で処刑されます。王権廃止後の政体は「コモンウェルス(共和国)」と称され、名目上は議会(下院)と「国家評議会(Council of State)」が統治しましたが、実権は勝利の中心であった軍(将校団)と、その政治的指導者クロムウェルに集中しました。

ところが、共和国初期の議員残留院(Rump Parliament)は、選挙改革・宗教和解・財政再建に腰が重く、軍の期待に応えられません。クロムウェルは1653年4月に軍を率いて残留院を解散させ、同年夏に一時的な代替機関(通称〈ベアボーンズ議会〉)を召集しますが、ここでも急進派と穏健派の妥協は難航しました。政治空白を埋めるため、同年12月、法学者ランバートらが起草したイングランド初の成文憲法『政府章典(Instrument of Government)』が公布され、強力な行政府の長として〈護国卿〉が置かれます。

この文書は、〈護国卿—枢密会に似た評議会—単院議会(3年ごと召集)〉という三権的枠組みを設計し、護国卿の非常時権限(軍の指揮・外交・官吏任命)と、議会による課税・立法権の分有をうたいました。王冠は拒絶されましたが、統治の安定のためには「人格と制度」に支えられた常続的な執政府が必要だという、当時の保守的リアリズムが反映されています。

制度と権限:護国卿の地位、評議会、議会との関係

護国卿は、国家元首として軍の最高指揮権を持ち、外交関係の管理、官職任命、恩赦の付与など広範な権能を行使しました。ただし単独専制を避けるため、20名前後の〈国家評議会(Council)〉が設置され、政策決定は原則として評議会の助言・承認を経ることになっていました。護国卿は3年ごとの議会召集義務を負い、課税は議会の同意を要します。これらは、王権の恣意を抑えた「憲法的独裁」に近い構図でした。

クロムウェル期に問題となったのは、議会との持続的な緊張です。1654年・1656年と二度の護国卿議会が召集されましたが、宗教・選挙制度・軍費・地方統治をめぐり対立が絶えません。1655年には国内の王党蜂起(ペナライズ、ペンルダンド蜂起)に対処するため、全国を十数区に分けて軍の〈メジャー=ジェネラル(軍政官)〉を派遣し、治安と道徳規律(サベス守護・飲酒賭博取締り)を強化しました。これは秩序回復に効果を持つ一方、軍政の押し付けとして反発を招きます。

制度的な改編として注目されるのが、1657年の『謙虚なる請願と勧告(Humble Petition and Advice)』です。これは、上院に相当する第二院の創設、財政・官制の整理、護国卿の権限の再確認を含む一連の「憲政再設計」で、議会はクロムウェルに王位受諾を迫りました。クロムウェルは最終的に王冠を拒否しつつ、護国卿職の世襲可能化と第二院(Lords)設置を受け入れ、〈共和国の衣をまとった半君主制〉へと制度を寄せていきます。

内政と宗教:秩序回復、寛容と抑圧の併走、経済・法の整備

クロムウェルの内政は、治安回復と財政再建、宗教政策の調整に力点が置かれました。まず治安面では、郡ごとの治安官・治安判事の統制強化、軍政官区制による反乱予防、密輸・海賊対策、道路・橋梁の維持など、日常統治の平準化を進めます。財政面では、戦時債務の圧縮、専売(たとえば塩)や関税・消費税(エクセイズ)の整理、徴税の効率化が図られましたが、継続的な軍事費の負担は大きく、恒常的な財政難がつきまといました。

宗教政策は、〈国教会の強制的均質化を避けつつ、反国家的急進を抑える〉という、現実的折衷の色彩が強いものでした。クロムウェルは、長老派・独立派・バプテスト・クエーカーなどのプロテスタント分派に対して一定の自由を認め、牧師の任免や教会財産の監督を通じて〈良心の自由〉を部分的に保護しました。他方、対国家的陰謀とみなされた急進派(レヴェラーズ/第5王国派)に対しては厳しく臨み、カトリックに対してはとりわけアイルランドでの苛烈な鎮圧・没収政策(1649–50の軍事遠征の帰結)が続きました。ユダヤ人の再受け入れ(1656)は、経済・金融の実利と宗教寛容の象徴的措置として評価されます。

法と経済では、商業・海運の振興と裁判の能率化が進められました。航海条例(1651)自体は共和国初期の制定ですが、護国卿体制下で厳格に運用され、イングランド船の積取原則を軸にオランダの中継貿易に挑戦します。破産法・海事裁判の整備、植民地統治と税関の強化、都市自治体の監督などが進み、ロンドンの金融・保険・取引制度の近代化にテコがかかりました。

外交と軍事:対蘭・対西・対仏の三角と「海洋国家」への助走

護国卿期の対外政策は、海上覇権と商業利益を軸に展開しました。第一に、第一次英蘭戦争(1652–54)は、航海条例をめぐる競争の激化から生じ、激戦の末に講和(ウェストミンスター条約)でイングランドの旗礼要求と通商上の一部優位が確認されます。第二に、1655年の「西インド作戦(Western Design)」では、スペイン帝国のカリブ拠点攻撃に踏み切り、敗北(サントドミンゴ)を経てジャマイカの占領に成功しました。砂糖と奴隷貿易をめぐる帝国競争に本格参入する門戸が開きます。

第三に、対仏・対西の均衡操作です。フランス・スペインの大国抗争(17世紀フロンデ以後の継続)を背景に、クロムウェル政権はフランスと提携してスペインと戦い、1658年、ダンケルクの攻略に協力してこれを一時取得します(のちに王政復古後、英王室がルイ14世に売却)。この一連の政策は、王権に依らずともイングランドが海運・植民・通商の「国益」を追求しうることを示し、後の英海洋帝国のプレリュードとなりました。

終焉と評価:リチャードの失脚、長期影響と限界

1658年、クロムウェルが死去すると、護国卿位は子のリチャードに継承されました。『謙虚なる請願と勧告』はこの世襲を容認していたものの、リチャードには軍への統率力・威信が不足し、将校団と議会・市民勢力のあいだの調停に失敗します。1659年春、軍の圧力で議会は解散に追い込まれ、政治は混迷に陥りました。最終的に将軍モンクが介入して旧来の議会を再開・王政復古の道筋をつけ、1660年、チャールズ2世が帰国して王位に就きます。護国卿制度はわずか数年で幕を閉じました。

それでも護国卿期の遺産は無視できません。第一に、『政府章典』と『謙虚なる請願と勧告』は、イングランドにおける最初期の成文憲法であり、行政府と議会の権限配分、定期召集、信教の自由の限定的承認といった原理を、文書として可視化しました。第二に、国家の〈常備軍〉が政治の中心に座る危険と、軍事的安全保障のための課税・財政・行政の恒常化が、王権の有無を超えて〈国家〉を近代化させることを示しました。第三に、海運・植民・貿易利益を国家戦略の中心にすえる発想は、王政復古後のステュアート朝や18世紀の重商主義にも連続します。

同時に、限界も明確でした。護国卿体制は、軍に依存した統治基盤のもろさ、宗派対立と地域利害の調停不足、財政・税制の社会的受容の欠如、議会と行政府の信頼欠落という構造的問題を解決できませんでした。クロムウェル個人のカリスマによって維持された均衡は、彼の死とともに崩れたのです。王政復古後、政敵の記憶や財産没収の問題、宗教寛容をめぐる揺り戻しは続きましたが、〈議会主権〉と〈責任内閣〉へ進む長い道のりの中で、護国卿は一度限りの逸脱ではなく、近代イギリス国家が〈強い行政府〉と〈議会統制〉のはざまで試行錯誤した重要段階として位置づけられます。

総じて護国卿とは、王権を欠いた空白を埋めるための仮設的な「国家の守り手」でした。そこでは、宗教と政治の境界、軍と民の力学、海洋と大陸の戦略、自由と秩序のバランスが、かつてないほど露出しました。短命で矛盾に満ちた制度であったからこそ、近代国家がどのようにして権力の集中と統制を両立させるのかという普遍的な問いを、具体的な歴史経験として私たちに残しているのです。