カラコルム(Karakorum、モンゴル語:ハラホリン/ハルホリン)は、13世紀にモンゴル帝国がオルホン川流域(現モンゴル国・中央部)に築いた都城であり、オゴデイ=ハーン時代を中心に、帝国の政治・軍事・交易の要として機能した都市です。チンギス=ハーンが遠征の基地として設けた営所を拡張し、1230年代に宮殿と城壁を整えたのち、クビライが大都(漢名:元の大都/北京)へ遷都するまで、遊牧世界の可動性と定住都市の制度が交差する独特の首都空間が姿を現しました。工人・商人・宗教者がユーラシア各地から集められ、イスラーム、仏教、道教、景教(ネストリウス派キリスト教)など異なる信仰が同居し、鋳造や金工、革細工、陶工、木工などの工房が高度な分業のもとに並びました。西方宣教師が記した銀の樹の噴水や、多宗教の礼拝施設が並立する姿は、カラコルムの「帝国の縮図」的性格を象徴しています。遷都後は政治的中心性を失い、14世紀末の明軍の侵攻で破壊されましたが、その遺構の上に建立されたエルデニ・ゾー寺院や、オルホン渓谷の文化的景観(世界遺産)は、モンゴル帝国史を物質的に語り継いでいます。以下では、成立と位置づけ、都市の構造と多文化、ユーラシア的ネットワークと記録、衰退と遺跡・研究史の四つの観点から、カラコルムの実像をわかりやすく整理します。
成立と位置づけ――オルホンの「野営」から帝国の首都へ
カラコルムが築かれたのは、モンゴル高原中央を南北に貫くオルホン川流域、とりわけ草原と山地の境目に広がる緩やかな台地です。周囲は遊牧に適した草地と、森林資源・河川水・河岸段丘の地形が組み合わさり、季節移動(オトル)と定住を両立しやすい環境でした。チンギス=ハーンは13世紀初頭、ここに軍営と倉営、工房を伴う拠点を置き、遠征時の集結地点・捕虜や工人の再配置の場としました。彼の死後、第三代カアンであるオゴデイ(在位1229–1241)が首都建設を本格化させ、城壁と宮殿、各種官署、工房街、市場、宗教施設の整備を進めます。
都市化の背景には、征服の拡大とともに高度な分業と行政機構が必要になったという事情があります。遊牧国家の首脳部は、従来の移動宮廷(オルド)に加え、工業生産・財政・外交を集中管理する定住の核を求めました。カラコルムは、ヤム(駅伝)網の交差点として文書と人馬が集まり、各ウルス(王家領域)を横断する政策調整の舞台となりました。モンゴル語・ウイグル語(ウイグル文字)・ペルシア語・漢語などが政務や商取引で併用され、翻訳と通訳の官職が制度化されます。
また、カラコルムは「平原の都」であると同時に、古い草原文明の記憶にも接続していました。同じオルホン谷には突厥やウイグルの碑文・城址が点在し、遊牧帝国の旧都(オルドゥ=バリク=ハルバルガス)に近接します。モンゴルは新しい帝国を掲げつつ、地理的・象徴的に草原の中心性を継承する選択を行ったのです。
都市構造と多文化――宮殿・工房・市場、宗教の並存
同時代記録と考古学の成果をつき合わせると、カラコルムの市域は長方形の城壁で囲まれ、四辺に門を開き、その内外に宮殿区・官衙・工房区・市場・居住区が配置されていました。中心にはオゴデイの宮殿が置かれ、朝賀・法令の公布・諸王の会盟(クリルタイ)に関わる儀礼空間として機能しました。宮殿は木造と土壁、石材を併用し、広い前庭と柱廊、玉座の間を備え、遠来の使節を威圧する舞台装置でもありました。
工房区では、金銀細工・鋳造・鍛冶・皮革・木工・陶工などの職能が分業的に集住し、軍需(武具・馬具)と宮廷需要(器物・装飾)に応えました。帝国各地から移住させられた工人や捕虜出身の匠が技術を持ち込み、イスラーム圏の金工、中国の陶磁・漆、中央アジアの染織などが混成したハイブリッドな美意識が育ちます。市場にはソグド・ホラズム・ペルシア・漢地・キプチャク草原の商人が出入りし、硬貨・銀塊・紙札(交鈔に先行する地域紙券)から物々交換に至るまで、多様な決済が共存しました。
宗教施設は、帝国の寛容政策を象徴します。イスラームのモスク、仏教寺院、道教観、景教(ネストリウス派)の教会が立地し、宗派間の論争や公開討論が行われたと伝えられます。宮廷は宗教者から暦法・医術・書記・財務の専門知を吸収し、宗教施設には免税や保護特権が与えられました。カラコルムの宗教多元性は、支配領域の多様性を管理する実用の知と、帝国イデオロギーの寛容性を演出する舞台の双方でした。
同時代の西方使節が記した「銀の樹」の噴水は、宮殿の饗宴空間に設置された装置で、銀製の樹から乳・酒・蜂蜜酒など異なる飲料が管を通じて噴き出す仕掛けだったとされます。これは単なる奇技ではなく、帝国が各地の産物と技術を統合して豊饒を掌握するというメッセージを視覚化したプロパガンダでした。
ユーラシア的ネットワークと記録――駅伝、使節、旅行者の目
カラコルムは、ユーラシア横断のヤム(駅伝)網の結節点として、国家通信と外交の要に位置づけられました。駅站には馬・食糧・宿舎が整えられ、パイザ(通行牌)を持つ使者は迅速な移動と補給の特権を享受しました。この仕組みは、法令や徴税、軍団の移動、情報収集を高効率化し、帝国の広域統治を支えます。カラコルムには遠国の使節・商隊・宣教師が滞在し、宮廷の謁見儀礼と都市の日常を記録に残しました。
ラテン世界からは、フランシスコ会士プラノ・カルピニ(1240年代)やウィリアム・ルブルック(1250年代)が派遣され、その旅行記は都市の規模、宗教の多様、宮廷儀礼、工房活動、遊牧と農耕の接合といったディテールを伝えています。彼らは、宮廷の多言語・多宗教環境、女性(ハトゥン)たちの政治的プレゼンス、酒宴と法の公布の儀礼、征服地からの工人移送や徴発の仕組み、そして何より「都市でありながら移動宮廷の延長」である独特のあり方を描写しました。
東方の記録では、中国語史料にオゴデイの宮殿造営、使臣往来、納貢と褒賞、法令(ヤサ)の運用などが散見されます。ペルシア語史料は、宰相や財務官の働き、貨幣と税制、職能集団の保護を補足します。これら文献と、今日の発掘成果(城壁線、宮殿基壇、工房跡、炉跡、鋳型、日用土器、金属滓)を照合することで、カラコルムの生活史が徐々に立体化しています。
衰退・遺跡と研究――遷都、破壊、エルデニ・ゾー、世界遺産
1260年代以降、クビライは帝国の重心を中国本土の大都へ移し、カラコルムは中枢性を失いました。とはいえ直ちに放棄されたわけではなく、モンゴル高原の政治拠点・宗教拠点として一定の役割を残し、諸部族の合議や軍事動員の集結地として用いられます。14世紀、元の動揺とともに北元政権が高原へ退くと、カラコルム周辺は再び軍事的緊張に晒され、1380年代には明軍の攻撃で大きく破壊されました。石材・煉瓦は後世の建築に再利用され、都市の輪郭は草原に埋没します。
16世紀後半、モンゴルの有力者が仏教復興を進めるなかで、旧城域の石材を転用してエルデニ・ゾー寺院が建立されました。四方に白い仏塔をめぐらし、多数の寺院堂宇を備えたこの大寺院は、後世の宗教中心として機能しつつ、カラコルムの記憶を視覚的に継承しました。現在、カラコルム遺跡—エルデニ・ゾーを含むオルホン渓谷の文化的景観—はユネスコ世界遺産に登録され、博物館・発掘・保存事業が進められています。
考古学的研究は、城壁線と門跡、宮殿基壇、工房区の炉・鋳型、道路敷、井戸、廃棄土坑、家畜骨の集積などを検出し、都市機能の配置と変遷を具体化してきました。金工・陶工の工房跡からは、遠隔地起源の原料や技法(イスラーム圏の錫釉、華北の灰釉、中央アジア起源の意匠など)を示す遺物が確認され、混成文化の物質的裏づけとなっています。貨幣・度量衡具、封泥(シーリング)、墨書土器の断片は、行政と商取引の痕跡を伝えます。家畜骨・植物遺存体の分析からは、遊牧(羊・馬・牛・ヤギ)と限定的な耕作(粟・麦)の併存、乳加工や屠畜の季節性が読み取られ、都市が草原経済と一体であったことが確かめられています。
カラコルムの歴史像は、単に「草原の帝国が一時的に築いた都」という以上の広がりを持ちます。そこでは、遊牧と定住、移動宮廷と都市行政、宗教多元と政治的統合、中央集権と分権的ウルスの調整という、モンゴル帝国の根源的な矛盾—あるいは創造的緊張—が、具体的な空間・制度として組み合わされていました。遷都と破壊により寿命は長くありませんでしたが、ユーラシアの東西を実際に結び、技術・人・制度を「同時に置く」ことを可能にした実験都市だったと評価できます。
総じてカラコルムは、オルホン谷の風とともに生まれ、帝国の通信・行政・交易・信仰を束ねた「平原の首都」でした。銀の樹が噴き上げた多様な飲み物は、支配下の地域社会がもつ異質な資源と知識の象徴であり、城壁の内外に並んだ工房の火は、征服の力を工業と制度へと変換する意志の光でした。遺跡は静かですが、その沈黙から読み取れるのは、ユーラシアをまたぐ巨大な実験の手触りです。発掘と保存、周辺史料の批判と比較を通じて、都市の実像はこれからも更新されていくでしょう。

