カラハン宣言 – 世界史用語集

カラハン宣言とは、ロシア革命後のソビエト政権が中国に向けて発した対外声明で、帝政ロシア時代に中国に押し付けられた不平等条約の廃止と、両国関係の「平等・互恵」への転換を約束した文書を指します。発出は1919年(第一次)と1920年(第二次)にわたり、いずれも人民委員カラハン(レフ・ミハイロヴィチ・カラハン)の名で告知されたため、この名で呼ばれます。宣言は、中国の民族主義世論を強く刺激し、列強による半植民地的支配を打破する希望として熱狂的に歓迎されました。他方で、東清鉄道(中国東北部の鉄道)をめぐる「無償返還」表現の有無や、外蒙古・国境・租界・特権の扱いなど具体項目をめぐって、原文の差異と解釈の対立が生まれ、のちの交渉で火種となりました。最終的には1924年の中ソ基本条約で一定の整理がなされますが、カラハン宣言は、ソ連の反帝国主義外交と中国の対外関係・国内政治(連ソ・容共)を結びつけた象徴的事件として、近代東アジア国際関係史に深い影を落とした出来事です。以下では、背景と発出、宣言の主要内容と二つの版本の問題、国内外の反響と交渉の推移、史学上の評価と意義の四点から整理して解説します。

スポンサーリンク

背景と発出――反帝国主義外交の看板と中国向けシグナル

1917年のロシア革命で成立したソビエト政権は、帝政期の秘密外交と対外不平等条約を批判し、民族自決と反帝国主義を掲げることで国際的孤立を突破しようとしました。とりわけアジアでは、列強に対抗する被支配諸民族の期待に訴えることが、ソ連の安全保障と革命輸出の双方に資すると判断されました。中国は清朝の崩壊(1911)後、北洋政府下で列強との不平等条約・租界・関税自主権制限・鉄道権益問題を抱え、五四運動(1919)を契機にナショナリズムが高揚していました。ソ連にとって、中国への友好アピールは、列強(とくに日本)の包囲を揺さぶり、中国国内に反帝・反日・親ソの世論と政治勢力を育てる戦略と合致しました。

こうした環境のなかで、1919年夏、ソ連外交当局は中国政府(北京の北洋政府)に向けて第一次のカラハン宣言を通知しました。そこでは、帝政ロシアが中国に対して持っていた特権(領事裁判権、租界権益、関税に関する優遇、鉄道・電信権益、軍事駐屯など)を「自発的に放棄し、平等互恵の関係へ改める」との大原則が表明されました。さらに1920年秋、内容を補強・再確認するかたちで第二次の宣言が出され、ソ連は「旧条約の一切の破棄」「新たに対等な条約の締結」を改めて呼びかけます。二つの宣言はいずれも対中善意のシグナルでしたが、細部の文言には差異があり、受け止め方に揺れを生じさせました。

ここで重要なのは、ソ連側の動機が「理念」だけでなく「実利」を伴っていた点です。極東・シベリアでは内戦と干渉戦(日本軍の出兵)が続き、国境の安定と補給線の確保が至上課題でした。中国の諸勢力(北洋政府、各地軍閥、南方の孫文勢力、地方自治体)と柔軟に取引できる外交カードとして、旧権益の「返上」を掲げることは、対立勢力を分断しつつ親ソ派を育てる効果的な手段でした。

主要内容と二つの版本――東清鉄道・租界・外蒙古、どこまで譲るのか

宣言の骨格は、(1)帝政ロシアが中国に対して持っていた特権・権益の放棄、(2)対等な新条約の締結による国交正常化、(3)相互不干渉・領土の完全・主権尊重の確認、にまとめられます。具体項目として当時とくに注目されたのが、東清鉄道(CER)沿海州・外満洲国境外蒙古(モンゴル)問題租界・領事裁判権でした。

なかでも最も論争的だったのが、第一次宣言におけるCERの扱いです。中国側に伝わった文面(中国語訳)には、東清鉄道を「無償で中国に返還する」趣旨の表現が含まれていたとされ、これが中国の世論を熱狂させました。しかし、のちにソ連側は「原文(露文)には無償返還の語はなく、共同経営や公正な清算を意味した」と反論します。1920年の第二次宣言では、より一般的な原則表明にとどめる表現が採用され、CERの扱いは「今後の協議」に委ねられました。この「中文本の無償返還」vs「露文本の共同整理」という齟齬は、資料批判上の大問題であり、宣言をめぐる史学論争の核心となりました。

租界・領事裁判権については、帝政ロシアが持っていたハルビンなどの自治的特権、ロシア人居留民の治外法権、租界内の警察権などを放棄する方針が示されました。国境問題については、旧条約の再検討の用意を述べるにとどまり、詳細は新条約交渉で決めるとされます。外蒙古(後のモンゴル人民共和国)は、当時ロシア支援のもとで自治・独立運動が進んでおり、中国側の「版図」意識と鋭く衝突しました。宣言は外蒙古の最終処理に確定的な文言を与えず、原則論(相互尊重・協議)にとどめましたが、実際の政治過程ではソ連の安全保障上のバッファーとして重視され、のちの中ソ関係の難所になりました。

総じて、カラハン宣言は「原則としての全面放棄」をうたいながら、「個別の大権益は交渉で精算」という二層構造を持っていました。理念的メッセージは強烈でしたが、法的拘束力のある真正条約ではなく、外交上の誘導・宣伝の性格を色濃く帯びていた点に注意が必要です。

反響と交渉の推移――中国の熱狂、列強の警戒、1924年条約へ

宣言の公表は、中国の都市部を中心に大きな反響を呼びました。五四運動に続く反帝国主義・民族自決の熱気のなかで、「ソ連は自らの不平等条約を捨てる初の列強だ」という評価が広がり、学生・知識人・新聞は競って宣言を紹介しました。北京政府(北洋政府)に対しては、対ソ交渉を進め、旧権益の回収を実現せよという圧力が高まります。他方、列強、とくに対満洲権益を持つ日本は、ソ連の対中影響力拡大と反日世論の強化を警戒しました。日本のシベリア出兵はソ連側の対日不信を深め、中国の各勢力の間で「反日・親ソ」カードの価値は上昇します。

中国国内では、孫文の南方政権(広州)と、北京の北洋政府、さらに各地軍閥の利害が錯綜していました。孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を掲げ、ソ連の援助を受けて国民党の組織化と軍事訓練(黄埔軍官学校)を進め、のちの第一次国共合作へつながります。宣言は、ソ連が中国革命・民族運動の外部支援者でありうることを示す政治的合図として機能しました。

一方、北京政府は内外の圧力のなかで対ソ交渉に臨みますが、CERや外蒙古の扱いで進展は遅れました。こうした綱引きののち、1924年、ソ連代表として再びカラハン本人が北京に派遣され、中ソ基本条約(北京条約)が締結されます。条約は、(1)両国の相互承認と国交樹立、(2)帝政ロシアの対中特権の放棄確認、(3)旧条約の破棄、(4)東清鉄道の共同管理と将来の整理原則、などを定めました。ただし、外蒙古については「現状の尊重と協議」の枠内にとどまり、完全な帰属確定には至りませんでした。つまり、カラハン宣言の理念は一定程度条約化されたものの、最も関心の高い権益は段階的処理に回されたのです。

その後、満洲の政治軍事情勢は急速に流動化し、1920年代末~1930年代初頭には日本の満洲権益拡張(張作霖・張学良政権との関係、やがての満洲事変)と、ソ連の極東政策の再調整が進みます。CERは共同経営のまま摩擦を繰り返し、最終的には1935年に中華民国(満洲国を事実上支配する日本側)へ売却されました。ここでも、宣言期の「夢」と現実の力学の差が露わになります。

評価と意義――宣伝・理念・戦略の交差点として

カラハン宣言の歴史的意義は、少なくとも三層に分けて把握できます。第一に、宣伝(プロパガンダ)としての成功です。ソ連は、帝政ロシアの遺産を切断し、反帝・民族自決の旗手として自らを演出することに成功しました。これは、中国の民衆運動・知識人層に心理的な転換をもたらし、欧米・日本の列強像に対置する「第三の選択肢」を提示しました。

第二に、理念としての挑発です。近代国際関係において、列強の特権放棄を先に掲げて対等条約を求めるアプローチは画期的でした。宣言は国際法上の硬い拘束力を持たないものの、「不平等条約の一括撤廃」という標語を中国の政治言語へ定着させ、のちの関税自主権回復や治外法権撤廃の運動に理論的追い風を与えました。

第三に、戦略としての計算です。宣言はソ連の安全保障・地政学(極東国境の安定、対日牽制、外蒙古のバッファー化)の課題と、国際的孤立打破・通商拡大の利益に直結しました。理念と実利は相反するのではなく、両立するよう巧妙にデザインされていました。その結果、条約化の段階で多くの項目は「交渉と共同管理」に落とし込まれ、全面的な「無償返還」という夢は再解釈・縮減されていきます。

史学的には、第一次宣言の中文本と露文本の食い違い、新聞掲載と外務文書の照合、翻訳過程の検証が重視されてきました。現在の通説的理解では、無償返還の文言は中国向けの広報・翻訳の過程で強調され、露文真正本文の範囲では「共同整理・将来の協議」が妥当であったとされます。しかし、この「齟齬」こそが当時の中国社会を動かした現実でもあり、宣言の歴史的効果は、文言の法的真偽以上に、社会的受容と政治的行動を通じて測られるべきだと指摘されています。

また、カラハン宣言は中国国内政治における「連ソ・容共」の路線の正統化材料ともなりました。ソ連支援の下で国民党と共産党が協調した第一次国共合作(1924–27)は、帝国主義打倒と国内統一を掲げ、北伐へと進みます。宣言は、連携の倫理的・国際的根拠を提供したと言えます。他方で、国共分裂以後は、ソ連の対中姿勢への不信や、外蒙古・新疆・満洲をめぐる影響力競合が表面化し、宣言の「平等互恵」イメージはしばしば再検討の対象となりました。

総じてカラハン宣言は、理想と現実、宣伝と条約、反帝と地政の交差点に立つ事件でした。中国側にとっては、列強支配の打破と主権回復の希望を具体的な言葉にしてくれた出来事であり、ソ連側にとっては、アジア外交の突破口を開く巧妙なカードでした。1924年条約の成立と、その後の動揺を含めて俯瞰すると、宣言の意義は「全面返還の約束」それ自体ではなく、「不平等条約の時代を終わらせる」という政治的課題を東アジアの中心議題に押し上げた点にこそありました。今日の視点からは、文言の真偽や実施度の検証に加えて、宣言が生み出した期待と失望、世論と政策の相互作用を読み解くことが、より豊かな理解へつながるといえます。