カラハン朝(カラハーニー朝、Qarakhanids/Kara-Khanid Khanate)は、10~12世紀の中央アジア(トランスオクシアナと天山・フェルガナ一帯)を支配したテュルク系イスラーム王朝です。首都は時期によりバラサグン(バラサグン/ブラナ)、カシュガル、サマルカンド、ブハラなどが選ばれ、サーマーン朝の崩壊後にマー・ワラー・アンナフルの政治的主役となりました。カラハン朝は、テュルク遊牧勢力の一派がイスラームを受容して建国し、オアシス都市のペルシア語文化・行政と、草原の軍事・部族秩序を接合した点に特質があります。建築ではクーフィー体の碑文と幾何・植物文様を組み合わせた煉瓦装飾、巨大ミナレットや隊商宿の建設などが進み、文学ではユーグネキ・バラサグニの『クタドゥグ・ビリグ(幸福の知)』に代表されるテュルク語宮廷文学が生まれました。対外的にはガズナ朝・セルジューク朝・ホラズムと競合・連携し、12世紀半ばにカラ・キタイ(西遼)の宗主権下に入り、13世紀初頭にホラズム・モンゴルの伸長の中で消滅します。遊牧とオアシス、テュルク語とペルシア語、イスラームと伝統慣習が交差する「中央ユーラシアの接合点」として、その意義は大きいです。本稿では、成立とイスラーム化、政治構造と対外関係、社会・文化・経済の展開、衰退と歴史的意義の四つの観点からわかりやすく解説します。
成立とイスラーム化――サーマーン朝の後継者として
カラハン朝の起源は、天山・セミレチエ地方(七河流域)に広がったテュルク系部族連合に求められます。指導核はカルルク系やヤグマ、チギル、トゥフシなどの諸部族で、遊牧・半遊牧とオアシスの交易を結びつける勢力でした。10世紀前半、首長の一人サトゥク・ボグラ・ハンがイスラームに改宗したと伝えられ、以後、部族連合の上層にイスラーム信仰が浸透します。イスラーム受容は、ソグド・ウイグル、サーマーン朝領域の商人・宗教者との接触と、交易路の掌握という実利の双方を通じて進みました。
10世紀末、カラハン朝の有力者ナスル・イルィグ・ハン(あるいはハーガーン)らがフェルガナ方面からサーマーン朝領へ侵入し、1005年頃までにサマルカンド・ブハラを掌握してサーマーン朝は滅亡します。これにより、カラハン朝はトランスオクシアナの支配者として名乗りを上げ、東西に広大な領域を持つ王朝へと成長しました。初期の王号には「カラ(黒)・ハーン」「アルスラン(獅子)・ハーン」「トゥグリル(隼)・ハーン」などの称が並び、遊牧の武威とイスラーム王権の威信を二重に演出しました。
カラハン朝のイスラーム化は、上層の改宗だけでなく、都市の宗教・法制度の整備を通じて進められます。カーディー(裁判官)・ムフタシブ(市場監督)・ワクフ(寄進財産)の組織化、モスク・マドラサの設置によって、シャリーアに基づく秩序が都市・農村に根づきました。他方で、部族的慣行法(ヤサ)や、遊牧の季節移動・家産・軍事組織といった伝統は併存し、二重の規範体系が現実の統治を支えました。
政治構造と対外関係――二分体制、セルジューク・ガズナ・西遼との斡旋と競合
カラハン朝の統治は、一人の絶対君主が中央集権的に支配するというより、王族の複数枝(ウルス)が「大ハーン位」を分有し領域を分割統治する仕組みでした。11世紀にはおおむね、東部(バラサグン・カシュガルを中心)と西部(サマルカンド・ブハラを中心)の東西二分体制が成立し、両者は婚姻・連合と対立を繰り返しながら、宗主権や王号の優先を争いました。この二元性は、遊牧的な家産国家の特徴と、オアシスの都市国家連合的性格が重なった結果と理解できます。
対外関係では、まずガズナ朝との関係が初期に重視されました。ホラーサーンからトランスオクシアナに及ぶ勢力均衡をめぐり、ときに軍事衝突、ときに通婚・同盟が繰り返されます。ついで11世紀半ばにセルジューク朝が台頭すると、ホラーサーン・ホラズム・マーワラーアンナフルの均衡はさらに複雑化しました。セルジュークのトゥグリル・ベク、アルプ・アルスラーン、マリク・シャーらは、宗主権の優越を示すべくカラハン朝西部政権に介入し、カラハン朝側も内紛を背景にセルジュークの威光に依拠する局面が生じます。西部の有力君主タムガーチ・ハーン・イブラーヒーム(イブラーヒーム・ブン・ナスル)は、イラン系官僚を登用し、ペルシア語行政を整え、サマルカンドの都市機能を大幅に強化しました。彼の治世は、西部カラハン朝の安定期として記憶されます。
12世紀に入ると、東方からカラ・キタイ(西遼)が天山を越えて侵入し、ホラーズムやカラハン朝諸政権を従属させます。1141年のカトワーンの戦いでセルジュークのサンジャルが敗れると、カラハン朝はカラ・キタイの宗主権の下で存続する道を選びました。これは、内紛と外圧のはざまで生き残るための現実的選択でしたが、王朝の自立性は次第に低下します。12世紀末から13世紀初頭にかけて、ホラズム・シャー朝が勢力を伸ばし、カラ・キタイの支配とカラハン朝諸枝を圧迫、最終的にカラハン朝の政治的実体は解体へ向かいました。やがてモンゴルの西征が始まると、旧カラハン領はチンギス・ハンの子孫の統治下に編入され、チャガタイ・ウルスの領域へと組み込まれていきます。
社会・文化・経済――テュルク語宮廷文学、煉瓦建築、キャラバン経済の成熟
カラハン朝の時代は、テュルク語イスラーム文化の形成期として重要です。文学では、ユーグネキ・バラサグニ(ユースフ・バラサグーニー)によるテュルク語韻文の政治教訓書『クタドゥグ・ビリグ』が宮廷文化の象徴となり、統治の徳目(正義・幸運・理性・節制)と君臣関係を、イスラームの知恵とテュルクの価値観の統合として描きました。また、ユースフ・ハース・ハージブに近い知識人たちは、ペルシア語の学術・史伝から学びつつ、テュルク語を公的文体として洗練させる試みを続けました。神学・法学(フィクフ)・修辞・天文学・医学の書がマドラサで読まれ、都市の知的厚みが増します。
建築・美術では、煉瓦積みによる幾何学・アラベスク装飾、クーフィー体や初期ナスフ体の帯状碑文が外壁を巡る様式が発達しました。現存する代表例として、セミレチエ地方のブラナ塔(ブランナ/ブラナのミナレット)、カザフスタンのアイシャ・ビビ廟とババジ・カトゥン廟、ウズベキスタンのラバト・イ・マリク(ラバティ・マリク)隊商宿やブハラのカラーン・ミナレット(基礎はカラハン期の建設に遡る)が知られます。これらは、砂漠とオアシスがつくる光線のコントラストの中に、立体的な影を織りなす煉瓦文様を生みだし、のちのティムール朝の建築美にも大きな影響を与えました。
都市計画では、モスク・マドラサ・スーク(市場)・キャラバンサライ(隊商宿)・公共浴場(ハンマーム)・水利施設が核となり、城壁と門の内外に専門職人のスークが細分化しました。貨幣鋳造が整い、ディルハム(銀貨)・ディナール(金貨)の鋳造所が各都市に置かれ、アラビア語・ペルシア語・テュルク語の銘文が時代の政治構造を映します。絨毯・毛織物・皮革・金工・木工・陶器の生産は、内需と隊商交易の双方を支え、フェルガナ・サマルカンドの果樹園・綿花栽培、シルク・サフラン・香料などの高付加価値作物が経済を潤しました。
宗教生活では、スンナ派法学(ハナフィー学派)が優勢で、カーディーによる裁判とワクフ管理が社会福祉の機能を果たしました。他方、スーフィー(神秘主義)の教団が都市・農村に広がり、聖者廟への参詣・寄進、ハーンカー(修行宿)が人々の心性と連帯を育てました。イスラーム受容は急激な断絶ではなく、在来の慣習や祝祭と折衷しながら進み、イスラーム的時間(礼拝・断食・巡礼)とオアシスの季節労働のリズムが重なり合いました。
社会構造は、王族・軍人・ウラマー(宗教学者)・官僚・商人・職人・農民・遊牧民が相互依存的に結ばれ、都市=オアシスと草原=遊牧地の境界を越える移動と婚姻が一般的でした。税財政では、地租・市場税・関税に加えて、遊牧民の家畜税や交易通行税が重要な収入源となり、モンゴル時代に洗練される駅伝・通行札の先行形態が見られます。
衰退と歴史的意義――西遼の宗主権下での存続、ホラズムとモンゴルのはざまで
12世紀半ば、カラ・キタイの圧力の下でカラハン朝諸枝は宗主—従属関係を受け入れ、形式的な王号を保ちながら実権の多くを失いました。宗主権の受容は、内紛の調停と交易路の安定という便益をもたらした反面、財政負担(貢納)と外交の自由を制約しました。西方ではホラズム・シャー朝が勢力を拡大し、カラハン朝の旧領に直接的に介入、王族の系譜と領土は細分化・再編を繰り返します。13世紀初頭のモンゴル西征によって、中央アジアの政治地図は一変し、カラハン朝の政治的連続は断たれますが、行政・都市・文化の多くはチャガタイ・ウルスやティムール朝のもとで再編成され、建築・文様・言語・法制度に長期の影を落としました。
歴史的意義として、第一にテュルク語イスラーム王朝の嚆矢であった点が挙げられます。カラハン朝は、ガズナ朝(テュルク軍人政権ながら行政はペルシア語)やセルジューク朝と並んで、テュルク系エリートがイスラーム世界の中心地域で王権を担う先例を示し、のちのアナトリア、中央アジア、インド亜大陸の多様なテュルク系王朝につながる系譜を形づくりました。第二にオアシス-草原接合の統治モデルです。部族的連帯と都市の官僚制、遊牧の移動性とオアシス農耕の定住性を共存させる柔軟な統治は、中央ユーラシア政治文化の基層となりました。第三に建築・美術・文学の橋渡しです。煉瓦装飾・ミナレット・隊商宿の技術、テュルク語宮廷文学の定型化は、ティムール朝・シャイバーン朝・サファヴィー朝、さらにはオスマンの一部意匠へと連なります。
また、カラハン朝は「テュルク=ペルシア混交文明」の実験場でもありました。言語のレベルでは、行政・学術のペルシア語に対し、王号・詔勅・軍事・宮廷文学にテュルク語が用いられる二重言語状況が常態化し、両者の相互影響はイスラーム世界の文化地形を大きく変えました。宗教面では、ハナフィー法学とスーフィズムの普及が、中央アジアのイスラーム信仰を今日に至るまで特徴づけています。
総じてカラハン朝は、サーマーン朝の遺産を継ぎつつ、テュルク遊牧勢力のダイナミズムを都市文明に組み込み、中央アジアを「テュルク語イスラーム世界」へと転回させた中核王朝でした。内紛と外圧に翻弄されて政治的寿命は長くありませんでしたが、都市景観、交易制度、文芸、法と宗教の枠組みに刻まれた痕跡は深く、のちの時代の繁栄の基礎を作りました。草原とオアシスの境界で生まれたこの王朝を学ぶことは、ユーラシアの文明がどのように接合し、新しい秩序を生み出していくのかを理解する有力な手がかりとなります。

