「植民地問題の公正な解決」とは、第一次世界大戦の終わりごろに、アメリカ大統領ウィルソンが打ち出した「十四か条の平和原則」の中でうたわれたスローガンです。簡単に言えば、「ヨーロッパ列強が勝手に植民地を分け合ってきたやり方は見直し、そこで暮らす人びとの立場もきちんと考えたうえで、植民地をどうするか決め直そう」という考え方を指します。当時はまだヨーロッパ諸国がアジアやアフリカを広く支配していた時代で、その体制にどのように向き合うかが大きな課題になっていました。
ただし、「公正な解決」とは言っても、「すぐに植民地支配をやめて、すべて独立させる」という意味ではありませんでした。ウィルソンが強調したのは、「宗主国(支配する側)の都合だけでなく、植民地に住む人びとの利益や意見も考慮し、客観的・公平な基準で調整すべきだ」という点にとどまります。このあいまいさゆえに、のちの講和会議では列強側にとって都合のよい解釈がなされ、アジア・アフリカの人びとが期待したほどの変化は実現しませんでした。
一方で、この言葉は、当時の植民地支配に疑問をもち始めていた人びとにとって大きな刺激となりました。とくに民族自決の原則と結びつけて、「ヨーロッパの民族だけでなく、アジアやアフリカの民族にも、自分たちの運命を自分たちで決める権利があるのではないか」という発想が広がっていきます。実際に、第一次世界大戦後の世界各地で民族運動が高まり、日本をふくむアジアの知識人もウィルソンの言葉を注意深く読み込みました。
以下では、まず第一次世界大戦と植民地問題の関係を整理し、「植民地問題の公正な解決」がどのような文脈で登場したのかを説明します。そのうえで、十四か条の平和原則の中身、パリ講和会議での扱われ方、さらにはアジアや日本とのかかわりまでを見ていくことで、この用語の意味合いをより立体的に理解していきます。
第一次世界大戦と「植民地問題」の位置づけ
「植民地問題の公正な解決」が取り上げられた背景には、第一次世界大戦が「ヨーロッパ内部の戦争」であると同時に、「世界規模の帝国同士の戦争」でもあったという事情があります。イギリス・フランス・ロシアを中心とする協商国側も、ドイツ・オーストリアなどの同盟国側も、それぞれ広大な植民地や勢力圏を持つ帝国でした。戦争が長引くなかで、兵士や資源は本国だけでなく植民地からも動員され、アフリカやアジアの人びとも戦争に巻き込まれていきます。
とくにドイツは、アフリカや太平洋に複数の植民地を持っていましたが、海軍力で勝るイギリスや日本などによって次々に占領されていきました。戦争が終わった後、「勝った国」がそれらの植民地をどう扱うのか、つまり「敗戦国の植民地や植民地住民の将来をどう決めるか」が、大きな交渉テーマになることは早くから予想されていました。ここでいう「植民地問題」とは、単にドイツだけでなく、全体としての植民地支配のあり方をどう見直すか、という問題もふくんでいました。
しかし、当時の列強にとって植民地は、原料供給地・市場・軍事拠点として非常に重要な存在でした。戦争で大きな犠牲と出費を強いられた以上、「せめて植民地の取り分では得をしたい」と考えるのも、彼らの本音でした。実際、イギリスやフランスは、戦後の講和でドイツの植民地を自国の勢力圏に取りこむことを強く望んでいました。
このように、戦争の最中からすでに戦後の植民地再配分をめぐる思惑が渦巻くなかで、「そもそも植民地支配そのものをどう考えるべきか」という問いが、少しずつ国際政治の表舞台に現れてきます。そのとき、「列強同士の力関係だけで決めるのではなく、より公平な基準で植民地を扱うべきだ」と主張したのが、アメリカ大統領ウィルソンでした。
ウィルソンの十四か条と「植民地問題の公正な解決」
1918年1月、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは、連邦議会で演説を行い、「十四か条の平和原則」を発表しました。これは、第一次世界大戦を終わらせ、今後同じような大戦争が起こらないようにするための基本方針を示したもので、「秘密外交の禁止」や「民族自決の尊重」「国際機構(のちの国際連盟)の設立」などが盛り込まれていました。その中の一項目として出てくるのが、「植民地問題の公正な解決」です。
ウィルソンがここで述べた「公正な解決」とは、植民地に関する紛争を処理するとき、「宗主国と植民地住民の双方の利益を考慮し、両者の主張を公平に調整すべきだ」という考え方でした。とくに彼は、「植民地住民の利益と願望は、宗主国の正当な要求と同等の重みをもって扱われるべきだ」と強調します。これは、従来の列強のやり方――つまり宗主国の都合を最優先し、植民地の人びとはほとんど意見を述べる機会も与えられない――とは明らかに異なる視点でした。
もっとも、ウィルソンは、直ちに植民地を全面的に独立させることを目標にしていたわけではありませんでした。彼の関心は、どちらかといえばヨーロッパの国境調整や、敗戦国ドイツの扱いに向けられており、アジア・アフリカの植民地解放を中心課題として掲げていたわけではありません。そのため「植民地問題の公正な解決」という表現は、植民地支配を前提としたうえで、「せめて扱い方だけは公平であるべきだ」という程度の意味合いにとどまる、あいまいな文言でもありました。
しかし、このあいまいさこそが、のちにさまざまな解釈を生むことになります。列強側は、「植民地支配そのものは認められている」と都合よく理解し、「待遇を少し改善し、国際的な管理を導入すればよい」と解釈しました。一方、植民地側の人びとや民族運動の指導者たちは、「公正に扱う」「住民の利益と願望を尊重する」といった言葉から、「いずれは自治や独立への道が開かれるはずだ」と期待をふくらませました。
このように、「植民地問題の公正な解決」という表現は、同じ文言でありながら、立場によって受け取り方が大きく異なりました。ウィルソン自身の意図はともかくとして、このスローガンが国際社会に投げかけた問いは、「植民地に住む人びとを、地球上の一員としてどこまで対等に扱うのか」という、きわめて根本的なものだったと言えます。
パリ講和会議と理想と現実のギャップ
第一次世界大戦が終結したのち、1919年からパリ講和会議が開かれ、戦後の国際秩序のあり方が話し合われました。この会議で、ウィルソンの十四か条は一定の影響力をもち、「国際連盟」の設立など、いくつかの項目は実際に実現します。しかし、「植民地問題の公正な解決」に関しては、理想と現実のあいだに大きなギャップが生じました。
講和会議で焦点となったのは、とくにドイツやオスマン帝国が持っていた植民地・勢力圏をどうするかという問題でした。列強は、表向きはウィルソンの原則を尊重する姿勢を見せましたが、実際には自国の利害を優先し、旧ドイツ領やオスマン帝国領を「委任統治領」という名目で分け合うことにしました。これは、国際連盟のもとで、先進国が「後進地域」を指導するという建前の制度でしたが、実態としては旧来の植民地支配とあまり変わらない面が多くありました。
たとえば、中東地域では、オスマン帝国の支配から解放されたあと、イギリスやフランスが委任統治という形で支配権を握り、地元のアラブ人住民の期待した「完全な独立」は先送りされました。アフリカでも、旧ドイツ植民地はイギリスやフランス、ベルギーなどの管理下に移されましたが、現地住民にとっては支配者が変わっただけで、政治参加や自決の権利が与えられたわけではありませんでした。
このような状況は、「植民地問題の公正な解決」をより積極的に解釈していた人びとにとって、大きな失望をもたらしました。アジアでは、中国の山東問題をめぐって、列強が日本の要求をおおむね認めたことに対する不満が高まり、五・四運動などの抗議行動へとつながっていきます。また、朝鮮やインド、エジプトなど各地でも、「ウィルソンの原則は、ヨーロッパ人にだけ適用され、植民地には適用されないのか」という疑問が強まりました。
こうしてみると、「植民地問題の公正な解決」は、パリ講和会議において十分に実現したとは言いがたいものの、その不徹底さゆえに、逆に植民地・半植民地地域での政治意識を大きく刺激したとも言えます。理想を掲げながら現実がそれに追いつかなかったからこそ、多くの人びとが「なぜ理想が守られないのか」と考え、その問いが新たな運動や思想を生み出していくきっかけになったのです。
民族自決・日本とのかかわり
「植民地問題の公正な解決」は、しばしば「民族自決の原則」とセットで語られます。民族自決とは、民族ごとに自分たちの政治的運命を自分たちで決める権利がある、という考えです。ウィルソンは主にヨーロッパの民族問題を念頭にこの原則を語りましたが、その言葉はアジア・アフリカの知識人にも強いインパクトをあたえました。「民族自決」がもし本当に普遍的な原則であるなら、植民地に住む民族にも同じ権利が認められるはずだ、と考えたからです。
日本もまた、パリ講和会議に参加した列強の一員として、この議論に関わっていました。日本政府は、自国が列強の一角として認められることを目指しつつ、一方でアジアの指導者としてふるまおうとする場面もありました。有名なのが、「人種的差別撤廃案」に関する提案です。日本代表団は、国際連盟規約に人種平等の理念を盛り込もうとしましたが、最終的には他国の反対などにより採択されませんでした。この提案は直接「植民地問題の公正な解決」という文言に結びついてはいないものの、「ヨーロッパ中心の不公正な国際秩序」に対する問題意識という点で、共通する問題をはらんでいました。
一方、日本は同時に、自らが韓国(朝鮮)や南洋群島などを支配する帝国でもありました。そのため、日本は国際場裏では「植民地問題の公正な解決」や「人種平等」を好意的に語りつつ、国内外では自国の支配を正当化し続けるという、二重の立場に立たされていました。この矛盾は、やがてアジア諸民族との摩擦や、国内外の議論のもとにもなっていきます。
アジア各地の民族運動から見ると、「植民地問題の公正な解決」は、ウィルソンの理想主義が発した「約束」であると同時に、その約束が十分に守られなかったことを批判するための指標にもなりました。中国の五・四運動、朝鮮の三・一運動、インドの反英運動、エジプトや中東地域の独立運動などは、それぞれの地域の事情を反映しながらも、「自分たちの運命を自分たちで決めたい」という共通の願いを内包していました。
このように、「植民地問題の公正な解決」という言葉は、第一次世界大戦後の国際秩序を語るキーワードのひとつとして、さまざまな場面に顔を出します。そこには、ウィルソンが描いた理想、列強が守ろうとした既得権、植民地の人びとが抱いた期待と失望、そしてそこから生まれた新しい運動や思想が折り重なっています。この言葉をたどっていくことは、20世紀の世界が「帝国の時代」から「民族国家の時代」へとゆっくり移行していく大きな流れを理解するうえで、重要な手がかりのひとつとなります。

