イスラーム同盟(インドネシア語:Sarekat Islam、以下SI)は、20世紀初頭のオランダ領東インドにおいて、商業者の利益擁護組織として発足し、短期間のうちに全国的な大衆運動へ拡大した団体です。発端は1911年ごろの「イスラーム商業同盟(Sarekat Dagang Islam=SDI)」にあり、1912年には名称をサレカット・イスラーム(イスラーム同盟)へ改めて宗教的結束と民族的覚醒を掲げました。創設者としてはバティック商人のハジ・サマンフディ(ソロ近郊)と、のちに全国組織の理論的・政治的指導者となるウマル・サイード・チョクロアミノト(スラバヤ)が代表的です。SIはムスリム商人・手工業者・都市の下層や農村の小作層にまで浸透し、第一次大戦前後には数十万から数百万人規模の会員を擁する大衆団体へと成長しました。宗教的スローガンを掲げながらも、実際には市場秩序・植民地統治・民族運動・社会主義運動と交錯する複合的な運動体であった点に特徴があります。
SIの初期は、ジャワのバティック産業に代表される商業構造の変化や、華人商人・欧人商会と在地ムスリム商人の競合、植民地行政の法制度と差別的慣行への不満が背景にありました。宗教的連帯(ウンマ)を旗印としつつ、価格協定・信用供与・相互扶助・紛争調停といった実務を通じて、経済的防衛を図るのが出発点でした。他方で、イスラーム改革主義やジャワの宗教教育網(プサントレン)の影響、印刷メディアの普及、演説会の文化は、経済団体を政治化する素地を形成しました。1912年設立のイスラーム改革団体ムハンマディヤとの同時代性、1908年のブディ・ウトモに端を発する民族覚醒の潮流、さらに植民地政府の間接統治と監視の強化など、複数の文脈がSIの展開を方向づけました。
用語と時代枠・成立背景の整理
用語上、1911年ごろソロ(スラカルタ)で発足した「SDI(イスラーム商業同盟)」は主としてムスリム商人の利害代表機関でした。1912年により広い宗教・社会組織として再編され「SI(サレカット・イスラーム)」が通称となります。1916年には各地支部を束ねる「中央イスラーム同盟(Central Sarekat Islam=CSI)」が整えられ、年次大会の開催と規約整備が進みました。20年代に入ると、組織内の左派と中道・保守派の対立が激化し、政治結社への転化と党派分裂が連鎖します。1920年に政治部門を明確化して「サレカット・イスラーム党(Partai Sarekat Islam=PSI)」が形成され、のち改称を重ねて1929年に「インドネシア・サレカット・イスラーム党(Partai Sjarikat Islam Indonesia=PSII)」へと至りました。戦後期にはPSIIとして議会政治に参加する流れが残りますが、本稿の中心は草創期から戦間期前半の運動としてのSIに置きます。
成立背景の第一は経済構造です。バティックや砂糖・米の流通に関わる中間流通層は、植民地期の課税・特許・営業許認可制度のもとで、欧人商社と華人資本の中間に位置づけられました。価格競争の激化と信用供与の偏在は、ムスリム商人団の相互扶助とボイコット運動を誘発します。第二は都市の公共圏の成立で、新聞・雑誌・パンフレット・演説会・宗教講話(タブリーグ)が、識字の広がりとともに政治議題の循環を加速しました。第三は宗教改革の潮流で、聖典回帰と迷信批判、教育近代化、慈善・衛生の改善などを掲げるイスラーム改革主義が説得力を持ち、宗教的正統性を動員の正当化資源としました。
また、1910年代の国際環境—オスマン帝国の動向、第一次世界大戦、パン=イスラーム主義や民族自決の言説—は、植民地下の都市エリートだけでなく、農村の信徒にも想像的共同体としての「ムスリム世界」や「祖国」を意識させる契機となりました。宗教語彙は、民衆の正義感・互助・道徳の言い回しに通じやすく、SIはこの倫理的レパートリーを政治化していきます。
組織形成と大衆運動—人物・大会・メディア
SIの拡大を牽引したのは、スラバヤ支部を足場としたウマル・サイード・チョクロアミノトの演説と組織力でした。彼は商人層と労働者・小生産者を横断して「イスラームに根ざす公正な社会」を説き、宗教的徳目と社会正義を結びつけて訴えました。アグス・サリムやアブドゥル・ムイスら知識人・ジャーナリストは、外交的感覚と筆力で運動を支え、「オエトゥサン・ヒンディア(Oetoesan Hindia)」などの機関紙が世論形成の武器となりました。SIは集会・説教・劇・音楽を交えた大規模イベントを頻繁に開催し、宗教行事と政治集会の境界を横断する形で動員を実現しました。
組織構造は、地方支部(カバン、ランチン)と中央(CSI)を結ぶネットワークで、会費・寄付・慈善が財源でした。規約は宗教的規範(禁酒・誠実・勤労)を掲げ、団体の名義での経済活動(協同購入・共同販売)を推進しました。司法や行政への嘆願・陳情、裁判支援、労働紛争の調停も実務として行われ、単なる宗教団体を超えて、民衆の「政治的サービス提供者」として機能したのが特徴です。地方では村落指導者や宗教教師(キヤイ)が支部の核となり、都市では商人ギルドや職人組織との結節が強まりました。
SIの年次大会は政治的意思決定の場でした。中央大会では、自治・表現の自由・教育拡充・差別撤廃・税制改革・地方自治など、具体的要求が決議されます。1916年前後には「民族的名乗り(インドネシア)」の使用や、代表制の拡大要求が鮮明となり、植民地政府の設けた諮問機関(人 民評議会=ヴォルクスラート)への参加・不参加をめぐる方針論争も起こりました。SIの姿勢は一枚岩ではなく、制度内改革を志向する温和派と、ボイコットや直接行動に傾く急進派が、地域と指導者によって濃淡をなしました。
メディア環境では、オランダ語・マレー語・ジャワ語の新聞雑誌が乱立し、SI系・社会主義系・民族主義系が紙面上で論争を交わしました。中でもスラバヤやスマランは印刷・労働運動の拠点で、若い活動家が機関紙編集と街頭演説を通じて頭角を現しました。チョクロアミノトの私宅は青年の寄宿舎としても知られ、のちに国民国家建設の中心人物となる若者がここで政治的洗礼を受けたことはよく知られています。
左派との提携・断絶と政党化—SI白派と赤派、PSI/PSIIへ
1910年代半ばから後半にかけ、オランダ人社会主義者らが結成した「インド社会民主同盟(ISDV)」がジャワの労働運動に浸透し、スマランなどでSI支部の活動家と協力関係を築きました。セマウンやダルソノといった若手は、SIの大衆基盤に社会主義の語彙を持ち込み、賃上げ・労働条件改善・反軍事課税・反差別といった要求を前面化させます。この潮流は「SI赤派」と呼ばれ、宗教的正統性を重視する「白派」と緊張を高めました。
チョクロアミノトら中央指導部は、運動の多様性を容認しつつも、組織統一のために1921年前後から「党規律(Disiplin Partai)」を打ち出し、他党との二重所属の禁止と中央方針への従属を徹底しようとしました。これは左派の組織的離脱を招き、ISDVから転身した共産党(PKI)の勢力拡大と連動して、SI内の主導権は二極化します。スマランの赤派は独自の大衆組織を整え、やがて「サレカット・ラキヤット(人民同盟)」などの名で活動を展開、1920年代半ばにはPKIの大衆前衛として再編されていきました。
こうした過程で、SIは運動体から政党への転化を進めます。1920年には政治部門が「サレカット・イスラーム党(PSI)」として明確化され、議会的手段・請願・行政交渉を重視する方針が固まります。のち名称は「東インド・サレカット・イスラーム党」等を経て、1929年には「インドネシア・サレカット・イスラーム党(PSII)」となり、民族名「インドネシア」を冠する時代意識を反映しました。アグス・サリムは国際関係とイスラーム世界の言説を媒介し、穏健な制度内改革と民族自決の理念を調停する役回りを担いました。一方、左派出身の活動家の一部は労働争議と農村運動に重心を移し、1926–27年の反乱やその後の弾圧の渦中で多くが投獄・流刑となります。
宗教と政治のバランスは、SIの内部でも常に議論の的でした。シャリーアの原則やムスリムの徳目を掲げながら、異宗教・異民族の住民とどのように共同の政治を行うか、政教関係をどう設計するかが問われました。演説や社説では、宗教の倫理を社会正義・反差別・教育の向上と結びつける言説が多用され、一方で宗派主義や排外主義への警戒も見られます。SIは世俗民族主義諸派(のちのPNI系)やイスラーム改革団体(ムハンマディヤ、ペルシス)と緊張と協調を繰り返しながら、政治的公共圏の拡大に寄与しました。
評価と用語上の注意—大衆運動の革新性と限界、研究上の論点
SIの歴史的意義は、第一に「宗教語彙を媒介とした近代的大衆政治」の先駆けであった点にあります。説教・集会・機関紙・相互扶助・協同経済を組み合わせ、都市と農村、商人と労働者、宗教教師と近代教育を受けた知識人を結びつけた手法は、その後の民族運動や政党活動のモデルとなりました。第二に、イスラームと民族主義、社会正義の三者をめぐる言説空間を広げ、宗教の公共性について多様な解釈の可能性を提示したことです。第三に、近代インドネシア語(マレー語系)の政治語彙の整備に寄与し、新聞言論と演説文化の基盤を築きました。
他方、初期には特定の商業競合相手に対する排除的スローガンが動員の磁場として機能した側面があり、民族間緊張を高めた局面も否めません。組織規模の急膨張は統制を難しくし、地域差・世代差・思想差の調整が恒常的課題となりました。宗教的正統性と急進的社会正義の結合は、協力と分裂の両方を生み、左派との関係は、協働による大衆化と、統合破綻による分極化という二面を示しました。植民地国家の監視・取り締まり・司法的弾圧は、運動の持続可能性に直接の制約を課し、指導者層の拘禁・流刑・亡命が組織の連続性を損なう要因となりました。
用語上の注意として、「サレカット・イスラーム」は厳密には複数段階の組織名を含みます。①創設期のSDI(商業同盟)、②宗教・社会団体としてのSI、③中央連合体としてのCSI、④政党化したPSI/PSIIという推移を意識する必要があります。また、地方支部の活動内容やイデオロギーは一様ではなく、スマラン・スラバヤ・ソロ・ジョグジャカルタ・西ジャワなどで差が顕著でした。機関紙名や演説の語彙も、地域と時期により変遷します。研究史では、経済防衛運動としての起源を重視する立場、宗教改革と民族主義の結節点とみる立場、労働運動への関与と左派形成の揺籃として評価する立場などが併存しており、一次資料(新聞、会議議事録、警察報告、回想録)の読み分けが求められます。
総じて、イスラーム同盟(サレカット・イスラーム)は、植民地下の社会で宗教・経済・政治を横断する動員技術を発明し、のちの政党政治と公共圏の形成に深い痕跡を残した運動でした。宗教の言葉で語られた社会正義や民族自決の理念は、多様な社会層に届く共通言語となり、同時に分岐と対立の火種にもなりました。複合的で矛盾をはらむその軌跡を丁寧にたどることが、インドネシア近現代史と「宗教と政治」の関係を理解する手がかりになります。

