「植民地分界線(教皇子午線)」とは、大航海時代の初期に、当時ヨーロッパで強い影響力を持っていたローマ教皇が、スペインとポルトガルという二つのカトリック国のあいだで、新しく発見されつつあった世界の土地を分けるために引いた「国境線」のことです。まだ地球全体の地図もあいまいだった時代に、「この線より西側はスペイン、この線より東側はポルトガルが優先的に支配していい」というふうに決めてしまった、きわめて大胆で、今から見ると少し無茶にも思える取り決めです。
この分界線は、まず1493年に教皇アレクサンデル6世が教書(勅書)というかたちで示し、翌年1494年のトルデシリャス条約によって、スペインとポルトガルの交渉で少し位置をずらして正式に取り決められました。そのため、「教皇子午線」と呼ぶときは教皇が最初に示した基準線、「植民地分界線」と呼ぶときはその後の条約もふくめた、スペインとポルトガルが世界を二分した考え方全体を指すことが多いです。いずれにしても、地図上の一本の線が、その後の南米やアフリカ、アジアの植民地の分布に大きな影響をあたえました。
とくにわかりやすい例が、南米大陸のブラジルです。現在ブラジルだけが南米でポルトガル語を公用語としているのは、この分界線が南米大陸にかかったため、その地域がポルトガルの勢力圏とみなされ、植民地化が進んだからだと説明されます。また、この取り決めはスペインとポルトガルのあいだでは有効でしたが、イングランドやフランス、オランダなど他の国々は「教皇や二国だけで世界を勝手に分けるな」と反発し、のちの海洋進出ではこの線を無視して行動するようになります。その意味で、植民地分界線(教皇子午線)は、ヨーロッパ諸国が世界規模でぶつかり合う出発点のひとつだったともいえます。
以下では、この植民地分界線が生まれた背景、どのように決められたのか、そしてその後の世界史にどのような具体的影響を与えたのかを、もう少し詳しく見ていきます。
大航海時代と植民地分界線が生まれた背景
植民地分界線(教皇子午線)が考え出された背景には、ヨーロッパ諸国、とくにイベリア半島のスペインとポルトガルが、海をこえて「新しい航路」と「新しい領土」を求めて激しく競争していた状況があります。15世紀後半、ポルトガルはアフリカ西岸を南へ南へと探検し、インドや香辛料の産地に向かう「アフリカ南まわり」の航路を切りひらこうとしていました。一方、同じころスペインは、ポルトガルに遅れをとっていたため、別のルートを探していました。
1492年、スペイン女王イサベルの支援を受けたコロンブスが、西へ向かって大西洋を横断し、ヨーロッパ人にとっては「未知の大陸」であるアメリカ大陸に到達します。コロンブス自身はアジアの一部だと思いこんでいましたが、いずれにせよ「西まわり」で新しい土地にたどり着いたことは大きな衝撃でした。スペインは「自分たちが支援した航海で発見された土地はスペインのものだ」と主張しますが、ポルトガルは「いや、大西洋の島々やアフリカ方面の探検には、すでに自分たちが優先権を持っている」と反発しました。
ここで登場するのが、ローマ教皇の権威です。当時のヨーロッパ世界では、カトリック教会、とくにローマ教皇は宗教的だけでなく政治的にも大きな影響力をもっており、キリスト教国どうしの争いを仲裁する役割も期待されていました。スペインとポルトガルという二つの「篤いカトリック国」がぶつかり合うのは、教会にとって好ましくありません。そこで教皇アレクサンデル6世は、「世界地図の上に一本の線を引き、その線より西側と東側で、どちらの国が優先権を持つかを決めてしまおう」と考えたのです。
この発想には、当時の世界観も関係しています。ヨーロッパ人の多くは、地球が球体であることをすでに知っていましたが、正確な大きさや陸地の広がりはよく分かっていませんでした。それでも「地球を一周する大きな円(子午線)」を基準にして、カトリック諸国のあいだで勢力圏を分ける、という考え方が生まれました。こうして、「教皇子午線」と呼ばれる一本の基準線が想定され、それがのちに「植民地分界線」として具体的な意味を持っていくことになります。
教皇子午線とトルデシリャス条約
1493年、教皇アレクサンデル6世は、「インテル・ケテラ」という教書(勅書)を出し、新しく発見された土地の権利をめぐるスペインとポルトガルの争いに裁定を下しました。その内容は、カナリア諸島の西方約100リーグ(おおよそ数百キロメートル)に、北極から南極まで地球を貫くような一本の想像上の線、つまり子午線を引き、その線より西にある、まだキリスト教国の支配下にない土地についてはスペインに優先権を与えるというものでした。これがいわゆる「教皇子午線」です。
しかし、この最初の教皇子午線の位置について、ポルトガルは強く不満を抱きました。なぜなら、ポルトガルがこれまで築いてきた大西洋沿岸やアフリカ西岸の拠点への影響が不明確であり、将来の航路開拓に不利になる可能性があったからです。さらに、距離の単位である「リーグ」の長さや、正確な経度を測る技術がまだ発達していなかったため、「線がどこを通っているのか」を具体的に示すこと自体が難しかったという問題もありました。
そこでスペインとポルトガルは、教皇の裁定をもとにしつつも、自分たちでより納得のいく合意を結ぼうと交渉します。その結果として結ばれたのが、1494年のトルデシリャス条約です。この条約では、教皇子午線として示された線を、さらに西に移動させることが決められました。具体的には、カーボ・ヴェルデ諸島の西方370リーグを通る子午線が、新たな分界線とされました。これにより、ポルトガルはアフリカ周辺や将来のインド航路に対する権益を、より確実なものとすることができました。
このトルデシリャス条約によって定められた線こそが、のちに「植民地分界線」と呼ばれ、教皇子午線とほぼ同じ意味で扱われることになります。とはいえ、ここでもなお問題は残りました。地球上の正確な経度を測る技術がなかったため、条約で定めた「西方370リーグ」が、実際の地図上でどの位置にあたるのか、まだ十分にはわからなかったのです。そのため、この分界線が南米大陸にどのようにかかっているのかも、当初はぼんやりとしか認識されていませんでした。
それでも、この取り決めはスペインとポルトガルにとって「世界を二分する基本ルール」として機能しました。スペインはアメリカ大陸の広大な地域に進出し、ポルトガルはアフリカ・インド洋方面、そしてのちには南米の一部へと勢力を伸ばしていきます。植民地分界線は、地図の上だけの抽象的な線ではなく、実際の植民地支配と貿易の拠点形成に直結する「現実の力関係」を形にしたものだったのです。
ブラジル、アジア世界と植民地分界線の影響
植民地分界線(教皇子午線)が具体的にどのような影響を与えたのかを考える上で、もっとも象徴的なのがブラジルの事例です。1500年前後、ポルトガルの船隊が現在のブラジル沿岸に到達したとき、そこはトルデシリャス条約で定められた分界線の「ポルトガル側」にあたると解釈されました。これにより、ブラジルはポルトガルの植民地として開発され、ポルトガル語が広まり、独自の文化が形成されていきます。その結果、今日の南米では、スペイン語圏の国々に囲まれるかたちで、ブラジルだけがポルトガル語を話す国として存在しているのです。
ただし、実際にはブラジルの植民地化は、分界線を「きれいに守った」結果というよりも、「条約を自国に有利なように解釈しながら、じわじわと領土を広げていった」結果と見るべきです。分界線そのものがあいまいな位置しか示せない以上、現地での実効支配、つまり入植や開発、軍事力の有無が、最終的な国境を左右しました。とはいえ、その根本にトルデシリャス条約による分界線の考え方があったからこそ、ポルトガルがブラジル進出に強い正当性を主張できたことも事実です。
アジア世界においても、この植民地分界線の発想は重要です。ポルトガルはアフリカ南端の喜望峰を回ってインド洋に入り、インドや東南アジア、さらにはマカオなど中国沿岸にも拠点を築きました。これらは、トルデシリャス条約で「東側」を自国の勢力圏と認められていたことを背景に進められたものです。スペインは一方で、アメリカ大陸西岸やカリブ海地域を拠点にしつつ、太平洋を渡ってフィリピンなどへ進出しました。こうした動きはのちに、1529年のサラゴサ条約によって、今度は東アジア側でもスペインとポルトガルの勢力圏を区分するかたちで調整されていきます。
しかし、現実にはアジアにおけるポルトガルの支配は、インド洋の一部と要地に限られており、インドや東南アジア、東アジア全体がポルトガル領になったわけではありません。アジアにはすでに強大な王朝や国家が存在しており、スペイン・ポルトガルはそのすべてを征服できるほどの軍事力をもっていなかったからです。そのため、植民地分界線はアジア世界の運命を決めた一本の絶対的な線というよりも、「ヨーロッパ側のあいだで、どこまでが誰の担当かを決めるための目安」に近い性質をもっていました。
さらに重要なのは、この分界線がスペインとポルトガル以外のヨーロッパ諸国にはほとんど受け入れられなかったという点です。イングランドやフランス、オランダなどは、教皇の宗教的権威そのものに疑問を投げかける動き(宗教改革)を強め、やがて「ローマ教皇が世界の分割を決める権利などない」と考えるようになります。こうして17世紀以降、これらの国々は自分たちの海洋進出や植民地建設を、スペイン・ポルトガル間の分界線を無視して進めていくことになりました。
国際政治と思想から見た植民地分界線
植民地分界線(教皇子午線)を、国際政治や思想史の視点から眺めると、いくつか興味深い点が見えてきます。第一に、この分界線は、ローマ教皇という宗教的権威が、地球規模での政治問題に「裁判官」として介入しうると考えられていた時代の象徴です。教皇アレクサンデル6世は、教書によって世界の土地の分割に関する判断を下しましたが、それは単なる宗教的助言ではなく、スペインとポルトガルという大国が現実の外交交渉の基礎として受け入れたものでした。このことは、中世から近世初頭にかけてのヨーロッパで、教会と世俗の権力がいかに密接に結びついていたかを物語っています。
第二に、植民地分界線は「キリスト教世界以外の土地は、ヨーロッパのキリスト教国が分け合ってよい」という考え方を前提にしています。教皇の教書やトルデシリャス条約では、「キリスト教国によってすでに支配されている土地」を除くことが明記されていましたが、その一方で、アメリカ大陸の先住民社会や、アフリカ・アジアの王国は、その土地の主として十分に尊重されていませんでした。これは、ヨーロッパ中心の世界観が、どのようにして「他地域の人々の主権を軽視する」方向へ働いたかを示しています。
第三に、植民地分界線は「国際法」や「主権国家」という近代的な概念がまだ未発達だった時期に、事実上のルールづくりがどのように行われていたかを知るうえでも重要です。スペインとポルトガルは、教皇の裁定と条約交渉によって、自国の「勢力圏」を整理しようとしましたが、そのルールは他国には必ずしも通用しませんでした。のちにオランダの法学者グロティウスが「海洋自由論」を唱え、いかなる国も海と航路を独占すべきではないと主張した背景には、スペイン・ポルトガルによる独占的支配と、それを支えた教皇権への批判がありました。
こうした観点から見ると、植民地分界線(教皇子午線)は、単にスペインとポルトガルが世界を二分した「線」ではなく、宗教的権威、ヨーロッパ中心主義、そして国際秩序のルールづくりのあり方が複雑に絡み合った歴史的現象だといえます。その結果として生じた植民地支配は、多くの地域にとって深い影響と傷跡を残しましたが、その起点の一つとして、この一本の想像上の線があったことを知っておくことは、世界史を理解するうえで欠かせない視点のひとつです。

