クロアティア人 – 世界史用語集

クロアティア人は、南スラヴ系の民族で、主としてクロアティア共和国およびボスニア・ヘルツェゴビナ西部から中部にかけて分布し、言語・宗教・歴史経験を共有する共同体です。言語は南スラヴ語群に属するクロアティア語で、ラテン文字を用いる点が周辺のセルビア語(主にキリル文字)との対照を成します。宗教はローマ=カトリックが多数を占め、アドリア海沿岸の都市文化と内陸の農牧文化、中央ヨーロッパとバルカンの接点という地理が、独特の文化層を形づくりました。中世の王国、ハンガリーとの同君連合、ハプスブルク体制、オスマン帝国との境界防衛、そして20世紀のユーゴスラヴィア時代と独立戦争を経て、現在の国家枠組みへと至った歴史があります。まずは、スラヴ人移動期に成立した政治共同体が、海と山の地理・信仰・文字の選択を通じて漸次固有のアイデンティティを獲得した、と押さえると全体像が掴みやすいです。

以下では、起源と民族形成、中世から近世の政治構造、近現代における国家形成の軌跡、そして言語・宗教・文化の特質という四つの視点から、クロアティア人を丁寧に見通します。周辺民族との親縁性と差異、アドリア海世界と中欧世界のはざまで織り上げられた歴史の重なりを意識すると、用語としての「クロアティア人」が持つ厚みがより明瞭になります。

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起源と民族形成:スラヴ移動、地名、早期の共同体

クロアティア人の起源は、6〜7世紀のスラヴ人の南下に関連づけて語られます。黒海北方からカルパティア盆地を経てバルカン半島へ移動したスラヴ諸集団の一枝が、ダルマチア沿岸と内陸山地に定着し、既存のローマ系住民やイリュリア系の後裔と混淆しながら共同体を形成しました。「フルヴァト(Hrvat)」に由来する民族名は、碑文や史料に早くから現れ、アヴァールやフランクなど周辺勢力との関係の中で政治的自称として固まっていきます。地名では、アドリア海沿岸のダルマチア(海洋都市の帯)と、内陸のパンノニア寄りに広がるスラヴ系居住域とが併存し、後の行政・文化の二重性の萌芽が見られます。

9〜10世紀には、ダルマチア・クロアティアとパンノニア・クロアティアと呼ばれる王侯的指導者のもとで、部族連合から王国への移行が進みました。戴冠が伝えられるトミスラヴは、10世紀初頭に教皇や周辺勢力と関係を結び、西方キリスト教世界との紐帯を強めます。沿岸都市ではラテン語・ギリシア語文化の残影が濃く、内陸ではスラヴ語を礼拝言語とする伝統が生き、やがてグラゴル文字系統の表記(グラゴリツァ)という特異な文化的選択も育ちました。こうした二重の文化基盤が、周辺世界との橋渡し能力を高める一方で、政治の分節化を招く土壌にもなりました。

早期の共同体は、教会組織の整備を通じて国際秩序に位置づけられます。司教座の設置、修道院の発展、巡礼路・商路の整備とともに、王権は西欧的な封建的紐帯と、バルカン的な在地共同体の慣習の双方を包摂しました。クロアティア人の自意識は領域・言語・信仰の三点で徐々に明確化し、外圧(アヴァール、マジャル、ブルガリア、後にはヴェネツィア)に応じて防衛同盟と婚姻政策を駆使する政治文化が育ちました。

中世から近世:王国、連合、境界防衛と都市文化

11世紀末までに、クロアティア王国は相対的安定を得ますが、12世紀の初頭には王家断絶により、ハンガリー王国との同君連合へと移行しました(1102年の条約伝承が象徴的に語られます)。以後、19世紀までハンガリーと一体で統治される時期が長く続き、クロアティア人の政治的地位は「王冠の一部分」という形で定義されました。サボル(議会)とバン(総督)の制度は、自律性の担保として機能し、法的に「王国としてのクロアティア」の名は存続します。この枠組みは、連合体の内部における自治と忠誠の均衡という、クロアティア政治文化の持続的テーマを生みました。

沿岸部ではヴェネツィア共和国の影響が強まり、ダルマチアの主要都市(ザダル、スプリト、トロギル、ドゥブロヴニクなど)はラテン系都市法と地中海交易で繁栄します。ドゥブロヴニク(ラグーサ)は独自の共和国として中世末から近世にかけて自立し、地中海・バルカン・オスマン圏を結ぶ仲介貿易で名を馳せました。石造建築、海事法、ラテン語・イタリア語文芸が開花し、アドリア海世界の文化層にクロアティア人の貢献が刻まれます。

15〜17世紀には、オスマン帝国の膨張が内陸部に迫り、クロアティアは「ヨーロッパの前衛(antemurale Christianitatis)」としての境界防衛を担います。ハプスブルク家の下で軍事境界地帯(ミリタリ・フロンティア)が設置され、在地農民・移民兵(しばしば正教徒系のセルビア人を含む)が武装自営の義務と土地の給付を組み合わせた体制に組み込まれました。これにより、民族・宗教の混住と軍務を軸とする独特の社会編成が形成され、後世の民族関係に長い影を落とすことになります。

近世のクロアティア人社会では、ラテン文化・イタリア文化と、スラヴ語・カトリック信仰が混ざり合い、宮廷・修道院・都市学校を通じて学知が蓄積されました。グラゴル書記伝統は、ダルマチア沿岸の司祭・写字生を通じて残り、ラテン・クロアティア語・古スラヴ語の三層的な文芸実践が見られます。ハプスブルクの行政改革は、法・教育・軍務の標準化をもたらす一方、地方特権の縮減や徴税強化を通じて摩擦も生みました。

近現代と国家形成:国民運動、ユーゴスラヴィア、独立

19世紀、民族復興運動(イルリリズム)が興り、クロアティア語の標準化、民族史の編纂、象徴の創出(紋章、市旗、詩歌)が進みました。イルリリストは、南スラヴ諸民族の連帯を模索しつつ、クロアティア人の固有性を言語・歴史・法的伝統で強調しました。方言のうちでは、シュト方言(シュトカヴィア方言)を基盤としつつ、チャ方言(チャカヴィア)・カイ方言(カイカヴィア)の資産も意識され、正書法・語彙選択の議論が交差します。ハプスブルク帝国内政治では、ブダペストのマジャル化とザグレブの自律要求がせめぎ合い、自治権の拡大と議会政治の展開が進む一方で、社会は都市化・移民・ディアスポラの拡大に直面しました。

第一次世界大戦後、ハプスブルク帝国が崩壊すると、クロアティア人の居住地はセルビア人主導の新国家(後のユーゴスラヴィア王国)に編入されます。ここでの課題は、南スラヴ統合と地方自律の均衡でした。中央集権化への反発から自治主義が強まり、ときに政治的緊張が暴発します。第二次世界大戦期には、枢軸国の庇護の下に独立クロアティア国(NDH)が樹立され、過酷な抑圧と大量暴力が発生しました。この時期の記憶は、戦後も長く地域社会を分断する要因となります。

戦後の社会主義ユーゴスラヴィアにおいて、クロアティアは連邦の一共和国として、工業化・観光開発・教育普及を進めました。アドリア海沿岸は観光地として国際的に知られ、ザグレブは文化・学術・産業の中心地として成長します。1960〜70年代には、文化的自律や経済改革を求める潮流(いわゆるクロアティアの春)が起こり、言語や財政の権限配分をめぐって議論が高まりました。連邦の枠内での自由化試みは抑え込まれましたが、地域社会の自意識は確実に強化されました。

1991年、ユーゴスラヴィアの解体過程のなかで、クロアティアは独立を宣言します。これに対し、国内の一部セルビア人居住地域とユーゴスラヴィア人民軍との武力衝突が拡大し、1991〜1995年にかけて独立戦争(本国では祖国戦争と呼称)が続きました。ドゥブロヴニク包囲やヴコヴァル戦、クライナ地域の占拠と作戦行動など、戦禍は深刻でしたが、1995年の一連の作戦と外交過程を経て、国家主権の実効支配が回復されます。その後、帰還・復興・少数者権利・戦争犯罪の法的処理といった課題に取り組み、2000年代にはEU・NATOへの接近を強め、2013年に欧州連合に加盟しました。

ディアスポラの存在も近現代の重要な要素です。オーストリアやドイツ、スイスなど中欧・西欧の労働移民、さらにアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、南米への移住は19〜20世紀を通じて続き、海外のクロアティア人共同体は宗教施設・文化団体・メディアを通じて結束を保ちました。送金・投資・観光ネットワークは祖国の経済・文化に影響を与え、選挙権や二重国籍の問題は現代政治の論点でもあります。

言語・宗教・文化:方言、文字、海と山の生活世界

クロアティア語は南スラヴ語群の一員で、標準語はシュト方言を基盤としつつ、チャ方言・カイ方言の語彙や音韻を吸収して発展しました。言語規範は19世紀の国民運動以降に整備され、20世紀のユーゴスラヴィア期には「セルボ・クロアート語」という広域名称の下で相互理解可能性が強調されましたが、独立後は表記・語彙選好・文体においてクロアティア語の独自性が再確認されました。アルファベットはラテン文字を採用し、言語学的にはチャ、シュト、カイという疑問詞に由来する方言区分が教科書の定番として扱われます。

宗教はローマ=カトリックが多数派で、教会暦に沿った祭礼、聖母崇敬、巡礼地文化が各地に広がります。石造教会や修道院、都市カテドラルの建築史は、ロマネスクからゴシック、ルネサンス、バロックを経る層を示し、イタリア半島との交流の濃さを物語ります。アドリア海沿岸の都市は、石畳の街路、ロッジア、鐘楼といった地中海都市の景観を保持し、内陸のカルスト地形の村落では、木石の混構造や家内工業・牧畜が生活文化を形づくりました。

文字文化で特筆されるのがグラゴル書記伝統です。これは古スラヴ語礼拝に用いられた文字体系で、クロアティアの一部ではラテン典礼と並立的に維持され、石碑・写本・祈祷書に豊かな資料を残しました。グラゴル系の碑文は、クロアティア人がラテン・ギリシア・スラヴの三文化圏を媒介してきた証拠として、しばしば歴史叙述で引用されます。印刷術の受容も早く、宗教と民俗のテキストが広がることで識字・教育の基盤が築かれました。

食文化では、沿岸部のオリーブ・ワイン・魚介を中心とする地中海食と、内陸の肉料理・パプリカ・発酵乳製品を用いる中欧系の料理が重なり合います。伝統音楽や舞踊、民族衣装は地域差が大きく、沿岸と島嶼では多声合唱の伝統が、内陸では弦楽器・笛を用いた素朴な旋律が親しまれます。スポーツではサッカーやハンドボールが人気で、国際舞台での活躍は現代の民族的結束を象徴する出来事として共有されます。

周辺民族との関係に関しては、親縁性と差異の両方を念頭に置く必要があります。クロアティア人・セルビア人・ボシュニャク人は、言語的には連続体を成しつつ、宗教伝統(カトリック/正教/イスラム)と文字(ラテン/キリル)という選択が社会文化の境界を描いてきました。多民族・多宗教の混住は、協働と緊張の両面をもたらし、歴史の局面ごとにそのバランスが変化します。近代以降の国家境界と民族政治は、この複合性の上に構築されており、クロアティア人の自己理解もまた、その都度更新されてきました。

まとめとして、クロアティア人は、アドリア海と中欧の接点に生きる南スラヴの民族であり、言語・宗教・政治制度・生活文化の重層性を通じて、周辺世界と独自に交渉してきました。中世王国から連合の時代、境界防衛と都市文化の開花、ナショナリズムと連邦、そして独立国家の確立へと至る長い時間のなかで、彼らの共同体は変化を受け止めながら連続性を保ってきたと言えます。世界史用語として学ぶ際には、地理と制度、信仰と文字、海と山という対概念が編み上げる交点に注目すると、クロアティア人という項目が立体的に見えてきます。