クロアティア・スロヴエニア両共和国、独立宣言 – 世界史用語集

「クロアティア・スロヴエニア両共和国、独立宣言」は、1991年6月25日にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国からクロアティア共和国とスロヴエニア共和国が同時に独立を宣言した出来事を指します。冷戦終結直後、民族・経済・政治のずれが一気に噴出し、連邦という入れ物が耐えきれなくなった瞬間でした。スロヴエニアでは十日戦争と呼ばれる短期の武力衝突で連邦軍を押し返し、クロアティアでは国内のセルビア人武装勢力と連邦軍の介入により長期の戦争に発展しました。欧州共同体(EC)は即時承認をためらい、モラトリアム(凍結)を仲介しつつ、最終的には1992年初頭に両国を承認します。要するに、連邦の解体が不可避となった中で二共和国が先行して国家主権を主張し、国際社会は法と秩序のバランスを探りながら追認していった出来事だと捉えると理解しやすいです。

以下では、独立宣言に至る背景、宣言当日の経過と直後の武力衝突、国際反応と法的論点、そして中長期の影響という観点で整理し、教科書の一行で済まされがちなこの出来事の立体像を示します。

スポンサーリンク

背景:連邦のゆらぎと二共和国の「離脱論」

ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は、六つの共和国(スロヴエニア、クロアティア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)と二つの自治州(ヴォイヴォディナ、コソヴォ)からなる多民族国家でした。チトーのカリスマと「兄弟愛と統一」の理念の下で、連邦は自主管理社会主義という独特の仕組みを保ってきましたが、1980年のチトー死去後、権威の空白と経済停滞が深刻化します。インフレ、失業、対外債務の累積が各共和国の不満を増幅させ、財政再分配をめぐる利害の対立が先鋭化しました。

制度面では、1974年憲法が共和国の自治権を大幅に拡大し、集団大統領制で連邦首脳の輪番制を採用していました。この枠組みは平時には分権の緩衝材でしたが、危機時には意思決定が遅れ、各共和国の離心力を強める結果になりました。1980年代後半、セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチが中央集権化とセルビア民族の権利回復を掲げて台頭し、コソヴォやヴォイヴォディナに対する影響力を強めます。これに対し、スロヴエニアとクロアティアでは市場化と政治多元化を志向する潮流が強まり、連邦の枠内改良よりも主権拡大へと議論が進みました。

1989〜1990年、東欧で一党支配が崩れると、スロヴエニアとクロアティアでも自由選挙が実施され、いずれも独立志向の強い政権が誕生します。スロヴエニアでは民主反対派の連合(DEMOS)が勝利し、クロアティアではフラニョ・トゥジマン率いるクロアチア民主同盟(HDZ)が政権を握りました。他方、クロアティア国内では多数のセルビア人居住地域(クライナなど)で連邦維持・セルビアとの結合を望む運動が高まり、各地で道路封鎖や治安の緊張が生じました。こうした内外の力学が、連邦の「離合集散」の引き金を次々と引いていきます。

外交的には、西欧諸国やECは当初「ユーゴスラヴィアの領土保全」を基本姿勢とし、急進的な独立論に抑制的でした。国境の安定と難民・暴力の回避が優先されたからです。しかし、各共和国の住民投票で独立支持が多数となり(スロヴエニア1990年12月、クロアティア1991年5月)、連邦の統合力は決定的に低下します。二共和国は、連邦の再設計が不可能だと判断して「主権の回復」に舵を切りました。

宣言の発出と直後の衝突:6月25日からの数週間

1991年6月25日、両共和国の議会は独立を宣言しました。スロヴエニアは国境管理・関税・通行手続を自らの管轄に移し、連邦機構からの実質離脱を具体化しました。これに対し、連邦政府とユーゴスラヴィア人民軍(JNA)は国境検問所や空港などの要地を押さえようとして武力を投入し、6月27日からスロヴエニア領内で戦闘が発生します。これがいわゆる「十日戦争」です。

十日戦争は、民兵と治安部隊で機敏に動くスロヴエニア側がトンネル・峠・検問所で待ち伏せと包囲を多用し、JNAの機甲部隊と補給線を効果的に分断しました。双方に死傷者は出ましたが、戦闘は比較的短期間で収束し、7月初旬にはJNAが撤退を始めます。戦争の短期終結には、スロヴエニアに大規模なセルビア人居住地がなかったこと、戦略的価値が限定的と見なされたこと、国際メディアの注視が連邦側の強硬策を縛ったことなどが作用しました。

これに対しクロアティアでは、6月の独立宣言以前から緊張が武力衝突に転じており、1991年夏以降、クライナ地域や東部スラヴォニアで大規模戦闘が拡大しました。連邦軍とセルビア系武装勢力が連携し、ヴコヴァルの包囲(8〜11月)やドゥブロヴニクの砲撃(10月以降)など象徴的な戦闘が続きます。都市や文化財の被害、住民の避難・追放は深刻で、戦線は冬にかけても収まりませんでした。クロアティアの戦争が長引いた背景には、国内の民族混住、戦略地形、連邦軍の本格投入がありました。

ECは6月末から仲介に乗り出し、スロヴエニアの戦闘には迅速に停戦監視団を派遣しました。7月7日、クロアチア沖のブリオニ諸島で、EC仲介の「ブリオニ宣言」がまとめられ、両共和国は独立の効力を三か月凍結(モラトリアム)することに同意します。名目上は緊張緩和と交渉の時間確保でしたが、実際にはクロアティア戦線の拡大を止められず、秋以降も戦闘は続きました。スロヴエニアではJNAの撤退が進み、9月末には事実上の独立状態が確立します。

国際反応と法的論点:承認、境界、国家承継

独立承認をめぐる国際社会の対応は、慎重かつ段階的でした。ECは一貫して暴力抑止と交渉を優先しつつ、1991年末から「独立国家の承認基準」を整備します。中心となったのが、ECの設けたバダンテール仲裁委員会(仏の憲法学者ロベール・バダンテールを議長とする法学者委員会)でした。委員会は、(1)ユーゴスラヴィアは内戦の結果として「分離」ではなく「解体」している、(2)共和国境界は国際法上の国境に昇格する(uti possidetis jurisの適用)、(3)少数者の権利保障を新国家承認の条件とする、という趣旨の意見を順次提示しました。

この法理は、二共和国の主張のうち領域保全に関する部分を支え、同時に、境界変更を求める武力行使を否定する根拠にもなりました。特にuti possidetis juris(独立時の行政境界を国境として固定する原則)の適用は、境界線をめぐる争いを法的に封じ込める狙いがありました。ただし、国内の少数者保護や自治の設計という難問は、国境線の固定だけでは解決しませんでした。

承認のタイムラインでは、ドイツが1991年12月に早期承認の意向を示し、EC全体は1992年1月15日にクロアティアとスロヴエニアを承認しました。米国や他のOECD諸国もこれに追随し、両国は1992年5月22日に国連加盟を果たします。国連は同年、クロアティアには保護地域(UNPROFOR)を設けて停戦監視・住民保護に当たり、スロヴエニアには監視要員の限定派遣で足りました。こうして二共和国の国際法上の地位は確立されますが、クロアティア国内の武力衝突はなお継続し、和平合意と実効支配の回復には数年を要しました。

国家承継の技術的問題も重要でした。外交資産、負債、連邦軍資産、国境管理、国有財産の分配など、解体国家に伴う膨大な課題が山積しました。とりわけ、旧連邦軍の兵器・兵営の扱いと、人員の帰属は安全保障上の火種であり、和平合意・停戦ラインの設定、国際監視団の配置と結び付けて対処されました。通貨・関税・旅券制度の切り替えも、二共和国が「国家としての日常」を稼働させるうえで不可欠でした。

その後の帰結:二共和国の国家づくりと地域秩序

スロヴエニアは、短期戦で連邦軍を退けたあと、比較的迅速に欧州統合のレールに乗りました。市場経済移行と制度改革を進め、2004年にEUとNATOに加盟します。民族混住や領土係争が少なかったこと、工業基盤と教育水準が高かったことが功を奏した側面があります。クロアティアは、1991〜1995年の独立戦争のなかで国家統合を進めつつ、1995年の作戦(フラッシュ、ストームなど)とデイトン合意の波及で実効支配を回復し、国連移行政権を経て東スラヴォニアの統合を完了しました。その後は司法改革や少数者の権利保護、戦後復興を積み上げ、2009年にNATO、2013年にEUに加盟します。

広域的には、二共和国の独立は連鎖的に周辺へ波及しました。1991年9月にはマケドニアが、同年末にはボスニア・ヘルツェゴビナが独立への道を歩みます。特にボスニアでは民族構成が複雑で、1992〜1995年にかけて凄惨な戦争が発生し、国際刑事裁判や人道介入をめぐる国際法の再検討が行われました。クロアティア・スロヴエニアの独立は、ユーゴスラヴィアという多民族連邦の「不可逆的な終わり」を世界に示すシグナルであり、旧社会主義圏の国境再編の先例となりました。

国内社会への影響としては、難民・避難民の受け入れと帰還、戦災インフラの復旧、経済の再編、観光立国戦略(とりわけクロアティアのアドリア海沿岸)など、国家建設の課題が山積しました。治安・司法・和解のプロセスは長く、戦争犯罪の追及や記憶の継承をめぐって議論が続きます。スロヴエニアでは経済移行の痛みが比較的小さかった一方、クロアティアは民営化と汚職対策、地域格差の是正に時間を要しました。

歴史叙述の面では、「独立宣言」の意味づけが国によって異なります。スロヴエニアでは短期の武力抵抗と国家の成熟へ至る「成功の物語」として語られる傾向が強く、クロアティアでは長期戦での犠牲と祖国防衛の記憶が核心に置かれます。いずれも、民族自決と国家主権という近代の原理を体験的に再確認した出来事であり、同時に、少数者保護・国境固定・地域協力という国際秩序の要請に向き合う契機でもありました。

まとめとして、1991年6月の「クロアティア・スロヴエニア両共和国、独立宣言」は、冷戦後世界の入口で生じた主権と法、民族と安全保障の難問を一身に引き受けた節目でした。二共和国は、連邦の解体という現実のなかで国家を立ち上げ、戦争と外交、制度改革を通じて国際社会に居場所を確保しました。出来事を理解する鍵は、(1)連邦の制度的疲労、(2)住民投票と議会決定、(3)短期戦と長期戦の分岐、(4)EC・国連の段階的承認と法理、(5)EU・NATOへの長期的収斂、という五つの線を束ねて見ることにあります。そうすることで、単なる「独立の宣言」ではなく、宣言が呼び寄せた戦争・交渉・承認・国家建設の全体像が見えてきます。