限田策とは、富裕層や貴族・豪族による過度な土地集中を抑え、一定の上限を設けて土地所有を制限する政策の総称です。国家が直接、個々の領主や農民の所有面積に上限をかける点が最大の特徴で、目的は税収の安定化、兵農の確保、貧富の是正にあります。古代から中世にかけての東アジアでは、中国の新(王莽)期の「限田法」が代表例として知られ、加えて均田制の導入や荘園抑制策と併走する形で議論されました。西洋でも共和政ローマのグラックス兄弟によるアッゲル・プブリクス(公有地)の再分配と私有上限の設定が、性格上きわめて近い政策でした。いずれも社会の分極化や国家の財政・軍事基盤の弱体化に対する危機感から生まれ、実施段階では既得権との衝突、運用の困難、監督行政の限界に直面しました。限田策は「土地の再配分」という単純なスローガンに見えて、実際には土地台帳の整備、課税と兵役の制度設計、地域社会の慣行や市場の動きまで絡む複合的な改革だったのです。以下では、中国の具体例を軸に、制度の狙いと仕組み、挫折や波及効果、他地域の類例との比較、また均田制など関連用語との違いを整理します。
用語の核心と歴史的背景
限田策の核心は、国家が定めた上限面積を超える私的な土地所有を禁じ、超過分を没収・買い上げ・再分配する、あるいは課税上の不利を与えて縮小を促すという点にあります。対象は主として豪族や大土地所有者で、農業生産の基盤である自作農・自営農を増やし、徴税と兵役の担い手を広く確保することが政策目標でした。土地と人口が税と兵の根幹であった古代国家にとって、土地の集中はすなわち国家的リスクであり、限田策はその是正手段として構想されたのです。
こうした政策が必要とされた背景には、長期の戦乱や王朝の交替に伴う土地の荒廃と、復興期における富者の囲い込みがあります。農民は借地・負債・身売り・逃散などを強いられ、豪族の私的勢力圏(荘園や邸店・部曲の集団)に組み込まれていきました。結果として国家の税籍や兵籍から人々が抜け落ち、財政と軍制が痩せ細るという悪循環が生まれます。限田策は、この悪循環に制度面から楔を打ち込む試みでした。
ただし、限田策は単独で機能するものではなく、土地台帳の整備(戸口・田地の登録)、再分配の実務(測量・境界画定)、違反に対する罰則や紛争仲裁の仕組み、さらには再分配後の農民が自立できるだけの税率・租庸調の設計など、一連の制度パッケージを必要とします。これらが欠けると、名目上の限田はいずれ骨抜きとなり、帳簿上は適法でも実態は旧所有者の影響下、という事態に陥りました。
中国における代表例:王莽の「限田法」を中心に
限田策の代表格としてもっとも有名なのが、新朝(前8〜後23)を樹立した王莽が掲げた一連の社会経済改革のうち、土地制度に関わる「王田制」と「限田法」です。王莽は、儒教的な古制復興を掲げ、土地は本来「王土」であるという理念から、過度な私有と売買、奴婢の私的隷属を批判しました。王田制は土地の名目的な公有化を含意し、限田法は個人・家産が保有できる面積の上限を具体的に定め、超過分の整理・再配分を狙うものでした。
改革の狙いは明確でした。第一に、荒廃地を再生し自作農を増やして税収の母体を回復すること。第二に、豪族の経済力と私兵的権力を抑えて、中央の統制を強めること。第三に、奴婢・小作農の過度な依存状態を解き、社会の流動性を高めることです。王莽はこれを貨幣・塩鉄などの国家専売、価格安定を図る五均・六筦といった経済統制と合わせて推し進めました。
しかし実施は困難を極めました。第一に、全国的な精密台帳が不十分で、土地測量と登記の現場に任される部分が大きかったこと。第二に、地方豪族や郷里共同体による抵抗・迂回が激しく、名義借り・仮装譲渡・血縁ネットワークによる分割所有の偽装など、抜け道が横行したこと。第三に、王朝そのものが成立間もなく政情不安で、赤眉・緑林など反乱の波に呑まれ、行政の持続性を欠いたことです。結果として、限田法は理念先行の色彩が濃く、持続的な成果に結び付きにくいものでした。
とはいえ、この挫折は無意味ではありませんでした。豪族対中央の構図、土地再編の必要性、税と兵の基盤を回復するという課題を鮮明にした点で、後代の均田制や戸調制、さらには唐代の里正・保甲といった人口・土地管理の基礎発想へと引き継がれていきます。王莽の失敗は、理念が正しくとも、制度の裏づけと行政能力、既得権との折衝がない改革は長続きしないという教訓を残しました。
中国史では、限田という語が常に明文の法令名として登場するわけではありません。北魏の均田制は、国家が土地を貸与(口分田・永業田)し、戸口の増減に応じて再配分する仕組みで、形式上は所有上限を設けずとも、国家による配分の枠組みが大土地所有を抑制する効果を持ちました。均田制の背後には、耕作者の割当面積という実質的な「限度」があり、私的買占め・隠田をチェックする制度(籍帳・図籍)と連動していました。厳密な意味では限田“法”ではありませんが、土地集中抑止という政策目的は共有しています。
唐代以降、均田制の弛緩とともに荘園化が進み、両税法が導入されると、課税対象は資産総体に移行していきました。この段階では、直接的な限田よりも、課税の方法で大土地所有に負担を振り向ける方向が重視されます。ただし、諸地方では荘園整理や没官といった強権的手段が断続的に用いられ、実質的な限田の機能を補うことがありました。つまり、中国史における限田策は、明確な一法令としてだけでなく、課税・配分・没収という複合的な手段の総体として展開されたのです。
制度の設計と運用上のハードル:なぜ骨抜きになるのか
限田策の成否を分ける第一の条件は、土地台帳と測量の正確さでした。境界線の確定、田畝の等級、灌漑条件などを反映した評価が整っていないと、上限面積といっても実質は不公平を生みます。収量が高い良田一頃と痩せ地一頃を同列に扱うと、制度がかえって不公正になります。古代の測量技術・人員・時間の制約は大きく、ここで生じる誤差は、そのまま不満と抜け道の温床となりました。
第二に、名義の操作です。豪族は親族・同族・被庇護民の名義を用いた土地の分散所有を行い、法が定める上限を形式上は遵守しつつ、実効支配を維持しました。これは王莽期に限らず、後代の荘園・大土地所有でも繰り返し見られる現象です。国家は連帯責任や共同体単位での把握、田地の実地検査、越境所有の制限などで対抗しましたが、広大な国土では監督が追いつかず、地方官と豪族の癒着も障害となりました。
第三に、再分配後の自作農維持の難しさです。土地を与えられても、種子・家畜・農具・灌漑の整備がなければ生産は立ち上がりません。豊凶の波を越える備蓄・金融の仕組みが弱いと、農民は再び借金に依存し、土地を手放して旧所有者の保護下に戻ります。限田策が金融・市場政策(価格統制、穀倉管理、低利融資)とセットで構想されるのはこのためです。
第四に、政治的コストです。限田は既得権の核心に触れるため、中央の強い求心力と、現場が粘り強く運用できる行政力が不可欠です。王朝初期の混乱期や、反乱の頻発する時期に強行すれば、反発は一段と激しくなります。逆に、長期安定期であっても、豪族の官界進出や科挙層との結びつきが強まると、法の運用は必然的に緩みます。「法はあるが適用されない」状態は、限田策でも頻出しました。
こうしてみると、限田策は単なる「上限設定」ではなく、測量・台帳・課税・金融・治水・司法・人事といった国家機構全体の性能が問われる改革であることがわかります。理念が明快なだけに、失敗すると反動が強まり、以後の改革がより困難になるという副作用も生じました。
他地域との比較と関連用語の整理:ローマの農地改革、均田制・荘園との違い
限田策に近い海外の例として、共和政ローマのグラックス兄弟(前2世紀後半)が行った農地改革が挙げられます。彼らは、無産化した市民の救済と軍制の再建を狙い、アッゲル・プブリクス(国有地)を小農民に再分配し、個人が占有できる上限(上限を超える分は返還)を設定しました。背景には、ラティフンディアと呼ばれる大土地経営の拡大と、奴隷労働に依存する農業の発展によって、中小農民が没落したという事情がありました。政策目的・手段・反発の構造は、王莽の限田法と驚くほど共通しています。結果としてローマでも政治的対立が先鋭化し、改革の持続性は限定的でしたが、都市と農村、富裕層と兵農の関係をめぐる問題提起として大きな意義を持ちました。
関連用語との違いも明確にしておきます。まず「均田制」は、国家が耕作者に一定の面積を貸与し、口分田は死亡・離脱時に返還、永業田は家産として保持を認めるなど、配分原理を制度化したものです。均田制は、国家の配分枠組みを通じて土地集中を抑える点で限田策と目的を共有しますが、直接に「所有の上限」を禁じる法ではありません。むしろ、分配の仕組みを通して結果的に集中を抑制する制度です。
次に「荘園」は、私的権力が司法・租税免除・徴発免除などの特権を背景に形成した大規模な土地領有形態を指します。荘園抑制策は、免税特権の廃止、没官、入墨・徒流などの刑罰、土地の再編など多様で、限田策と重なる局面もありますが、焦点は特権の剥奪と領主権の縮小にあります。限田策は、あくまで所有面積の上限設定に重心が置かれ、荘園の法的特権そのものを直接否定するとは限りません。
また、「方田均税法」(北宋・王安石の新法の前史)や両税法のような課税制度は、土地や資産の把握を精緻化し、課税の公平を図ることを目的とします。結果として大土地所有への課税強化となり、土地集中の抑止に一定の効果をもたらすことがありますが、それ自体は限田策ではありません。課税制度はインセンティブ設計によって所有構造に影響を与える政策であり、所有上限の設定という法的強制とは性格が異なります。
このように、限田策は「上限設定による強制的な集中抑止」、均田制は「国家配分による構造的な集中抑止」、課税制度は「インセンティブ設計による間接的な集中抑止」、荘園抑制は「特権剥奪による領主権の縮減」と整理できます。歴史上の諸改革はしばしばこれらを組み合わせ、相互に補完し合いながら運用されました。
影響と評価:短期成果と長期的帰結の落差
限田策は、短期的には未墾地の再生や一時的な税基盤の拡張、豪族勢力の牽制という効果をもたらすことがあります。改革の開始直後は、違反の露見や象徴的な没収が見せしめとなり、従来の慣行に歯止めがかかるからです。また、台帳整備や測量事業が進むことで、国家の統治情報が更新され、他の政策(治水・徴兵・課税)にも好影響を与えます。
一方、長期的な持続には、法令の細部と行政の粘り強い実施が不可欠です。史上、多くの限田策は、政権交替・飢饉・戦乱・地方官の更迭などのショックに脆弱でした。土地の集積は市場原理と相性が良く、資本とネットワークを持つ者の側に有利に働きます。国家が市場に介入し続けるには、財政力と正統性が必要であり、これが薄れると、限田は骨抜きとなって逆に「地上げ」の口実に使われることさえありました。
それでもなお、限田策が歴史に刻んだ重要な意義は、土地所有の公共性を可視化した点にあります。土地は単なる私財ではなく、共同体の存立と税・兵・治安の基礎をなす資源であるという発想は、王莽の理念的な「王土」論に限らず、ローマの公有地観やイスラーム世界のウシュル・ハラーズ制度にも通底します。所有権の保障と公共性のバランスをどこに置くか――この問いを、限田策は繰り返し社会に突きつけました。
現代の観点から見れば、限田策は一国の発展段階や行政能率、法の支配の成熟度に大きく依存する政策です。今日でも土地政策には、上限設定よりもむしろ課税(固定資産税や地価税)、取引規制、地域計画(ゾーニング)、地籍整備、農地の集積・分散の調整といった多層的な手段が用いられています。歴史の限田策は、強権的で単線的に見えますが、当時の国家が取りうる限られた選択肢の中で、土地の公共性を守ろうとした苦闘の記録でもあります。
総じて、限田策は「土地をめぐる国家・市場・共同体の力関係」を映し出す鏡でした。王莽の改革から均田制、荘園抑制、ローマの農地改革に至るまで、名称は違っても、狙いは自作農という中間層の厚みを保ち、国家の基礎体力を回復することにありました。成果は時に限定的でしたが、その試行錯誤が後続の制度設計に蓄積を与え、土地と公共性をめぐる歴史的思考の枠組みを形づくったことは確かです。

