阮朝(グエンちょう、1802–1945)は、ベトナム最後の王朝であり、都をフエ(順化)に置き、清朝への朝貢体系と科挙官僚制を基盤に国家を運営した政権です。建国者の嘉隆帝(ガーロン、阮福映)は西山党(タイソン)を打倒して南北を再統一し、嗣徳帝(トゥドゥック)に至る19世紀前半には中央集権化と領域国家化を進めました。他方、宣教師問題と通商・領土紛争を契機にフランスが軍事介入し、1862年のサイゴン条約以後は南部コーチシナの割譲、さらに1883〜84年の条約で安南・トンキン両地が保護国化され、阮朝は名目的主権を残すにとどまりました。20世紀前半は植民地統治の下での近代化と民族運動が進み、1945年の日本軍政と八月革命を経て、保大帝(バオ・ダイ)の退位により王朝は終焉しました。以下では、成立と国家構造、対外関係と植民地化、内政・社会・文化、崩壊までの歩みを整理します。
成立と国家構造:再統一、官僚制、領域国家化
阮朝の前史は、17〜18世紀に南方を実効支配した「阮氏広南国(阮主)」にさかのぼります。西山党の蜂起(1771以降)でいったん瓦解したのち、阮福映(のちの嘉隆帝)がサイゴンを根拠地に勢力を回復し、1802年に昇龍(トンロン、ハノイ)へ入城して全国を統一しました。都はフエに定められ、宮城・城郭・儀礼・官制が総合的に整備されます。
嘉隆帝と継承者の明命帝(ミンマン、在位1820–1841)は、地方分権的だった旧来の軍鎮・藩鎮を再編し、全国を省(ティン)に区分して知事(巡撫・総督)を派遣しました。三省六部をモデルとする中央行政を整え、戸籍・地籍・租税を再編し、科挙を正規化して文官登用を制度化します。法律は『皇越律例(嘉隆律)』に体系化され、刑名・訴訟・財産・婚姻などの規定が整備されました。国号は当初「越南(ベトナム)」と称し、のちに大南(ダイナム)を号して自尊を強めています。
国家理念は儒教的秩序を柱とし、宗廟・社稷・郷約・学宮の整備、科挙(郷試・会試・殿試)の実施、士大夫文化の涵養が行われました。王権の象徴は皇城(フエ宮城)と皇陵群に体現され、礼楽・音楽・舞踊は宮廷儀礼として洗練されます(宮廷雅楽〈ニャーニャック〉は後世、無形文化遺産として評価されます)。
対内的には、メコン・デルタの開発と治水・灌漑、港市(サイゴン=嘉定、ヴィンロン、カントー等)の整備、南部の稲作・塩・漁業の振興が図られました。高地の山地民(タイ系、モン・クメール系)に対しては官府・土司の二重統治や羈縻的関係が採られ、領域国家としての統合が進みます。チャンパ残存勢力の吸収(1832年にパンラン政権を廃し沿岸部を直轄化)やカンボジアへの宗主権行使もこの流れに含まれます。
宗教については、仏教・道教・民間信仰が共存し、祖先祭祀が社会規範を支えました。カトリックは17世紀から徐々に布教域を拡大しましたが、明命・紹治・嗣徳期には一部で迫害・禁教が繰り返され、これがのちの対仏緊張を高める要因となります。
対外関係と植民地化:清への朝貢、シャム・ラオス・カンボジア、フランスの介入
阮朝は清朝へ朝貢を行い、冊封関係を通じて国際的正統性を確保しました。一方、半島部ではシャム(タイ)とメコン下流域・ラオス・カンボジアをめぐって角逐し、カンボジアの護国・介入は19世紀前半の地域秩序に大きな影響を与えます。ラオス諸王国に対しては宗主権と対シャム牽制の両面から関係を構築しました。
西欧勢力との関係は、18世紀末のヴェルサイユ条約(1787、阮福映がピニョー神父の尽力で締結—実現は限定的)に端緒があり、19世紀に入ると宣教師問題と通商要求が重なって緊張が高まります。1847年のダナンでの仏越衝突を経て、仏西連合軍は1858年にツーラン(ダナン)を攻撃、つづいてサイゴンを攻略しました。
嗣徳帝期、阮朝は劣勢のなかで1862年サイゴン条約を締結し、ビエンホア・ザーディン(嘉定)・ディンツォンの三省をコーチシナとしてフランスに割譲、賠償と伝教の自由を認めました。1867年にはヴィンロン・アンドン・ハティエンも併せて失われ、メコンデルタの要地はフランス植民地となります。北と中部では1874年条約でベトナムの「独立」をうたう一方、実質的な通商・治外法権を容認するかたちとなり、続く1883年ユエ条約(アルマン条約)および1884年パテノートル条約で安南(中部)・トンキン(北部)はフランスの保護国に編入されました。これに連動して中仏戦争(1884–85)が起き、天津条約により清はベトナムに対する宗主権を放棄します。
こうして1887年には仏領インドシナ連邦が成立し、コーチシナは直轄植民地、安南・トンキンは保護国として総督・駐箚公使の統制を受け、フエ宮廷の裁量は典礼と限定的な司法に縮減されました。フランスは税制(人頭税・塩税・アルコール専売など)とインフラ(道路・鉄道・港湾)を掌握し、経済はゴム・米・鉱産資源の輸出志向へと再編されます。
内政・社会・文化:科挙・言語・経済・抵抗
保護国化後も、フエ宮廷は科挙と儒教秩序を維持しましたが、植民地権力のもとでその社会的吸引力は徐々に低下します。官僚登用は引き続き漢文(チュハン)と喃字(チュノム)の素養を重視しつつ、20世紀初頭にはローマ字表記のクオックグー(国語字)が教育・出版で拡大しました。新聞・雑誌の普及、都市の公教育、印刷業の発展は、新しい言論空間を生み、士紳の一部は改革思想へ傾斜します。
経済面では、メコンと紅河デルタの稲作が拡大し、輸出米の大量生産が進む一方、農民は小作化・負債化に苦しみました。ゴム園・鉱山・港湾建設では労働動員が行われ、都市にはベトナム人・華人・仏人が混在する商工コミュニティが形成されます。租税体系は専売(塩・酒・アヘン)と人頭税が基礎で、村落の自治機構(社)が徴税・労役配分の単位となりました。
宗教・社会では、仏教・道教・民間信仰に加え、カトリック共同体が拡大し、20世紀にはカオダイ教やホアハオ教といった新宗教が台頭します。都市文化では劇場・写真・近代建築が現れ、宮廷文化とモダニティが併存しました。フエの宮廷建築群・皇陵群は、ベトナム美術・庭園文化の粋を示す遺構として現在も残ります。
抵抗運動は幾層にも展開しました。1885年、攝政の尊室説(トン・タット・トゥエット)が幼帝咸宜(ハム・ギー)を奉じて勤王運動(カンヴオン)を呼号、宮廷と民間の連携による抗仏闘争が各地に広がります。咸宜はのちに捕縛・流刑となりますが、この運動は「王を中心に国を救う」という伝統的正統論に基づきました。20世紀初頭にはファン・ボイ・チャウの東遊運動(日本・中国への留学・軍事訓練)と、ファン・チュー・チンの立憲・教育改革路線が並走し、1907年には東京義塾(ドンキン・ギアトゥック)が開校して国語・啓蒙教育を推進しました。1916年には維新帝(ズイタン)のもとで蜂起が試みられ、帝は廃位・流刑となります。以降、都市の民族主義団体・共産主義組織・農民運動・労働争議が多様な形で拡大し、1930年の安沛(イエンバイ)蜂起などを経て、反植民地闘争は新段階へ移ります。
崩壊まで:日本占領、帝制の終幕、退位
第二次世界大戦期、フランス本国の崩壊後もインドシナではヴィシー政権の下で仏当局が継続統治しましたが、1940年以降日本軍が進駐し、仏軍と併存する二重支配が成立しました。1945年3月9日、日本はクーデターで仏当局を武装解除し、阮朝の名目的主権を前面に出して「ベトナム帝国」を樹立、保大帝の下で陳仲金内閣が短期政権を担います。しかし戦時下の飢饉・物流混乱は深刻で、社会不安は高まりました。
8月、連合国の勝利とともに日本の統治は崩れ、ハノイではベトミンが八月革命を起こして政権を掌握します。保大帝はフエで退位を表明し、帝位の象徴(璽と剣)を引き渡しました。1945年9月、ハノイでベトナム民主共和国の独立が宣言され、阮朝はここに実質的な終焉を迎えます。保大はのちにフランスの支援で「越南国」の元首(国家元首)として復帰しますが、1955年にゴ・ディン・ジエムに退位させられ、阮朝の政治的血統は近代国家の枠組みから姿を消しました。
阮朝の痕跡は、宮廷建築・皇陵・文書行政・儀礼・音楽、地方の石碑や村落規約、そして歴代皇帝の治世にまつわる記憶として受け継がれています。フエの遺跡群は保存修復が進み、宮廷音楽とともに現代の文化資源となっています。王朝の残した法令や地籍は、近代以降の土地・租税・行政研究の重要な史料でもあります。

