圏地 – 世界史用語集

圏地(けんち、中国語:圈地/クァンディ)は、統治者・貴族・軍事勢力などが一定の地域の土地を「囲い込む」ことで私的占有に組み替える行為・政策を指す歴史用語です。東アジア文脈、とりわけ明末から清初の北中国で頻発した土地の囲い込みを念頭に用いられることが多く、勲戚・宦官・旗人(八旗)・皇室機関が、租税徴収権・牧地・苑囿・軍糧供給地として農地や荒蕪地を取り立て、既存の農民を立ち退かせたり、佃戸として編成し直したりしました。ヨーロッパの「エンクロージャー(囲い込み)」と似た語感を持ちますが、国家的軍事財政と皇室・旗人の身分特権が強く関与し、租税体系や戸籍制度の転換(地丁銀化など)と結びつく点で性格が異なります。圏地は単なる土地略奪ではなく、国家・軍事・都市供給・牧畜・商業が絡む制度的再編であり、農民社会の階層分化、都市への人口流入、佃戸化・小作地化、地籍の混乱、そして反対運動・訴訟の連鎖を伴った現象でした。本稿では、用語の射程と背景、明末から清初の展開、社会経済的影響、政策的応答と法制、比較史的観点、史料上の注意を整理します。

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語義と背景:誰が何のために「囲い込む」のか

「圏(圈)」は「囲いを設ける・線を引く」の意で、圏地は原則として公的権力の裏付けのもとに行われる地面の囲い込みを指します。目的は大きく五つに分類できます。第一に軍事・牧畜で、軍馬の放牧地や軍糧生産のための直轄田(屯田・皇庄)を確保するものです。第二に皇室・貴族の苑囿・財源としての占有で、租税免除や専売利益と結びつきます。第三に都市の糧道統制で、首都圏の穀物流通を官的に握るための囲い込みです。第四に財政再建で、荒蕪地の「名目上の官有化→再下賜」によって恩顧を配る手段となりました。第五に私的収奪で、宦官・勲戚・旗人・里甲上層らが地縁と権力を利用して地券を書き換える類型です。これらは単独で現れることもあれば、複合的に作用することもあります。

圏地が社会問題化する背景には、戦乱・疫病・荒廃による空閑地の拡大と、国家の軍費・宮廷費の増大、農村の貨幣化の進行がありました。名目的には荒地の再開発・牧地確保と称しながら、実際には在地農民の耕作権と慣行を侵食し、地券・租税負担・役務義務の主体を入れ替えることが多かったのです。

明末の圏地:勲戚・宦官の皇荘拡張と首都圏の糧道

明代後期、北京と南京を中心とする宮廷財政の圧迫のもと、勲戚(皇族・外戚)宦官が各地で皇荘・監荘を増やし、地元里甲の負担を肩代わりする名目で圏地を進めました。特に京畿(直隷)・山東・河南では、首都の糧道(運河・倉場)に近い良田が標的となり、役夫・漕運・供応の諸負担が農民に重くのしかかりました。地券の上では「皇荘」として租税免除を享受しつつ、実際の耕作は在地農民が担うため、収穫からの二重取り(地代+租庸調的負担)に近い状況が生まれ、逃散・流賊化の温床となります。これに対し、地方官の中には勅旨を盾に取る圏地勢力へ対抗する術を欠き、訴訟の山積と地図・簿冊の改竄が常態化しました。

清初の圏地運動:八旗・皇室による制度化とその反動

17世紀半ば、清の入関(1644)後、八旗(旗人)は北京と華北平原で大規模な圏地を展開しました。新王朝は旗人の生計と軍事力の維持を優先し、首都圏や河北・山西・山東に広く旗地皇庄を設定します。満洲・蒙古・漢軍の旗人は俸糧とともに地利を得て、在地漢人農民を佃戸(佃客)として編成し、収租(地代)・里甲役を徴しました。加えて、狩猟文化を背景にもつ皇室は苑囿(狩猟場)を広げ、農耕の立ち入りを禁じるための囲い(柵欄・界標)を設けました。

しかし、この圏地運動は急速に反発を招きます。順治朝末から康熙初年にかけて、訴願・越訴・蜂起が増え、康熙帝は「禁圏令」「還田令」などを断続的に発しています。とくに康熙二十年代(1680年代)には、旗人・官人の名を借りた不法圏占の整理、地券の再検査、在地の耕作者の権利保護が掲げられ、無主荒地の公収と再配分、皇庄の縮減が進みました。もっとも、完全に元へ戻すことは難しく、旗地は中核地域に残存し続け、「旗地—民地—官地」の三重区分が地籍・税制の複雑さを固定化します。

清初の圏地には、軍馬放牧や防衛線維持という軍事的合理性もありました。北京周辺から遼西・熱河にかけての緩衝地帯や営盤・牧場は、対モンゴル・対ロシアを見据えた戦略的施設で、ここに付属する農地・屯田が旗人の生活と直結します。したがって、圏地批判と旗人生計確保は常に緊張関係にあり、雍正・乾隆期の改革は、このバランスの再設計に注力しました。

社会経済的影響:佃戸化・流民化・都市化の加速

圏地の拡大は、農民社会の佃戸化階層分化を進めました。自作の地券を失った農民は、旗地や皇荘の佃戸となって地代・役銀を納め、徭役の代替としての貨幣負担を背負います。納入が滞れば立ち退き・債務拘束に直面し、流民化—郷里からの離散と季節雇用労働への依存—が拡大します。流民は治水・城郭・道路の大型公共工事へ吸収される一方、飢饉時には治安問題となりました。

他方で、都市の市場経済は活性化します。首都圏の糧道を官的に握ることは、倉場・運河・商人ネットワークの整備につながり、穀物・塩・布・紙といった基礎物資の市場が拡大しました。旗人社会も、当初の俸糧+旗地収入から、次第に貸付・商業投資・手工業への関与へと収益源を多角化し、在地の漢人富農・商人と縁戚・雇用で結びついていきます。こうして、圏地は農村の疲弊と都市の繁栄という二面性を併せ持つ現象として、地域経済を再編しました。

法制と財政:地丁銀化・版籍整理・火耗帰公と圏地の相互作用

清代前期の財政改革—地丁銀制(丁税の地税への付加・一括化)、火耗帰公(名目外の手数料を公金化)、耗羨帰公など—は、地租の貨幣化と徴収の透明化をめざしました。圏地が拡がる中で、誰から何をどう徴収するか(旗地の免租・官地の上納・民地の正税)が入り組み、州県ごとに版籍(戸口・地籍)の整理が試みられます。康熙・雍正期の勘丈(丈量)は、地積を実測して隠田・虚報を抑える政策であり、不法圏占の是正にも用いられましたが、実務では在地の名望家・書吏が関与して恣意の余地を残しました。

圏地に対抗する施策としては、(1)禁圏/還田令(違法囲い込みの解消)、(2)佃戸保護(地代上限・強制立ち退きの抑制)、(3)開墾奨励(荒地を官許のもとで入植させ、地券を新規発給)、(4)皇庄縮減(宮廷財政の別財源確保=塩専売・関税への依存を強める)、などが併用されました。雍正帝は旗人の生計維持と在地の安定を両立させるべく、旗兵の養廉銀や俸糧制度の見直しを進め、旗地収益への過度の依存を減らす方向を模索します。

抵抗と交渉:訴訟・越訴・暴発から日常の妥協へ

圏地に対する抵抗は多層的でした。まず、郷紳・里長層は訴訟・越訴(上級官庁への直接訴え)で対応し、地券の真正・境界の再画定を求めました。次に、農民は納租拒否・耕作停止といった消極抵抗を取り、収穫物の隠匿・夜間搬出・地代の据え置きを迫ります。第三に、飢饉や疫病の局面では暴発が生じ、圏地の柵や倉庫への襲撃、旗地の役人への暴行事件が記録されます。

ただし、日常は妥協の積み重ねでした。年貢・地代の一部免除(欠租の公認)、共同井戸・灌漑の維持管理の共同化、祭礼・相互扶助の継続など、実務レベルの合意が地域社会をつなぎ止めました。旗人と漢人の婚姻・里甲役の共同負担・治水工事の共同出役など、圏地の境界を生き延びるための横断的な関係が培われます。

比較視角:ヨーロッパのエンクロージャーとの異同

圏地はしばしばイングランドのエンクロージャーと比較されます。共通点は、(1)囲い込みによる耕作権・入会権の剝奪、(2)小農の佃戸化・賃労働化、(3)商品作物・家畜生産の拡大、(4)都市への人口移動、です。一方、相違点は、(A)エンクロージャーが議会立法・私的契約の形式を強め、資本主義的農業経営(羊毛・穀物)を志向したのに対し、圏地は皇室・軍事・身分特権の色が濃く、国家財政・軍政の枠組みと一体であったこと、(B)地租・役銀・戸籍・旗籍といった身分的・行政的束縛が併存し、単線的な市場化ではなかったこと、(C)抵抗の形態が訴訟と行政交渉に強く現れ、長期の「共存」が一般的だったこと、などです。したがって、圏地を近代化の準備と単純に位置づけるのは危険で、帝国の統治技術と地域社会の力学が作った複合現象とみるのが妥当です。

史料・用語の注意:地券・丈量・地名の読み解き

圏地を研究・学習する際には、いくつかの注意点があります。第一に、地券・契約文書・丈量簿の語彙(官地・皇庄・旗地・民地・埔地・荒地・屯田)を精確に読み分けることです。名称が同じでも地域で意味が異なる場合があり、免税・雑税・地代のどれに該当するかで利害が変わります。第二に、圏地の範囲を示す地名・界標(橋・樹・塚・廟・水路)が移動・消滅している可能性があり、現地踏査と地図の突合が不可欠です。第三に、訴訟文書は誇張・省略を含むため、複数の資料(地方志・保甲簿・租税台帳・口碑)を照合する姿勢が求められます。第四に、清初の多言語行政(満文・漢文)による文書の差異は、所有権・役務義務の解釈に影響を与えます。

長期的帰結:旗人社会の変容と地税国家への収斂

圏地の長期的帰結は二つの面に現れました。ひとつは旗人社会の変容です。18世紀中葉以降、旗人は軍事と俸糧のみに依拠することが難しくなり、旗地収入の不安定化も相まって、商業・手工業・貸付へ進出、あるいは貧困化と負債の累積に直面しました。もうひとつは、国家財政の地税国家への収斂です。地丁銀制の定着は、戸口よりも土地・資産への課税比重を高め、旗地・民地の区分は残しつつも、貨幣で一元的に吸い上げる方向を強めました。その過程で、圏地が作り出した境界は、税務の便宜上、徐々に「数字上の区分」へと薄められていきます。

まとめ:境界線としての圏地—国家・軍事・地域社会の交差点

圏地は、国家が社会の内部に引く境界線の実験場でした。囲いは物理的であると同時に、地籍・税制・身分・司法といった見えない制度の線でもあります。明末清初の北中国に典型が見られるものの、時代と地域を超えて、権力が土地と人を再配置するときには同型の現象が繰り返されます。圏地を理解することは、土地所有の正統性、公共と私有のあいだ、軍事と生計、法と慣行がどう折り合いをつけるかという普遍的な問題を考える入口です。華やかな王朝史の背後で、柵と杭と縄、地券と租税簿が織りなす静かな攻防を読み解くとき、圏地の歴史的重みは一層はっきりと見えてきます。