サマルカンドは、中央アジアのゼラフシャン川流域に位置するオアシス都市で、古代から現代に至るまでユーラシアを横断する交易と文化交流の十字路として栄えてきた都市です。ソグディアナの都としてギリシア・ペルシア・インド・中国の世界が交わる場であり、イスラーム化とモンゴルの破壊を経て、14〜15世紀にはティムール(タメルラン)が帝都に選んだことで壮大な建築と学術の中心へと再生しました。レギスタン広場、ビービー・ハーヌム・モスク、グール・エミール廟、シャーヒ・ズィンダ廟群、ウルグ・ベク天文台などの遺構は、都市が蓄積した権力・信仰・知の記憶を今に伝えます。19世紀にはロシア帝国の進出、ソ連期の都市化と民族政策を経て、今日のウズベキスタンにおける歴史・観光・学術の要地となりました。サマルカンドは、一つの文明に属しきらない「交差点の都市」として理解すると、その魅力と歴史的意義が見通しやすくなります。
地理と起源:ゼラフシャンのオアシス、市名とアフラシャブ遺丘
サマルカンドは、天山山脈西麓から流れ出るゼラフシャン川の扇状地に広がるオアシスに立地します。周囲をステップと山地に囲まれつつ、氾濫原の灌漑と湧水に支えられ、古来より麦・綿・果樹(特にアンズとブドウ)が栽培されてきました。都市の古名はソグド語で「スメルカント」に比定され、アケメネス朝の文書やギリシア系史料ではソグディアナの要地として言及されます。現在の旧市街北東に広がる遺丘「アフラシャブ(アフロシヤブ)」は、前1千年紀以降の都市層を重ねた広大な考古学サイトで、壮麗な宮廷壁画(7世紀頃、東西の使節や狩猟を描く)や居住区の水利遺構が、前イスラーム期の国際性と都城機能を伝えています。
都市はマケドニアのアレクサンドロス大王の遠征(前4世紀)で征服され、ヘレニズムの影響を受けつつも、在地のソグド社会が商業と都市の自治を保持しました。ゾロアスター教・仏教・土俗信仰が混淆する宗教風景のもと、土で築いた城壁、市場(バザール)、運河網、郊外の果樹園が連続するオアシス都市の典型が形成されます。乾燥の厳しい気候は建築に厚い日干し煉瓦と土塀、路地の屈曲、内庭式の住居をもたらし、夏の熱と冬の寒さに適応した都市景観が成立しました。
ソグド人とシルクロード:商業ネットワーク、言語、信仰の回廊
サマルカンドの黄金期の一つは、前後漢・隋唐期にかけてのシルクロード交易の時代です。ここで活躍したのが、ソグド人商人のネットワークでした。彼らはラクダ隊を組んでサマルカンドを起点に西はサーサーン朝やビザンツ、東はタリム盆地・長安に至るまで往来し、絹・香料・毛織物・ガラス・金属・紙・書物を運びました。ソグド語(イラン系言語)は交易のリンガ・フランカとなり、ソグド人は中国では「胡」として記録され、長安や洛陽に居留地や寺院を築き、舞楽や衣装、食文化に影響を与えました。
宗教面でもサマルカンドは多彩でした。ゾロアスター教の火殿、仏教寺院、マニ教会堂、ネストリウス派(東方キリスト教)の教会が並び、商人・聖職者の往来が都市の国際性を支えました。8世紀にアッバース朝期のイスラーム勢力がトランスオクシアナへ進出すると、サマルカンドはイスラーム都市として再編され、モスク、スーク、カラヴァンサライ、ハマームが都市機能の核となります。アラビア語・ペルシア語の学芸が浸透し、貨幣鋳造と度量衡の統一、都市自警団と法廷(シャリーア)の整備により、交易の安全が高まりました。
カラハン朝・ホラズム・モンゴルと勢力が交代する中でも、サマルカンドは継続して地域の商業・工芸の中心でした。とりわけ紙の製造が有名で、唐代に捕虜工人から技術が伝わったとの伝承を受け継ぎ、のちにイスラーム世界での書物文化の発展に寄与しました(現在も郊外コニ・ギル村で伝統紙づくりの復興が見られます)。
ティムール帝都と学術:レギスタンの空間、青の建築、ウルグ・ベクの宇宙
1220年、チンギス・ハンの軍がサマルカンドを攻略し、大規模な破壊と人口流出が生じました。都市は一時的に沈滞しますが、14世紀後半、ティムール(タメルラン)がトランスオクシアナに覇を唱え、1370年にサマルカンドを帝国の首都に定めると、建設と芸術の巨大プロジェクトが始まります。ティムールは西アジアの各地から職人・学者を移住させ、煉瓦造・彩釉タイル・モザイク・書の技を総合し、トルコ=イラン=モンゴルの様式を融合した壮麗な都市景観を作り上げました。
この時代を象徴するのがレギスタン広場です。のちの増築を含め、広場の三方を囲むウルグ・ベク学院、シェル・ドル学院、ティラ・カリ学院の三マドラサは、尖塔(ミナレット)と巨大なイーワーン(張出玄関)、瑠璃色のドームを備え、正面のファサードには幾何学文様とコーラン章句のカリグラフィが踊ります。レギスタンは王権の式典と都市の市場機能が重なる公共空間で、広場の設計は政治的演出と日常の賑わいを両立させるものでした。
ティムールの妻にちなむビービー・ハーヌム・モスクは、巨大な礼拝堂と門壁をもつ記念碑的建築で、帝国の威を示しました。丘の上には王族の霊廟グール・エミールが置かれ、碧玉の石棺を中央に据えた八角形平面の空間が、ティムールと後継者の権威を視覚化しました。さらに、都市北東のシャーヒ・ズィンダ廟群は、イスラーム聖者伝承と王族女性の霊廟が階段状に連なる独特の景観を構成し、青いタイルの細密な装飾は中央アジア装飾美術の到達点と評されます。
ティムールの孫ウルグ・ベク(在位15世紀前半)は、政治家であると同時に、当時世界最高水準の天文学者でした。彼はサマルカンド郊外に半径40m級の六分儀(弧)を備えた野外天文台を築き、恒星表『ズィージュ・ギュラガーニー』を編纂して、恒星の位置を高精度に測定しました。天文台遺跡では、地面に半円形の溝として残る観測器の痕跡が発見され、計測科学が宮廷文化の中核にあったことを示しています。マドラサでは数学・天文学・法学・神学が教授され、学芸と宗教の制度的共存が実現していました。
ティムール朝後期、遊牧勢力や周辺王朝の圧力、内紛が重なり、帝都の輝きは次第に陰りますが、建築・工芸・学問の伝統はサファヴィー朝やオスマン、ムガル帝国へも波及し、イスラーム世界の都市美学に長い影響を残しました。
近代以降と現在:ロシア帝国・ソ連・独立ウズベキスタン、文化遺産と日常
19世紀後半、ロシア帝国がコーカサス・中央アジアへ進出する中で、サマルカンドはトルキスタン総督府のもとに編入され、1868年以降、行政と軍の拠点として整備されました。トランス・カスピ鉄道の開通は、綿花・穀物・工芸品の流通を加速し、旧市街(イスラームの町)と新市街(ロシア人街区)が並存する二重都市の性格が強まりました。ソ連期にはウズベク・ソビエト社会主義共和国の重要都市として、工業・教育・研究機関が配置され、民族政策のもとでウズベク語とタジク語(ペルシア語系)の住民構成が行政・教育に反映されました。首都はサマルカンドではなくタシュケントに置かれましたが、歴史・学術・観光の中枢としての地位は維持されました。
1991年の独立後、サマルカンドは「文化の交差路」としての都市ブランドを積極的に再構築し、歴史地区の修復と観光インフラの整備が進みました。世界遺産「サマルカンド—文化の交差路」に登録された歴史中心部は、レギスタン、ビービー・ハーヌム、グール・エミール、シャーヒ・ズィンダ、アフラシャブなどを結び、青いドームとタイル装飾が連続する圧巻の景観を見せます。修復は装飾の再現度とオリジナル保存のバランスが常に議論を呼びますが、地震帯にある地域の耐震補強や観光圧の管理とあわせ、持続可能な保存が課題となっています。
現代のサマルカンドは、ウズベク語とタジク語が併存する多言語社会で、家族経営のバザール、パン窯(トンドゥール)で焼くナン、プラウ(プロフ)、サマルカンド紙、絨毯、刺繍スザニなどの手工芸が日常の経済と文化を支えます。大学や研究所は中央アジア研究・イスラーム学・天文学史の拠点となり、ウルグ・ベクの学術遺産を現代の科学教育につなげる取り組みが続きます。郊外では果樹園とブドウ畑が広がり、古い水路と新しいポンプ灌漑が共存する風景が見られます。近年は高速鉄道でタシュケントやブハラと結ばれ、国内外観光の回廊の中核となっています。
サマルカンドを歩くと、青いタイルのきらめきの背後に、土と水と風の都市が息づいていることに気づきます。ステップの縁に築かれたオアシス、商隊と学者の往来、征服と再建の反復、科学と信仰の共存—これらが重なり合って、都市の時間は幾重にも層をなします。サマルカンドは、どの文明の周縁でも中心でもあり続ける「交差点」の都市です。その交差点に立つことで、私たちはユーラシア史のダイナミズムと、異なる文化が出会い磨き合う力を、具体的な風景として体験できるのです。

