サーマーン朝 – 世界史用語集

サーマーン朝(Samanids, 819頃–999年)は、中央アジアのトランスオクシアナ(河中)とホラーサーンを支配したイラン系スンナ派王朝で、ブハラとサマルカンドを中心に、アッバース朝の宗主権下で自立的な「アミール国」を築いた政権です。彼らの最大の歴史的意義は、宮廷と行政の言語として新生ペルシア語(新ペルシア語・ダリー語)を本格的に用い、文学・学術・史書の大規模な後援を通じて「ペルシア文化復興(Iranian Renaissance)」を牽引した点にあります。経済面では銀ディルハムの大量鋳造と遠隔交易、河川灌漑に支えられた農業生産、紙・綿・毛織物・皮革・果実などの輸出で繁栄し、その銀貨はヴァイキング圏の埋蔵財からも大量に出土します。軍事・行政面では、トルコ系グラーム(奴僕)軍の活用と地方総督制で広域を統治しましたが、10世紀後半に入るとカラハン朝とガズナ朝の板挟みとなり、999年にブハラが陥落して終焉を迎えました。サーマーン朝は、ペルシア語世界の再編とテュルク系勢力の台頭が交差する「ユーラシアの折り目」を体現した王朝として理解されます。

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成立と統治の枠組み:アッバース権威の下での自立、アミールとディーワーン

王朝名は、8世紀末にトランスオクシアナの貴顕サーマーン・フダー(Saman Khuda)に由来します。アッバース朝への忠誠と地方統治で頭角を現した一族は、9世紀初頭に四兄弟がそれぞれの都市(サマルカンド、フェルガナ、タシケント、ヘラート)を任され、やがてイラン東部の広域をまとめました。アミール・イスマーイール(イスマーイール1世、在位892–907)は兄ナスルと対立しつつも最終的に覇を唱え、ブハラを王都と定めます。彼はホラーサーンのサッファール朝を破ってニシャープールやメルヴを掌握し、バグダードのカリフから正式な投下状(領有認定と称号)を得て、名目的にはアッバース朝の臣下、実質的には自立政権という二重の地位を固めました。

統治は、カリフの名によるクトバ(説教)」と貨幣の鋳銘を通じて宗主権を示しつつ、内政ではペルシア語官僚とアラビア語ディーワーン(政庁)を併用する折衷的な制度が敷かれました。財政・徴税・司法(主にハナフィー派の法学)を担当する官僚層には、バラアミー家のような学識ある宰相・書記が登用され、史書編纂や翻訳プロジェクトを指揮しました。地方には総督(ワーリー)税務官(アーミル・ハラージ)が置かれ、オアシス都市の自治とキャラバンサライの治安維持が重視されました。

軍事面では、在地イラン系の兵とともに、ステップ地帯から補給されるトルコ系グラーム(奴僕)が中核戦力となりました。彼らは騎射と規律で優れ、王家親衛や州司令官に昇格し、やがてホラーサーン総督に任じられたスブクティギーンの系統からガズナ朝が台頭する土壌を生みます。宮廷はグラーム勢力の均衡を取りつつ、部族連合(オグズやカールルク)との辺境管理に腐心しました。

経済・都市・貨幣:銀ディルハムと「北の道」、灌漑が支えるオアシス繁栄

サーマーン朝の繁栄を支えたのは、灌漑農業と中継交易の二本柱です。ゼラフシャン川・シルダリヤ・アムダリヤの支流を用水路で引くオアシスでは、小麦・綿・果樹(アンズ、ブドウ、ザクロ)、牧畜製品が生産され、都市の工房では綿織物・毛織物・皮革・金属器・紙が作られました。とりわけサマルカンド紙はイスラーム世界の写本文化を支え、ブハラの書籍市は学者と商人を惹きつけました。

貨幣政策では、銀本位のディルハムが大量に鋳造され、アラビア語の信仰文句とともに君主名・造幣地が記されました。これらのディルハムは、ヴォルガ・ドニエプル水系を遡るルーシ/ヴァイキング商人の交易網を経て北欧や東欧に流入し、スウェーデンのゴットランド島などの埋蔵財から数万枚単位で出土します。これは、中央アジアの銀が毛皮・蜂蜜・奴隷・琥珀などと交換される「銀の大循環」を構成していたことを示します。南側では、ホラーサーンからイラン高原・イラクへ至るキャラバン路が活発で、バグダードの市場と緊密に結びついていました。

都市では、ブハラが政治・学術の中心、サマルカンドが工芸と交易の要衝、ニシャープールとメルヴがホラーサーン側の拠点として機能しました。市場(スーク)・隊商宿(カラヴァンサライ)・共同浴場(ハンマーム)・裁判所(カーディーの法廷)が都市生活を支え、ジャーミ・モスクを中心とする金曜礼拝の共同体が都市自治の枠組みを与えました。建築では、ブハラ郊外に現存するサーマーニー廟(イスマーイール・サーマーニー廟)が代表作で、素焼煉瓦の幾何学編み文(レンガの編組文様)で内外壁を仕上げた小規模ながら完璧な比例を持つ霊廟は、イスラーム建築史上の金字塔と評されます。

学芸と宗教:新生ペルシア語の国家、文筆と翻訳、ハナフィー法と思想潮流

サーマーン朝は、宮廷と官庁の言語に新生ペルシア語を積極採用し、文学・史学のパトロネージを通じて「ペルシア語の公用語化」を決定的に進めました。詩ではルーダキー(d.940頃)が「ペルシア詩の父」と称され、カスィーダや叙情詩の型を整え、音楽と朗唱(ガザル)で宮廷文化を彩りました。史学では、タバリーのアラビア語『諸国民年代記』を宰相家のバラアミーがペルシア語へ翻訳・編纂(『バラアミー年代記』)し、行政言語としてのペルシア語の格を高めました。『カルイラとディムナ』などの説話文学、医薬・天文・数学の技術書のペルシア語化も進み、専門知識が広い層に流通しました。

後世の『シャー・ナーメ(王書)』は最終形をガズナ朝期のフィルドゥスィーが完成させますが、その素材収集(ササン朝伝承の再編集)や宮廷での叙事詩需要はサーマーン朝で整えられました。イスラーム学では、ブハラ・サマルカンドがスンナ派ハナフィー法学の中心地となり、多数のハディース学者・法学者を輩出しました。他方、10世紀前半には、宰相や王族の一部がイスマーイール派思想に傾倒したとの伝承があり、知識人サークルでは哲学・神学の議論が活況を呈しました。最終的にはスンナ派正統の枠が維持され、宗教的秩序と官僚制の調和が図られました。

この言語・宗教政策の帰結は、アラビア語が学術の国際語であり続ける一方で、行政・文学・歴史叙述・庶民文化の広い領域でペルシア語が自立し、のちのセルジューク朝・ホラズム朝・イルハン朝・ティムール朝・サファヴィー朝、さらにオスマン・ムガルの宮廷文化へ連綿と継承される基礎となったことです。いわば「二言語体制(アラビア語/ペルシア語)」の洗練が、サーマーン朝の宮廷で制度化されたのです。

動揺と崩壊、そして遺産:カラハン朝・ガズナ朝の挟撃、テュルク台頭の舞台装置

10世紀後半、王権は相続争いと軍閥化で脆くなり、外部からはカラハン朝(テュルク系)とガズナ朝(トルコ系グラーム軍事政権)の圧力が強まりました。ホラーサーン総督に任じられて勢力を伸ばしたサブクティギーンと息子マフムードは、ガズナを拠点に東方へ領土を拡大し、サーマーン朝の後背を侵食します。一方、天山西麓からフェルガナ・ブハラ方面へ進出したカラハン朝は、トランスオクシアナのテュルク化を進め、都市の支配権を争いました。宮廷内ではグラーム勢力と在地貴族・官僚の均衡が崩れ、国庫の逼迫や徴税の苛烈化が社会不安を招きます。

決定打は999年のブハラ陥落で、カラハン朝が河中を制し、ホラーサーンはガズナ朝が継承する分割図が定まります。王家の末裔は一部が地方で命脈を保とうとしますが、王朝としてのサーマーン朝はここに終焉しました。もっとも、ここで消えたのは政治体としての名であって、文化・制度の遺産はその後の時代に深く浸透していきます。ブハラの学派、ペルシア語行政文書の様式、貨幣鋳造の規範、煉瓦建築の意匠は、セルジューク朝やカラハン朝に継承され、テュルク系支配者がペルシア語文化を採用する「ペルシア化(イラニザシオン)」の通路となりました。

長期視点では、サーマーン朝は三つの持続的影響を残しました。第一に言語文化のインフラ—新生ペルシア語の国家語・文学語としての定着です。第二に経済の結節点—銀貨と交易ネットワークを通じた北方・西方・南方の長距離接続です。第三に権力編成の新常態—イラン系官僚とテュルク系軍人のコンビネーションという、以後の西アジア・中央アジア政治の標準モデルの確立です。ブハラの小さな霊廟に象徴されるように、壮麗さではなく調和と比例の美学、そして学芸と信仰の均衡が、サーマーン朝の核心だったと言えるでしょう。

総括すると、サーマーン朝は、アッバース朝の広域秩序の裂け目から立ち上がり、イラン語文化の復興とテュルク勢力の国家化を同時に推し進めた「架け橋」の王朝でした。砂漠と河川、草原とオアシス、アラビア語とペルシア語、イラン人とテュルク人—相反するものを接続し、制度と文化の形に定着させた経験は、後のイスラーム世界の政治文化の標準形を準備しました。青い紙と銀の貨幣、朗唱される詩と緻密な法、そして編み文様の煉瓦が織りなす静かな都ブハラの記憶に、サーマーン朝の本質は今も息づいています。