「議会の開設」とは、明治日本で立憲体制のもとに国民代表の議院が初めて正式に召集され、帝国憲法に規定された立法機関が実際に動き出した出来事を指します。一般には、1881年の国会開設の勅諭を受けて選挙制度が整備され、1889年の大日本帝国憲法公布を経て、1890年(明治23年)11月29日に第1回帝国議会が開院式を挙げた過程と、その初期数会期にわたる政治運営を含めて語られます。議会は貴族院と衆議院の二院制で構成され、予算・法律の審議権を持ちましたが、選挙権は直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子に限られ、天皇大権や内閣の責任原理(「天皇大権に対する輔弼」)のもとで運営されたため、近代議会としての機能は制約も受けました。それでも、自由民権運動のエネルギーを制度に取り込み、政党政治の芽を育て、予算・行政監督・政府と民党の攻防を通じて政治のルールを実地で学習した場であった点に、この出来事の核心があります。以下では、開設に至る背景、制度設計と選挙、初期帝国議会の展開、社会・行政との連動という観点から、わかりやすく整理して説明します。
背景—自由民権運動と国家建設、1881年勅諭から憲法公布へ
明治維新後、日本は版籍奉還・廃藩置県を経て中央集権国家の骨格を整えましたが、当初の政治は太政官制と藩閥指導層の合議に頼る性格が強く、民意の反映は限定的でした。徴兵制・地租改正・学制などの近代化政策は、国家の統合を進める一方で負担感や不満を生み、1870年代には民選議院設立建白書(1874)に象徴される議会設置の要求が高まります。各地の政社が結成され、府県会規則や集会条例の枠内で演説会・建白・請願が行われ、自由党・立憲改進党などの政党が組織化されました。
政府側もまた、外交・財政・防衛の安定を図るうえで、制度としての立憲体制を準備します。1870年代末から憲法研究が本格化し、伊藤博文を中心にプロイセン・オーストリア憲法などを参照しつつ立憲君主制の枠組みが構想されました。1881年、相次ぐ政商・官有物払下げ疑惑への批判や、士族層・地方有力者の不満を受けて、政府は「1890年を期して国会を開設する」旨の勅諭を発し、具体的工程を公約します。これを受け、行政制度の近代化(1885年の内閣制度発足)、地方制度の整備(1888年市制・町村制、1890年府県制・郡制)、憲法審議のための枢密院(1888設置)などが相次いで整えられました。
1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、天皇を主権者とする立憲君主制、貴族院・衆議院の二院制、司法の独立、臣民の権利義務などが制度化されました。憲法は独仏系の君主大権を色濃く残しつつも、法律と予算に関する議会の関与、租税法律主義、言論・出版・集会の自由(法律の範囲内で)を明記し、権威と手続の均衡を模索する枠組みでした。これに呼応して衆議院議員選挙法・府県制・郡制・新聞紙条例等が整備され、議会開設へ向かう条件が整います。
制度と選挙—二院制の設計、制限選挙と政党の形成
帝国議会は、皇族・華族を中心とする貴族院と、選挙で選ばれる衆議院から成りました。貴族院は世襲の公・侯・伯・子・男爵、勅選議員(学識経験者等)、多額納税者互選の議員などで構成され、政府にとって法案成立の安全弁として機能しました。衆議院は任期4年(解散あり)、小選挙区制ではなく当初は大選挙区制(府県単位など)、被選挙権満30歳、選挙権は直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子に限定されました。納税資格は地租・営業税・戸数割などの合算で判断され、農商工の富裕層・地方名望家が主な有権者となりました。全国有権者は人口の1%強にとどまり、女性・無産層は政治的に排除されていました。
選挙制度の下で、1880年代末から1890年にかけて政党が再編されます。解散していた自由党は星亨らの主導で再結集し、〈立憲自由党〉として勢力を回復、〈立憲改進党〉は大隈重信系の近代化志向・議会中心主義を掲げました。彼らは政府の官僚・軍部・華族院と対抗する〈民党〉と総称され、これに対し官僚・地元有力者ネットワーク・実務官僚に近い〈吏党〉が形成されます。選挙戦は、地方社会の結束・郷党意識・名望家の地縁に強く依存しつつ、演説会・新聞・ビラなど新しい政治コミュニケーションの手法を取り入れて展開されました。
1890年7月、第1回衆議院総選挙が行われ、民党系(立憲自由党・立憲改進党など)が衆議院の過半を占めます。これにより、政府提出予算や法案に対抗する勢力配置が成立し、議会は早くも「予算をめぐる攻防」の舞台となりました。
第1回帝国議会と初期会期の展開—予算権をめぐる攻防と「超然主義」
1890年11月29日、東京で第1回帝国議会の開院式が挙行され、勅語(施政方針演説)が読み上げられました。以後の数会期は、政府(山県有朋内閣など)と民党多数の衆議院が、主として予算と行政監督をめぐって激しく対立します。民党側は「政費節減・民力休養」を掲げ、政府の軍備拡張・官庁経費に対して大幅削減を要求しました。政府は、軍事・外交の専権を強調し、緊急勅令や前年度予算の準用規定(暫定予算に相当)を盾に抵抗します。衆議院の権限は〈予算の削除・修正は可能だが、増額はできない〉などの条項で限定されており、攻防は「どこまで切れるか」をめぐる駆け引きとなりました。
この時期の政府の基本姿勢を形容する言葉が「超然主義」です。これは、内閣は政党の利害から「超然」として国家の大計を遂行するという理念を表明したものですが、実際には政党を政府形成から排除し、議会対策を主として貴族院・枢密院・官僚ネットワークで行う方針を意味しました。結果として、衆議院との対立は解散・総選挙の反復へ発展し、第1・第2・第3議会(1890–93)では、政府と民党の角逐が常態化します。松方正義内閣期には予算案不成立・解散が繰り返され、妥協と取引(予算一部容認と政務調整)が政治技術として学習されていきました。
予算権・同意権の運用は、帝国議会が「法の下の政治」をどこまで拡張できるかの試金石でした。租税法律主義のもと、政府は議会を通らなければ新税を課せず、軍備や鉄道建設の財源確保には衆議院の同意が不可欠となります。他方、憲法は天皇の非常大権や緊急勅令を認め、陸海軍の統帥大権も議会の外に置かれていました。これらの構造が、のちの政党内閣期・軍部大臣現役武官制期の政治波動の基盤となります。
社会・行政との連動—地方制度、言論空間、建築・式典、そして制度の「学習」
議会の開設は、単に中央政治の出来事にとどまらず、地方行政・社会文化の広い変化と連動しました。まず地方制度では、1888年市制・町村制、1890年府県制・郡制により、地方議会と首長の二元体制が整えられ、中央—地方の政治的回路が拡張します。地方議会の経験は、将来の国政の人材育成と政治文化の土台となりました。次に言論空間では、新聞・雑誌が議会報道を連日のように伝え、政談演説会・講演会・政論文芸がさかんになります。選挙権を持たない層も、議会の出来事を「観客」として共有し、政治語彙が生活に浸透していきました。
議事堂と式典の側面も重要です。開院当初の帝国議会議事堂は木造で、1891年に火災で焼失し、日比谷の仮議院で会期が続けられました。議会の建築・儀礼・装束・開院式のプロトコルは、「近代国家の見せ方」を可視化し、帝室・官庁・都市空間の配置に新たな秩序感を与えました。こうした視覚的演出は、立憲体制の正統性を演出する一方で、議論の「場」の象徴化を進め、政治の中心が公開の場に移ったことを人々に印象づけました。
制度面では、衆議院・貴族院の会議規則、委員会制度、請願・質問の手続、議院内閣制ではない条件下での〈議院運営〉の技法が、実務のなかで整えられます。議員歳費・会期・会期延長や停会、議長の権限、会派交渉、政府答弁の形式、予算の分科・決算審査、会計検査院との連携など、今日に通じる多くの手順がこの時期に形成されました。政党間の政策協定、与野党の「棲み分け」、院外での輿論形成と院内戦術の連携も、経験と失敗を通じて洗練されます。
社会的には、選挙・議会をめぐる新しい職能が生まれます。新聞記者、選挙参謀、後援会、選挙区の利益誘導を担う地方名望家、弁士、ポスター製作者、印刷・配達、旅館・交通機関など、多様なサービスが政治のサプライチェーンを形成し、政治と経済の接点が拡大しました。同時に、買収・談合・利権といった負の側面も指摘され、選挙罰則の強化や会計の公開などの補正が進みます。
教育・社会運動の面では、議会開設は公民教育の教材となり、学校・青年会・婦人会などで政治の基礎知識が共有されます。女性は選挙権から除外されていましたが、婦人雑誌や講演会で政治への関心を喚起し、のちの婦人参政権運動の前史を形づくりました。宗教界・財界・労働運動も、議会を通じて請願や陳情を行うチャンネルを獲得し、社会内の多様な利害を可視化する効果が生まれます。
初期政治の帰結とその後—取引と妥協、政党内閣への橋渡し
1890年代前半の議会は、対立と解散の反復のなかで、漸進的に「取引と妥協の技法」を学習していきました。政府側も、すべてを強硬に押し通すのではなく、財政・軍備・鉄道など個別政策で野党の要求を一部受け入れ、地元向けの利益供与(いわゆる「政略線」や官庁配置)と引き換えに予算の通過を図るなど、現実的な折衝に向かいます。民党側も、理念的な削減一辺倒から、政策提案と監督の二本立てへと働き方を移し、のちの与党経験に耐える準備を積みました。
1898年には、進歩党と自由党を中心とする憲政党が結成され、第一次大隈内閣(隈板内閣)が誕生して、短期間ながら本格的な政党内閣が成立します。これは、議会開設以来の経験の蓄積が政権形成能力へと結晶した一里塚でした。その後、桂園時代・政友会の与党化・護憲運動などを経て、政党政治は曲折を重ねつつ拡張していきます。他方、軍部・官僚の独自権限や天皇大権の構造的な残存は、政党政治の持続性に影を落とし、20世紀前半の政治的緊張の伏線となりました。
総じて、「議会の開設」は、自由民権運動の要求を制度化し、立憲政治の運転を実地に開始した出来事でした。選挙権の狭さや大権の強さといった限界を抱えながらも、法に基づく公開の討議と予算統制の技法を社会に根づかせ、のちの政党内閣や普通選挙の出発点となる実務知と政治文化を蓄えたことが、当時の日本社会にとって大きな変化だったのです。

