「後漢(ごかん)」は、中国史の五代十国時代(907〜979年)に北中国を支配した短命王朝の一つで、東漢(後漢・25〜220年)とは別物です。沙陀突厥系武人の劉知遠(りゅうちえん/世祖)が947年に建て、首都を汴州(べんしゅう、開封)に置きました。947〜951年のわずか数年で滅亡しますが、その崩壊が直後の「北漢(ほくかん)」の成立と遼(契丹)との結合を誘発し、後周→宋へと続く再統合過程の序章となりました。五代の中では唯一、王室の出自が沙陀系に遡る点や、遼との国境・中原支配・南方諸国との均衡に関して独自の選択をした政権として位置づけられます。以下では、成立の経緯、統治の実像、対外関係、滅亡と北漢成立の連鎖、用語上の注意という観点から整理します。
成立の経緯:後晋の崩壊から劉知遠の即位まで
947年、契丹(遼)の太宗が中原に侵入し、後晋(936〜946年)は滅亡しました。汴州(開封)を占領した契丹軍が北へ撤退する混乱の中、太原の節度使であった劉知遠が洛陽で即位し、国号を「漢」として中原支配を宣言しました。彼は沙陀突厥系の名門出身で、後唐・後晋に仕えて軍功を重ねた将領です。遼の撤兵により空白化した黄河流域を素早く掌握し、後晋期の官僚・軍事機構を大枠で継承しつつ、新政権を滑り出させました。年号は当初、混乱鎮定の連続性を意識して旧号を踏襲し、のちに「乾祐(けんゆう)」へ統一しました。
劉知遠(世祖、在位947〜948年)は即位後まもなく逝去し、若年の皇子・劉承祐(りゅうしょうゆう、隠帝、在位948〜951年)が継承します。ここから後漢の脆弱性が露呈します。少年皇帝を補佐したのは枢密使・宰相級の重臣(楊邠・史弘肇・郭威など)でしたが、軍権と財政権の掌握をめぐる緊張が続き、宮廷内の派閥抗争が政権の持久力を蝕みました。
統治の実像:軍事国家の連続と財政・官僚の再編
五代の諸王朝と同様、後漢の国家運営は軍事が中枢にありました。中枢には枢密院(軍政)、三司(戸部・塩鉄・度支に相当する財政統括)が置かれ、節度使に代表される地方軍鎮の掌握が最大の課題でした。劉知遠は、後晋以来の制度と人材を継承し、黄河以北の関鍵である太原・并州方面に信頼できる将領を配置、汴洛の二都の治安と兵站を固めました。
財政面では、戦乱で傷んだ租税基盤を回復するため、倉廩の再建、塩・茶・市易の管理、軍糧輸送の効率化が図られました。だが、黄河下流の河防維持や首都開封の治安・工事は支出を膨らませ、また北辺の警備に継続的な軍費が必要でした。後漢は、後唐・後晋から続く「戦時体制」の延長線上にあり、徴発・課役・専売の負担が市民に重くのしかかったのも事実です。
官僚制の運用では、科挙は形式的に継続しつつ、実務を担うのは軍功・門生・幕僚出身の実力者が中心でした。中央と地方の関係は、節度使に対する任命と転任、代理・観察の制度で調整されましたが、地方の自立志向は強く、瓯脱(おうだつ)的な分裂リスクを常に抱えました。
対外関係:遼(契丹)への防備、南方諸国との均衡
後漢の北では、契丹が遼として制度整備を進め、燕雲十六州の保持を基盤に中原への影響力を維持していました。劉知遠は長城線以南の防衛と、并・代方面(太原—雁門道)の警備を重視し、遼との正面衝突を避けつつ、国境の城砦網と騎兵戦力の再建を進めました。外交では、一時的な国書の往復や使節往来が行われ、事実上の勢力線が安定化します。
南方では、江淮以南に十国(南唐・呉越・閩・楚・荊南・南漢・閩・北漢成立前の河東勢力など)が鼎立しており、後漢は長江以北の守勢を取りました。淮水・泗水方面での境界小競り合いは存在しましたが、南唐との大規模戦は後周期に持ち越されます。貢易・私貿易は細々と続き、銅銭・塩・絹・陶の流通が戦時下の経済を支えました。
宮廷抗争と崩壊:隠帝の専断、郭威の挙兵、後周の樹立
劉承祐の治世は、少年期の後見政治から、成長に伴う親政志向への転換が引き金となって崩れます。隠帝は次第に重臣を忌避し、楊邠・史弘肇らを排除しようとしました。これに対し、枢密副使で実力派の郭威(かくい)が兵を挙げ、951年、開封で政変が発生します。皇帝側の反撃はまとまらず、隠帝は討たれ、郭威は即位して国号を「周」(後周)としました。これにより、後漢は実質4年余で歴史から退場します。
政変の背景には、軍権と財政権を握る実力者グループと、皇帝親政の衝突に加え、地方の節度使が中央の人事・財政に不満を募らせていた構造要因がありました。五代期は、天命を称する正統性の観念がありながら、実力の移動が容易に王朝交代へと繋がる流動局面だったのです。
北漢の成立:後漢王室の残影と遼の庇護
後漢滅亡の直後、太原を拠点とする劉崇(りゅうすう、のち劉旻〈りゅうびん〉)が自立し、国号を「漢」として即位しました。これが史書で言う「北漢(951〜979年)」です。劉崇は劉知遠の同族で、後漢の継承を自任し、遼の庇護下で并州・河東に割拠しました。北漢は後周・宋の北伐に抗しつつ、遼との軍事連携を続けますが、最終的には太宗趙光義の宋により979年に滅びます。したがって、後漢→北漢は、同族による継承意識と、遼—中原の三角関係が生んだ「残影の王朝」として理解されます。
社会と経済:短期支配の下で何が動いたか
在位期間が短いとはいえ、後漢期の中原社会は、戦乱の只中で日々の再建が進みました。黄河下流の堤防補修、汴洛を結ぶ輸送路の再整備、軍需を支える手工業(冶金・織造・皮革)の回復が急務でした。開封は依然として市場の中心であり、塩・布・銭の流通、寺院・旅店・市易のネットワークが民生を支えました。宗教では仏教寺院の保護と同時に、戦乱に伴う廃寺・再興が繰り返され、在地豪族の寄進と軍人の功徳積が混ざり合いました。
貨幣は唐末以来の銅銭不足が続き、銭の品質・真偽が問題となりました。兵站のための紙札的な書付・領収が流通補助として使われることもあり、後周・宋の貨幣改革に先立つ過渡的段階に位置します。戸籍・租税の再編は途中で頓挫し、体系的改革は後周の世宗柴栄によって進むことになります。
文化と制度:唐宋移行期の「つなぎ」として
文化面では、唐代の文人伝統が細いながらも続き、戦乱記録や碑刻、軍政文書が散見されます。制度面では、唐以来の官名・官制が基本形として維持され、枢密・三司・御史台などの枠組みが五代諸王朝に共通する「最低限の国家装置」として機能しました。後漢の統治は、後周の制度改革—軍の府兵化の残滓整理、陣営の再編、財政の透明化—の出発点を提供し、さらに宋の文治国家路線へと連続していきます。
評価と用語上の注意:東漢(後漢)との区別、史料の限界
「後漢」という名称は、古典期の「漢(前漢・後漢)」と紛らわしいため、学習・受験では「五代後漢」や「五代の後漢」と特記するのが通例です。五代の前後関係としては、後唐→後晋→後漢→後周→北宋(中原)という流れを押さえ、南方の十国(特に南唐・呉越・蜀)との並行を意識することが大切です。
史料面では、『旧五代史』『新五代史』『資治通鑑』など後世編纂の史書に依存する部分が多く、宮廷抗争の細部や地方統治の実態には暗部が残ります。劉知遠・劉承祐の人物像も、後周・宋期の政治的観点から評価が揺れやすいため、複数史料の相互参照が有効です。遼・北漢との関係については、契丹文・女真文など異文化史料の活用が進み、国境地帯の城砦ネットワークや軍事物流の実像が徐々に明らかになってきました。
まとめ:短命王朝の歴史的位置
後漢(五代)は、数年で滅びた「通過点」の王朝に見えますが、実際には中原の再統合へ向かう分水嶺に立ち、遼—中原—河東(北漢)の三角関係を形づくった政権でした。沙陀系の軍事エリートが皇帝権を獲得し、しかし官僚制と折り合いをつけられずに崩れるという構図は、五代全体の縮図でもあります。後周の制度改革と宋の文治国家の登場を理解するうえで、後漢の短期支配に現れた課題—軍権の統御、財政の安定化、国境防衛の持続可能性—を読み取ることが、唐宋変革期のダイナミズムをつかむ近道になります。

