刑部 – 世界史用語集

刑部(けいぶ/中国語:刑部〈シンブ〉)は、前近代東アジアで「司法・刑罰行政」を所管した中央官庁を指す用語です。中国の六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)の一つとして最も整備され、唐代以降は大理寺・都察院と並ぶ「三法司」の一角として、犯行の認定、量刑の審査、刑罰の執行や監獄管理、法令の運用細則の整備などを担いました。この制度は朝鮮王朝の刑曹、日本の律令制における刑部省、ベトナムの刑部などにも影響を与え、帝国的な官僚制のなかで「法と刑」の均衡を追求する装置として機能しました。刑部を理解すると、法典の条文だけでは見えにくい、上訴審査や量刑統一、冤罪救済、拷問規制、季節ごとの死刑再審(秋審)といった実務が、どのように国家と社会をつないでいたのかが立体的に見えてきます。

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語義と成立:六部制の中の位置づけ

「刑部」は、中国の中央行政を支えた六部の一つで、名のとおり刑罰・獄事を所掌した官庁です。六部制は隋・唐期に整えられ、以後、宋・元・明・清へと受け継がれました。六部のうち、吏部が人事、戸部が戸籍・財政、礼部が儀礼・科挙、兵部が軍政、工部が土木・造作を分担し、刑部は司法・刑事行政を担当しました。刑部は「立法」そのものを独占したわけではありませんが、律(基本法)と令(施行細則)の運用や改補に深く関与し、現場での適用経験を踏まえて量刑基準を整えました。

唐代には、刑部尚書(長官)・左/右侍郎(次官)を頂点に、法曹・比部・司刑などの分掌機構が置かれ、案件の登録・審査・量刑案の作成・刑具や監獄の管理といった事務が分業化されました。とくに唐は「律令格式」と呼ばれる法体系を整え、刑部はこれを運用する実務官庁として、地方の審理や量刑の偏りを調整しました。宋代以降も基本線は踏襲され、元では中書省系統の下に、明・清では再び六部制として独立の「刑部」が置かれます。

刑部の歴史的意義は、単に「刑罰を執行する」だけでなく、法の一貫適用を中央の視点で担保した点にあります。各地の風俗・訴訟慣行は多様で、地方官の能力や倫理にもばらつきがありました。刑部は、中央への上申・照会に応じて解釈を示し、冤滅(冤罪の排除)と平允(公平)を掲げて判決の均衡を取ろうとしました。これにより、帝国の広大な領域で、法が「同じ温度」で届くことが目指されたのです。

機構と職掌:三法司・量刑・監獄・死刑再審

刑部の実務は、大理寺・都察院との関係で理解するのが近道です。大理寺は主に司法審判(特に上訴審・再審)を担当し、都察院は弾劾・監察を司りました。明・清期には、この三機関が共同で重大事件や死刑案件を審理する「三法司会審(会鞫)」が制度化され、相互牽制と誤判防止の仕組みが整えられました。刑部は、量刑の統一・刑名の適用・刑具や監獄の管理・刑罰執行の許可など、最後の行政的ハブとして機能します。

量刑の実務では、法典が定める主刑(死・流・徒・杖・笞)や加減の幅(斟酌条項)を、具体事実に当てはめていきます。たとえば、傷害や盗盗の類型では、傷の程度・被害額・共犯関係・前科の有無などが細かく量刑表で規定され、刑部は地方からの呈文に基づいて適用の妥当性を審査しました。誣告(虚偽告発)や枉法(法を曲げる)に対しては、官側も処罰対象となり、判事・書吏の不正を抑える歯止めが用意されました。

監獄行政も刑部の所掌でした。囚人の収容・移送・医療・衣食の供給、厳冬期や酷暑期の処遇改善、獄吏の監督、牢屋敷の修繕など、細目的な規定が置かれます。獄死の多発は社会不安と結び付くため、越権の拷問禁止や取り調べ時間の制限、牢屋の衛生・通風の確保など、実務的なガイドラインが周知されました。もっとも、時代・地域によって遵守状況は異なり、理想と現実のギャップが絶えず問題化したことも事実です。

死刑の再審制度は、清代にとくに整備されました。秋季に死刑確定者を再点検する「秋審」と、皇帝の臨席または代理審査による「朝審」の二本柱があり、刑部は事件簿・供述録・証拠物を整理して会議に付しました。秋審では、情状酌量の余地がある者を「情実可矜」などの類別で減刑・猶予し、情状の重い者は執行に回されます。これは、量刑の均衡と冤罪の抑止、そして皇帝の恩恵(徳治)の演出という政治的意義を併せ持つ仕組みでした。

地方統治との接点:訴訟・上訴・按察と監察

刑部の中央権限は、地方の訴訟実務とネットワークで結ばれていました。宋代では路・州・県の段階で判決が積み上げられ、明代では布政使司(財政)・按察使司(司法監察)・都指揮使司(軍政)の三司が州県を束ね、按察使は刑獄の巡按や監察を担当しました。地方での判決は、一定の重罪以上は上申が義務づけられ、刑部は判決文・証拠目録・証人供述などを取り寄せて再審査しました。

冤罪救済の経路も整えられました。被告・遺族・村落の代表者が「伸寃状(申寃)」を持って上訴するケース、巡按御史が巡察の途上で不法を摘発し、刑部へ直送するケースなどが想定されました。都察院(御史台)による弾劾が入ると、刑部は関連官員の取調べと並行して事件全体を差し戻し、再調を命じます。この三角関係は、官の恣意を抑制する最低限の構造でした。

一方で、地方の行政需要(治安維持・徴税・土木)と司法の厳正さの間には緊張がありました。治安悪化や飢饉時には、地方官が重罰主義に傾くことがあり、刑部は「成案(前例)」に基づいてブレーキをかける役回りを引き受けました。逆に、賄賂や縁故で量刑が軽くなる事例もあり、都察院の弾劾や三法司会審が抑止力として働きました。法は文字で定まっていても、運用の現場は常に力学の中にあり、刑部の仕事はその「揺れ」を許容範囲に収める作業だったのです。

東アジアへの波及:朝鮮の刑曹・日本の刑部省・ベトナムの刑部

中国の刑部は、周辺諸国の制度形成に大きな影響を与えました。朝鮮王朝(李氏朝鮮)では、中央官制として「六曹(吏・戸・礼・兵・刑・工)」が置かれ、刑曹(ヒョンジョ)が刑罰・獄事を所掌しました。刑曹は大司憲・司憲府(監察)や刑曹判書・判官と連携し、成文法(経国大典など)にもとづく量刑運用を担いました。拷問規制や上訴制度、王批准による死刑最終決裁など、基本的な枠組みは中国の刑部と相似形です。

日本では、律令制下で刑部省(ぎょうぶしょう)が設置され、囚獄・刑罰の運用・赦令の執行・官人の罪科審理などを担当しました。長官である刑部卿(ぎょうぶきょう)・次官の刑部大輔(だいぶ)・少輔などの職位名は、のちの時代にも名誉称号(官途名)として残り、武家政権期にも文化的記憶として生き続けます。近代に入ると、明治政府は西欧法制の導入とともに近代的司法省・監獄制度へ移行し、古代的な刑部省は歴史的役割を終えました。

ベトナムでも、李・陳・黎・阮各朝において中国型の中央官制が整備され、「刑部(Bộ Hình)」が法と刑の行政を担当しました。阮朝の嘉隆・明命期には法典の整備(嘉隆律など)とともに、刑部は死刑上申や地方監獄の改善に関与し、帝国的官僚制に不可欠のパーツとして機能します。東アジアで共通するのは、法の道徳的基盤(礼)と、行政・警察・軍事の現実的要請の間にある張力を、中央官庁が調停し続けたという事実です。

総じて、刑部とは、条文の世界と人間社会の現実を接続するための制度的媒介でした。六部の一としての位置、三法司の一角としての牽制、地方統治とのネットワーク、そして周辺諸国への波及を押さえることで、前近代東アジアにおける「法の働き方」が、単なる理念や残虐像ではなく、緻密な手続と役所のオペレーションとして理解できるようになります。刑部の歴史は、法典と判例、理念と実務、中央と地方の間を往復する、息の長い行政の物語でもあるのです。