ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II, 1820–1878)は、サルデーニャ王国(サヴォイア家)の国王としてリソルジメント(イタリア統一運動)を推し進め、1861年に「イタリア王(Re d’Italia)」の称号を得た近代イタリア初代の国王です。彼は戦場での胆力と現実主義的な政治感覚を併せ持ち、カヴール伯の周到な外交・内政、ガリバルディの情熱的な義勇戦の双方を受け止めて、分断された半島諸国を一つの王国へと束ねました。1859年のフランス援助を梃子にした第2次対オーストリア戦争、1860年の住民投票と編入、1866年の普墺戦争を機にしたヴェネト併合、1870年のローマ占領(ポルタ・ピア破門)を経て、首都をローマに定める道筋を整えました。他方、南部の「山賊戦」(反乱鎮圧)やローマ教皇庁との対立(いわゆるローマ問題)、議会政治の未成熟と汚職・党派抗争など、統一国家が背負う矛盾もまた彼の治世に刻印されました。以下では、即位から統一までの歩み、外交・戦争・編入の技法、統一後の統治と社会問題、王権像と遺産の四点から整理します。
即位から統一への道:立憲君主としての自覚と同盟の構築
1848年革命の波はイタリア半島にも及び、サルデーニャ王カルロ・アルベルトは憲法(サルデーニャ憲章=スタトゥート・アルベルトーノ)を公布しつつオーストリアに挑みましたが、1849年に敗れて退位しました。継いだのが息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世です。彼は敗戦の講和(ミラノ近郊ヴェルチェッリからの撤兵、重賠償)を受けつつも、スタトゥートの維持を宣言し、イタリア諸邦の中でほぼ唯一の立憲体制を持つ国家として国際的信用を高めました。この「憲法の継続」は、のちに各地の自由主義者・民族主義者がサルデーニャ王国を統一の核とみなす前提となります。
首相カヴール伯カミッロ・ベンソは、国内の鉄道・港湾・銀行・関税政策を近代化し、クリミア戦争(1855–56)に小規模ながら派兵して列強外交の舞台に登場する足場を作りました。1858年のプロンビエール密約でフランス皇帝ナポレオン3世と対墺戦争の協調が合意され、サルデーニャが北イタリアの解放を進める見返りに、フランスへサヴォイアとニースを割譲するという政治的取引が準備されます。国王は軍の象徴かつ調停者として、カヴールの野心と国内世論のあいだを綱渡りで渡り、決定的局面では自ら前線に姿を現して士気を鼓舞しました。
1859年の第2次イタリア独立戦争で、サルデーニャ・フランス連合軍はマジェンタ、ソルフェリーノなどで勝利し、ロンバルディアをオーストリアから解放しました。ナポレオン3世が思わぬ早期停戦(ヴィラフランカの休戦)に踏み切ったため、ヴェネトは残りましたが、トスカーナ、パルマ、モデナ、エミリア=ロマーニャなど中北部諸邦では住民投票(プレビシート)によるサルデーニャへの編入が進みます。1860年には中部イタリアの統合を進める過程で、フランスへの領土割譲(サヴォイア・ニース)が実施され、国王は苦渋の決断を受け入れて全体利益を優先しました。
ガリバルディと南部編入:千人隊から「テアーノの会見」へ
1860年、共和主義的情熱を持つ軍事的カリスマ、ジュゼッペ・ガリバルディが義勇兵「千人隊(赤シャツ隊)」を率いてシチリアに上陸し、両シチリア王国を急速に制圧しました。勢いのままローマへ向かう可能性は列強を刺激しかねず、教皇庁との武力衝突は国際的孤立を招く恐れがありました。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、ピエモンテ正規軍をウンブリア・マルケへ進めて教皇領を分断しつつ、南下してガリバルディ軍と接触、「テアーノの会見」(1860年10月)で王への忠誠を受けるという政治的演出に成功します。ガリバルディはナポリでの式典後、王に征服地の統治を委ねて退きました。
こうして北・中・南の大半が統合され、1861年3月、トリノで開かれた議会は「イタリア王国(Regno d’Italia)」の成立と「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を初代イタリア王とする」ことを宣言します。注目すべきは、国王が称号に「2世」を保った点です。これはサルデーニャ王国の法統(スタトゥート)を新国家の憲法的基礎として継承するという政治的メッセージで、革命ではなく「合法的連続による統一」を強調する意図がありました。
しかし統一は終点ではありませんでした。南部では旧政権への忠誠、徴税・徴兵への不満、土地問題、山岳地帯の治安などが絡み合い、大規模な反乱・ゲリラ(当時の政府公文書では「山賊」と総称)が各地で発生します。政府は軍と警察を動員して鎮圧にあたり、戒厳・集団処罰・処刑が実施されました。結果として国家の威信は回復したものの、南北格差と相互不信はイタリア国家の長い課題として残ります。この内戦的経験は、ヴィットーリオ・エマヌエーレの治世像にも陰影を与えました。
1866年ヴェネト、1870年ローマ:統一の仕上げと「ローマ問題」
1866年、プロイセン=オーストリア間の対立が先鋭化すると、イタリアはプロイセンと提携して普墺戦争(第3次対墺戦争)に参戦します。クストーツァやリッサ海戦では敗れたものの、プロイセンの圧勝(ケーニヒグレーツ)によって講和の場でヴェネトを獲得しました。これにより北東の大都市ヴェネツィアとその周辺がイタリア王国に編入され、統一は大きく前進します。
最後のピースはローマでした。フランスが教皇庁を保護していたため介入は難航しましたが、1870年に普仏戦争が勃発してフランス軍がローマから撤収すると、イタリア軍はローマ市外のポルタ・ピアで城壁に砲孔を開けて突入、短い戦闘で市を掌握しました(9月20日)。翌1871年、ローマは正式にイタリア王国の首都となります。これにより領域的な統一は完成しましたが、教皇は「バチカンの囚人」を称して新国家の正統を認めず、世俗権を否認する立場を続けました(ローマ問題)。ヴィットーリオ・エマヌエーレは教皇の宗教権と財産に一定の保障を与える「保証法」路線に理解を示しましたが、法制化(1871年)は彼の死後の政権下で整えられ、和解の完全解決(1929年ラテラノ条約)ははるか後年のことです。
首都ローマ化に伴い、議会・省庁・王宮の機能移転、インフラ整備、鉄道網の首都集中が進みました。王は儀礼・軍の統帥・人事裁可を通じ、立憲君主としての役割に徹しつつ、危機時には独自の調停力を発揮しました。ガリバルディが1870年にフランスとの戦争で独断出兵しようとした際には制止に動き、国益と国際関係のバランスを取ろうと努めています。
統一後の統治:議会政治の現実、社会経済、王の人物像
統一国家の運営では、スタトゥート・アルベルトーノが帝国の憲章として機能し、二院制議会(貴族院に相当する上院は国王勅任、下院は制限選挙)が設置されました。政党組織が未成熟ななか、地方名望家や官僚が流動的に連合する「トランスフォルミズモ(変形主義)」が政治様式となり、内閣は短命化しがちでした。税制統一、度量衡の統一、徴兵制度の全国化、司法の編成、教育制度・義務教育の拡充など、国家としての土台づくりは進みましたが、識字率の低さ、地域言語の多様性、インフラ格差が統合の足を引っ張りました。
財政面では、旧諸邦の負債や戦費、鉄道敷設、行政統合のコストがのしかかり、塩税や粉税、地租の徴収は庶民の負担感を強めました。南部の農村では小作制と土地集中が残り、移民の流出と貧困が問題化します。他方、北西部のピエモンテ・ロンバルディア・リグーリアでは機械・紡績・造船などの近代工業が発芽し、ミラノ・トリノ・ジェノヴァの「産業三角」を中心に都市社会が形成されました。治安では、山間部・農村の反乱鎮圧の延長線上で「公序」の名のもと警察権が強化され、国家と市民の距離が課題となりました。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の人物像は、直截で豪放、狩猟を好み、軍服姿が似合う「兵の王」という印象で知られます。他方、王室の私生活(愛人問題や経済)はしばしば批判の的となりました。政治においては、危機における決断力と、現実主義的妥協のセンスを併せ持ち、ガリバルディやカヴールといった性格の異なる指導者を包摂して国家目標へ収斂させた調停力が評価されます。彼の象徴的行為—戦地での視察、祝典での演説、統一の節目における王命—は、新生国家の「儀礼的中心」を形成しました。
1878年1月、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はローマで没し、後を息子のウンベルト1世が継ぎました。彼の葬儀は国家的儀礼として行われ、パンテオン(アグリッパの神殿を転用したローマの教会)に埋葬されます。古代ローマの記憶を宿す空間に近代イタリアの初代王を眠らせる演出は、歴史の連続を視覚化する選択でした。
評価と遺産:統一の「王」としての光と影
評価は二層的です。一層目は、分裂の歴史をもつイタリア半島を近代立憲君主制のもとに統合した「国家形成の推進者」としての光です。軍事・外交・内政のそれぞれで、国王が果たしうる最大限の役割—権威の集中と象徴的統合—を実演し、統一の不可逆性を確立しました。彼の統治下で形成された制度基盤(憲章、議会、常備軍、官僚制、度量衡・法の統一)は、のちの自由主義的イタリアの背骨となります。
二層目は、統一が孕んだ矛盾の影です。南部の抵抗に対する軍事的・警察的対応は、国家と市民社会の距離を広げ、地域間の不平等を定着させました。ローマ問題は教会と国家の亀裂を長期化させ、政治の宗教対立を温存しました。議会政治の不安定さと腐敗、社会政策の遅れは、のちの大衆政治の波や権威主義的傾向を招く土壌の一部となります。ヴィットーリオ・エマヌエーレ個人の責では片づけられない構造的課題である一方、彼の治世はそれらを「国家の原風景」として定着させた時代でもありました。
それでもなお、統一の象徴としての彼の存在は、イタリア近代史の扉に刻まれています。大通りや広場、騎馬像、切手や紙幣に刻まれた横顔は、分裂から統合へという物語を可視化しました。現代の歴史教育や観光においても、トリノの王宮、テアーノの記念碑、ローマのポルタ・ピア、パンテオンの墓碑は、国家誕生の連鎖を伝える具体的な場所として生き続けています。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を学ぶことは、統一国家がどのようにして制度・儀礼・暴力・妥協の折り重なりの中で形を得たのかを理解する手がかりとなるのです。

