十一月革命(ロシア十月革命) – 世界史用語集

十一月革命(ロシア十月革命)は、第一次世界大戦のさなかの1917年にロシアで起こった政権奪取の出来事で、最終的に世界初の社会主義国家ソビエト連邦が生まれるきっかけになった出来事です。教科書では「十月革命」と書かれることが多いですが、これは当時ロシアで使われていた旧暦(ユリウス暦)で10月25日に起こったためであり、西暦(グレゴリオ暦)では11月7日にあたるため「十一月革命」とも呼ばれます。

この革命では、レーニンが率いるボリシェヴィキ(後の共産党)が、臨時政府から権力を奪い、「ソビエト」と呼ばれる評議会組織に権力を移すことをめざしました。革命そのものは、一般にイメージされるような都市全体が燃え上がる大規模な市街戦というより、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の要所を武装部隊が次々と掌握していく、比較的短期間の軍事クーデターに近い性格も持っていました。

しかし、その結果としてロシアは戦争から離脱し、貴族や大地主が支配する旧来の社会が急速に解体され、土地や工場の所有関係、国家の仕組み、世界の政治勢力図にまで大きな変化が生まれました。のちに「資本主義」と「社会主義」が対立する20世紀世界の構図は、この十一月革命で生まれたソビエト政権を抜きにしては語ることができません。

概要としては、「戦争と貧困に苦しむロシアで、ボリシェヴィキが臨時政府から権力を奪い取り、ソビエト政権を樹立した出来事」と捉えておくとよいです。以下では、この十一月革命がどのような背景から生まれ、どのように進行し、その後ロシアと世界にどのような影響を与えたのかを、もう少し詳しく見ていきます。

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帝政ロシアの危機と二月革命から十一月革命への道

十一月革命を理解するには、まずその前提となる帝政ロシアの状況と、同じ1917年に起きた二月革命を押さえる必要があります。19世紀末から20世紀初頭のロシアは、広大な領土と豊かな資源を持つ一方で、政治体制は皇帝(ツァーリ)の専制が色濃く残り、議会制や民主的な権利が十分に整っていない国でした。農民は地主への依存が強く、工業化で増えた都市労働者も長時間労働や低賃金に苦しんでいました。

1905年には、日露戦争の敗北と生活苦を背景に「血の日曜日事件」などの抗議運動が広がり、第一次ロシア革命が起こります。このとき皇帝はドゥーマ(国会)の設置など一部の改革を約束しましたが、実際には皇帝の権限が依然として強く、民衆や労働者・兵士の不満は解消されませんでした。

そこに追い打ちをかけたのが1914年から始まる第一次世界大戦でした。ロシア軍は戦場で大きな犠牲を出し、前線の兵士はもちろん、後方の都市や農村も物資不足やインフレに苦しみます。戦争が長引くほど、政府への信頼は失われ、皇帝ニコライ2世や宮廷の周辺人物に対する不満と噂が広がりました。

1917年2月、首都ペトログラードでは食料不足や物価高騰に怒った労働者・市民によるデモやストライキが拡大し、これに兵士の一部が合流して武装反乱に発展しました。この騒乱の中でニコライ2世は退位し、ロマノフ王朝は倒れます。ここで成立したのが、自由主義的な政治家たちが中心となった「臨時政府」です。これがいわゆる二月革命で、帝政を打倒したという点で大きな転換点でした。

しかし、二月革命後のロシアにはもう一つ重要な政治勢力が存在しました。それが、労働者・兵士・農民の代表からなる「ソビエト(評議会)」です。ペトログラードやモスクワなど各地にソビエトが組織され、民衆の意見や要求を反映する場になっていました。こうして1917年のロシアには、「臨時政府」と「ソビエト」という二つの権力が並び立つ、いわゆる「二重権力」の状態が生まれました。

臨時政府は、民主的な憲法制定や改革を目指してはいましたが、連合国との約束から第一次世界大戦の戦争継続を決めます。ところが前線の兵士も国内の民衆も、これ以上の戦争継続に強い不満を抱いていました。また、農民は土地の再分配を求め、労働者は労働条件の改善や工場での発言権を求めていましたが、臨時政府の政策はこれらの要求に追いついていませんでした。

このような不満の受け皿となったのが、レーニンを指導者とするボリシェヴィキでした。彼らはマルクス主義を掲げる急進的な社会主義勢力であり、「戦争即時終結」「土地を地主から農民へ」「全ての権力をソビエトへ」といったわかりやすいスローガンを提示しました。レーニンは亡命先から帰国した1917年4月、「四月テーゼ」と呼ばれる方針を打ち出し、臨時政府への不支持とソビエトを基盤とする新しい政権樹立を主張します。

夏にはペトログラードでボリシェヴィキを支持する兵士・労働者が武装行動を起こす「七月蜂起」が発生し、いったんは鎮圧されてボリシェヴィキは弾圧を受けます。しかしその後、臨時政府のケレンスキー首相が右派軍人コルニーロフのクーデター未遂と対立し、その鎮圧にボリシェヴィキの協力を必要としたことで、ソビエト内におけるボリシェヴィキの発言力は逆に高まる結果になりました。

こうして、戦争継続と改革の遅れに不満を抱く民衆・兵士・労働者の支持を背景に、ボリシェヴィキはソビエト内で多数派を獲得していき、臨時政府を打倒してソビエト政権を樹立する準備を進めていくことになります。そのクライマックスが、旧暦10月25日(新暦11月7日)に起こる十一月革命でした。

十一月革命の具体的な進行と政権掌握

十一月革命は、一日で突然始まったわけではなく、ボリシェヴィキが計画的に準備した武装蜂起でした。1917年10月、ペトログラード・ソビエトは「軍事革命委員会」を設置し、その中心人物にはトロツキーが就任します。この組織は名目上は首都防衛のための機関でしたが、実際にはボリシェヴィキ主導で臨時政府を打倒するための軍事機構として機能しました。

旧暦10月25日の早朝、軍事革命委員会の指示のもと、ボリシェヴィキに同調する兵士や赤衛隊(労働者の武装組織)がペトログラード市内の重要拠点を次々と占拠していきます。電話局、郵便局、鉄道駅、橋、銀行など、通信や交通、金融の要所がほとんど抵抗なく掌握され、臨時政府は首都内で急速に孤立していきました。

臨時政府のケレンスキー首相は前線部隊に支援を求めようとしますが、兵士たちの多くは戦争継続や政府に不満を抱えており、臨時政府を積極的に守る動きは広がりませんでした。こうして臨時政府の主要メンバーは、ペトログラードの冬宮に立てこもる形になります。

夜になると、ボリシェヴィキ側は巡洋艦「アヴローラ」からの空砲を合図に冬宮への攻撃を開始します。歴史画や映画では壮大な突入シーンとして描かれることが多いですが、実際には戦闘自体は比較的規模が小さく、守備側も混乱していたため、大量の死傷者が出るような激戦ではありませんでした。それでも象徴的には、「旧体制の最後の砦」である冬宮の陥落は、ボリシェヴィキ勝利の決定的な場面として語られます。

同じ頃、ペトログラードでは「第2回全ロシア・ソビエト大会」が開催されていました。ボリシェヴィキはここで臨時政府打倒とソビエトへの権力移譲を承認させることを狙います。大会冒頭、ボリシェヴィキが臨時政府の打倒と政権掌握を宣言すると、これに反対するメンシェヴィキや社会革命党右派の代表は抗議して退席しましたが、残った代表たちの多数によって、ボリシェヴィキ主導の新政府の樹立が承認されました。

こうして成立したのが、「人民委員会議」と呼ばれるソビエト政権の政府機構です。議長にはレーニンが就任し、外務、内務、国防、民族問題などの人民委員(大臣に相当)にはボリシェヴィキの指導者たちが名を連ねました。彼らは革命直後から「平和に関する布告」「土地に関する布告」といった重要な布告を発し、戦争終結の交渉開始と地主土地の没収・農民への分配などを打ち出します。

「平和に関する布告」は、秘密外交の全面的な廃止と、無賠償・無併合の原則による即時講和を各交戦国に呼びかけるものでした。一方、「土地に関する布告」は、農民が長年求めてきた土地問題の解決を掲げ、大土地所有制の解体を宣言しました。これらの布告は、戦争と土地に悩む民衆の願いに直接応えるものであったため、多くの農民や兵士、労働者の支持を集めました。

十一月革命は広い意味では全国規模の革命運動の一部でしたが、その中心であるペトログラードでの政権奪取は、比較的短期間で完了しました。ただし、それは同時に国内に深い対立を生む出発点でもありました。ボリシェヴィキによる権力掌握に反対する勢力は各地で抵抗を続け、のちに本格的な内戦へとつながっていきます。

さらに、十一月革命以後もロシア国内では、憲法制定会議の扱いや他の社会主義諸派との関係、民族問題への対応など、多くの政治的課題が山積していました。にもかかわらず、ボリシェヴィキが「ソビエトの名のもとに」権力を集中させていったことが、その後のソビエト体制の性格を大きく形作っていくことになります。

革命後のロシアと世界への影響

十一月革命のあと、ロシアの政治・社会は急速に再編されていきます。まず最初に取り組まれたのが、第一次世界大戦からの離脱でした。ボリシェヴィキ政権は1917年末からドイツとの講和交渉を始め、1918年3月にブレスト=リトフスク条約を結びます。この条約によってロシアは広大な領土と人口を失うなど非常に不利な条件を受け入れましたが、レーニンは国内革命を守ることを優先し、「どんな犠牲を払っても平和を結ばなければならない」と判断したのです。

同時に国内では、土地や工場、銀行などの国有化・社会化が進められました。地主の土地は農民に分配され、大規模工場は労働者と国家の管理下に置かれます。こうした急進的な改革は、旧支配層のみならず、ボリシェヴィキと異なる路線をとる社会主義諸勢力や民族主義勢力との対立を激化させました。

1918年から1921年にかけて、ロシアは「赤軍」と呼ばれるボリシェヴィキ側の軍と、「白軍」と呼ばれる反ボリシェヴィキ勢力との激しい内戦状態に陥ります。白軍には、旧帝国軍の将軍、保守派、自由主義者、反ボリシェヴィキの社会主義者などさまざまな勢力が含まれ、イギリスやフランス、日本、アメリカなど列強諸国も対ソ干渉戦争の形で支援に関与しました。

内戦期のソビエト政権は、「戦時共産主義」と呼ばれる厳しい政策をとります。これは、食糧や物資を強制的に徴発して軍や都市部に優先的に配分し、産業を国家が集中的に管理するというものでした。この政策は戦争遂行には一定の効果を持ったものの、農民の反発や経済混乱を招き、各地で反乱も起こりました。

内戦に勝利した後、1921年にレーニンは新しい経済政策(NEP)へと転換します。これは、国家による主要産業の管理を保ちつつも、小規模農民経営や小商業には市場原理を部分的に復活させる政策でした。NEPによってロシア経済は一時的に安定に向かいますが、同時に社会主義の原則との折り合いをどうつけるのかという新たな議論も生まれました。

1922年には、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカースなどを構成共和国とする「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連、ソビエト連邦)」が正式に成立します。こうして、十一月革命で生まれたソビエト政権は、一つの国家体制として定着していきました。レーニンの死後にはスターリンが権力を握り、急速な工業化と農業集団化が進められますが、その過程で強制収容所や粛清などの抑圧も拡大し、ソ連は強力な一党独裁体制へと変貌していきます。

十一月革命の影響はロシア国内にとどまらず、世界各地に波及しました。レーニンらは世界革命を視野に入れ、1919年には世界の共産主義政党を結ぶ組織としてコミンテルン(第三インターナショナル)を結成します。これにより、ヨーロッパやアジア、ラテンアメリカなどで共産党や労働運動が勢いを増し、各国の政治に大きな刺激を与えました。

一方で、資本主義諸国の支配層や保守勢力は、ロシアの革命を自国への脅威とみなし、「赤い恐怖(レッド・パージ)」と呼ばれる共産主義弾圧や反共政策を強めていきます。20世紀の国際政治は、しばしば資本主義陣営と社会主義陣営の対立、すなわち「東西冷戦」へとつながる長い過程として理解されますが、その出発点の一つが十一月革命であったと言えます。

また、植民地支配に苦しむアジアや中東、アフリカの人々にとっても、帝政ロシアという大国の体制が民衆革命によって覆された事実は、大きな衝撃と希望を与えました。インドや中国、ベトナムなどでは、民族独立運動と社会主義思想が結びつき、新しい解放運動の形が生まれていきます。ロシア革命は単なる一国内の政変ではなく、20世紀の世界史の方向性そのものに深く関わる事件だったのです。

なお、日本語で「十一月革命」というと、一般には1918年のドイツ革命(キール軍港の水兵反乱をきっかけに皇帝が退位した革命)を指すことも多いですが、ロシアの出来事を指して「十一月革命(ロシア十月革命)」と表記する教科書や資料もあります。これは、当時のロシアで使われた旧暦の日付(10月)と、現在私たちが使っている新暦の日付(11月)のずれを意識しているためです。この点を押さえておくと、用語の混乱を避けやすくなります。