周(武周) – 世界史用語集

「周(武周)」は、7世紀末から8世紀初頭にかけて唐王朝を一時的に中断し、中国史上唯一の女性皇帝・武則天(ぶそくてん)が690年に建て、705年に終わった王朝を指します。漢籍では「周」、近代歴史学では唐を中断した武則天の周という意味で「武周」と通称します。都は洛陽に置かれ、唐の制度と人材を受け継ぎながら、受験官僚の拡充、地方統治の再編、仏教・王権儀礼の再設計、宣伝と治安の両輪などを通じて短期間ながら強い統治を実現しました。他方で、密告制度や酷吏の横行、皇族・貴族層の処断など、強権的側面も色濃く、終盤には政争・宮廷内の権力集中が反発を招き、神龍元年(705)のクーデターで退位・崩御へと続きます。本稿では、成立までの経緯、統治と政策、宗教とイデオロギー装置、終焉と歴史的評価という観点から、武周の全体像を分かりやすく整理します。

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成立までの経緯――妃から摂政へ、そして周の建国

武則天(624–705年、武曌とも)は、唐太宗の才人として入内したのち、一時出家を経て高宗の寵を得て皇后となりました。高宗在位後半は病弱の皇帝を補佐して共同統治に近い体制を築き、宰相層や外廷・内廷の人事を掌握します。高宗死後は中宗・睿宗の二人の皇帝を相次いで廃立・擁立し、事実上の摂政として朝政を統べました。この間、旧来の関隴貴族(西北の功臣勢力)を牽制し、科挙登用や地方実務官の抜擢で「新しい官僚層」を厚くする方針をとります。

天授元年(690)、武則天はついに唐の国号を改めて「周」を称し、自ら「聖神皇帝(しようしんこうてい)」と号して即位します。都は長安ではなく東都・洛陽に定め、王権の象徴施設(明堂・天堂)の再建・運用を急ぎました。これは周の名が喚起する「周礼」の伝統と結び付けて、自らの統治を古典に根ざした正統として演出する狙いがあったためです。王権の系譜付けでは、唐の李氏血統に依拠せず、武氏の祖先を聖王譜系に接続する物語が重ねられ、国号変更はその総仕上げでした。

こうして誕生した武周は、制度上は唐を継承しつつも人事・宣伝・宗教・軍事の四輪で独自色を強め、洛陽を政治・経済・交通の結節点として活性化させます。河洛の要衝に都を据えたことは、東方・華北の統治圧力を高め、関中(長安圏)に偏る勢力地図を修正する効果もありました。

統治と政策――受験官僚の拡充、地方統治の再編、治安機構の強化

武周の統治で最も目を引くのは、科挙(貢挙)制度の実質拡大です。進士・明経などの合格枠が広げられ、地方からの俊英登用が加速しました。登第者は首都での任用機会が増え、既存の名門に偏らない「成績と実務」による登用原理が強化されます。これにより、関隴の旧貴族に代わる新型官僚層(新進士・寒門)が中央・地方に広く配置され、政務の下支えとなりました。人材の流動化は同時に、皇帝個人への忠誠軸を太くし、宮廷の意思決定を実務面から支える装置となっています。

地方統治では、州県制の枠内で観察使・按察機能の強化や戸籍・租庸調の再整備が図られました。均田制の再点検、課税台帳の刷新、倉儲・運漕の見直しは、黄河・洛水流域の穀物移送と軍需補給に成果をもたらします。対外的には、東北の契丹・突厥や西方の吐蕃に対して攻防が繰り返され、とくに西域方面では失地の回復・拠点の維持に努めました。洛陽を基本とする中枢は、東西交通路における商業・税収の掌握でメリットを得ています。

一方で、治安機構の強化は「酷吏政治」の側面を生みました。侍御史・御史台・控鞫司の線で密告・詮議が制度化され、反対派や皇族の動きは厳しく監視されます。周興・来俊臣らの苛烈な取り調べは恐怖政治の代名詞とされ、冤罪・粛清も少なくありませんでした。これらは王権の安全保障には寄与したものの、宮廷と士大夫の信頼を損なう要因ともなり、後年の反動や復辟運動の下地を形づくります。

経済・社会政策では、洛陽を中心とする市場・運河の整備、河渠の修復、手工業の監督、銅銭・絹の流通管理など、唐制を踏まえた増補が行われました。女性の社会的可視性については、皇帝の存在自体が象徴的な効果を持ち、皇后・公主・才人の動静が公的空間により強く現れます。ただし、法制度として一般女性の身分秩序が大きく緩和されたわけではなく、礼法・家父長制の枠は基本的に維持されました。

宗教とイデオロギー装置――仏教の権威づけ、古典の再解釈、文字・儀礼の創出

武周の政治思想の中核は、宗教的正統性の再設計でした。武則天は仏教護持を鮮明に掲げ、『大雲経(だいうんきょう)』や「弥勒下生」信仰を政治的に用い、国家安泰と女帝即位の正当性を結びつけました。洛陽や長安の大伽藍整備、仏舎利の迎奉、僧官の任命といった施策は、在来の道教・儒教秩序と競合しつつも、最終的には三教調和の枠に収められます。龍門石窟の奉先寺に見られる巨大な毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の造営は、王権の宇宙的象徴化としてしばしば言及されます。

王権儀礼では、明堂・辟雍・天堂といった古典『周礼』由来の施設と儀式が復活・再設計され、天子が天下を統べる「文武両道」の演出が徹底されました。詔勅・年号の選定、祥瑞記事の流布、碑文・祠廟の整備は、王朝の物語を視覚・聴覚・空間に刻む作業です。さらに、武則天は独自の新字(いわゆる「則天文字」)を制定し、公文・碑に用いて権威の印象を強めました。文字の改新は短命でしたが、王権の創造力を視覚化する装置として効果的でした。

史書編纂も重視され、先王朝の実録整理、国史の続修、人物伝の取捨は、新たな正統論の提示の場となりました。褒貶の筆は、旧勢力の権威に揺さぶりをかけ、新興官僚の名誉体系を作り替えます。これは同時に、武周が自己の短命性を意識しつつ、記憶の中で存続する戦略をとったことを示しています。

終焉と評価――神龍の政変、唐の復辟、遺産の光と影

長寿の女帝のもとで、終盤は宮廷内の権力集中と私的勢力の伸長が顕著になります。張易之・張昌宗兄弟の寵用は士大夫層の反感を集め、皇太子・宗室・官僚の連携が密かに進みました。神龍元年(705)、宰相張柬之らのクーデターが成功し、武則天は退位、唐は中宗の復位によって復辟します。これにより国号は唐に戻り、武周は15年で幕を閉じました。退位後まもなく武則天は崩御し、則天大聖皇后として合葬されます(乾陵の無字碑は、その特異な記憶の装置として著名です)。

歴史的評価は二極性をはらみます。一方では、女性であることを超えて即位した前例のなさ、苛烈な粛清と酷吏政治、皇族や旧貴族への圧力が強権の象徴として批判されてきました。他方では、科挙の実質拡大と官僚の再編、地方統治の梃入れ、宗教・儀礼・都市の刷新、洛陽中心の物流・税収体系の整備など、国家運営の実務を強化した側面も評価されます。とりわけ彼女が押し上げた新進官僚層は、唐の復辟後にも引き続き政務を担い、8世紀前半の唐の再安定に寄与しました。

外交・軍事面でも、東北・西北の外患に対する対応力を一定程度維持し、西域での拠点回復や北方諸勢力の牽制に成果を残しました。もっとも、周辺民族との力学は流動的で、長期的優位を保ったわけではありません。武周の短命は、王朝としての制度・人材が唐体制と強く連続していたがゆえに、復辟が比較的滑らかに進み得た事実とも表裏です。

総じて、武周は「王朝の名を変え、王権の物語を作り直す」試みでした。新しい名の下に、官僚登用・宗教儀礼・都市空間・記憶の編纂を組み替えることで、女性皇帝という前例のない統治を現実化し、短期間にしては大きな痕跡を残しました。武周が去ったのちも、科挙の拡充や洛陽の重み、仏教と王権の関係の組み替えは、盛唐へ向かう政治文化の土台として働き続けます。武則天の名は、独裁と刷新、恐怖と機会の両義性とともに、東アジア史の記憶に深く刻まれているのです。