キタイ(契丹) – 世界史用語集

キタイ(契丹)は、モンゴル高原東南縁から遼河流域にかけて活動した遊牧・半農の諸部族を母体に、10世紀初頭に耶律阿保機(やりつ・あぼき)が統合して建てた王朝「遼(916–1125)」の支配民族を指します。中国史では「遼」、イスラーム世界やユーラシアの多くの言語では「カタイ/キタイ」の名で記憶され、のちに西遼(カラ・キタイ、12世紀)として中央アジアにも国家を築きました。契丹は、草原の遊牧と農耕・都市を結びつける交通・税制・軍事の仕組みを整え、華北・遼東・内モンゴル・満洲を含む広域秩序を長期にわたり維持しました。二重統治(遊牧諸部に対する部族制の北面官、漢地住民に対する州県制の南面官)という柔軟な統治術、契丹大字・小字という自前の文字の創出、仏教・シャーマニズム・儒法の折衷的運用が特徴で、宋・高麗・女真(後の金)・西夏など周辺諸国との外交・軍事・交易の結節点としてユーラシア東部の秩序形成に大きな役割を果たしました。以下では、起源と国家形成、統治構造と社会、国際関係と軍事、そして崩壊・西遼と遺産という観点から整理して解説します。

スポンサーリンク

起源と国家形成:草原の連合から「遼」へ

契丹は、鉄器時代末から中世初頭にかけて遼西・遼東の森林・草原地帯に居住した騎馬遊牧集団で、狩猟・牧畜と河谷農耕を併用する生活を営みました。部族は氏族単位の小共同体から成り、同盟や婚姻を通じて緩やかな連合を形成していました。9世紀末、唐末の混乱と渤海(渤海国)の勢力後退を背景に、契丹諸部の中から耶律氏が頭角を現します。阿保機(太祖)は、伝統的な部族会議(クリルタイに類似)で推戴を受け、軍事力だけでなく儀礼・法・同盟を梃子に周辺部族を糾合しました。

916年、阿保機は皇帝(可汗)即位を宣言し、国号を「契丹」と称し、まもなく遼河流域と燕雲十六州方面に勢力を伸ばしました。926年には日本海側の渤海国を滅ぼし、その王族・官僚・工匠・農民を編入して、東丹国(のち遼東の行政単位)を設けます。これにより、契丹は遊牧世界と農耕・海洋世界を結ぶ東北アジアの広域支配者となりました。阿保機の治世では、狩猟儀礼やテント式の帳幕政、騎射訓練とともに、都城整備・律令編纂の端緒も見られ、遊牧と定住の両立を目指す国家の設計思想が芽生えます。

阿保機の死後も、耶律氏と后族の蕭氏が皇族・外戚として二重の支配核を形づくり、軍政・内廷・婚姻政策を通じて安定を図りました。10世紀半ば、契丹は国号を「遼」と改め、五京制(上京臨潢府・中京大定府・南京析津府・東京遼陽府・西京大同府)を整えます。五京は草原・農耕地・交通路の要衝に配置され、季節移動を伴う遊牧政の性格(行在・行宮)を保持しつつ、都市・市場・官署を発達させました。こうして、草原の機動性と都市の蓄積を両立させる「移動する帝都」体制が成立します。

国家形成の初期段階で、契丹は自前の文字を創出しました。10世紀前半に成立した契丹大字・小字は、漢字と音節文字の折衷的性格を持ち、詔勅・碑文・行政文書に用いられました。これは、漢文に依存せずに契丹語を記す実用的要請から生まれた制度革新で、支配層のアイデンティティと行政能力を同時に高めました。今日では未解読部分も多いものの、碑刻や墓誌から政治用語・官名・地名の復元が進み、契丹国家の実像が具体化しています。

統治構造と社会:二重統治、五京、法と宗教

遼の統治の中核は「北面官」と「南面官」の二重統治です。北面官は契丹・奚・室韋など遊牧・林地系の被支配民に対し、部族連合の慣習法・首長制を基礎に支配し、軍事動員・狩猟儀礼・歳時祭を統括しました。南面官は漢地住民(漢人・渤海系住民・遼西の在地豪族など)を対象に、唐宋以来の州県制・律令・課税・科目を援用して行政を行いました。二つの制度は対等で、皇帝は場面に応じていずれの装束・称号も用い、遊牧の「可汗」と農耕の「皇帝」を兼ねる存在として演出されました。

財政は、牧畜・狩猟に由来する貢納(家畜・毛皮・乳製品)と、漢地における地税・戸税・塩鉄専売・交易関税から成る複線形でした。遼は交易に積極的で、茶・絹・塩・金属・馬の交換を管理し、城郭都市・関市・駅伝(驛)を整備しました。南北の財政制度を並立させることで、農牧複合地域の異質性を無理なく取り込むことに成功しています。

法制度面では、遼刑統・遼史刑法志が伝えるように、唐律の影響を受けつつも、婚姻・継承・部族内規範に関する契丹固有の慣習を法文化へ組み込みました。皇族と外戚(蕭氏)による合議、王族諸王(北院・南院)の分権、遊動宮廷(斡魯朶=オルド)の存在は、危機時に柔軟な権力再配分を可能にしました。一方、後継争い・宗族対立が激化すると宮廷政争が長期化し、政治的脆弱性を露呈する場面もありました。

宗教は多元的でした。契丹の伝統的な天・祖霊崇拝とシャーマニズムが皇室儀礼の核にあり、同時に仏教(特にラマ教以前の中国仏教系)が広く保護され、寺院・僧尼が都市・農村に浸透しました。道教・民間信仰も併存し、儒学は南面官僚の教養として機能しました。墳墓・壁画・副葬品に見える遊牧的意匠と仏教美術の折衷は、遼文化の象徴的特徴です。言語面では契丹語が宮廷・軍事の共通語として用いられる一方、漢語は文書・教育・交易で不可欠であり、多言語的実務能力がエリートの資質とされました。

社会構成は、契丹・奚などの遊牧民、漢人・渤海系住民、高麗系移民、ソグド系の商人などが混住する多民族的様相を呈しました。都市は市場・官署・工房を備え、陶磁・金属・皮革の生産が盛んでした。女性の政治参加も注目点で、蕭太后に代表される外戚の女性は摂政・軍事指揮に関わり、草原国家の性格を色濃く残しています。

国際関係と軍事:宋・高麗・西夏・女真とのせめぎ合い

遼は建国当初から、華北の後晋・後漢・後周、のちの宋と対峙・交易を織り交ぜる外交を展開しました。936年、後晋の石敬瑭は燕雲十六州(幽州=北京・雲州=大同など)を遼に割譲し、遼は華北の防衛線と交易路を確保します。北宋の成立後も、遼は長城以南へ圧力をかけつつ、軍事と通商を一体で運用しました。1004–1005年の澶淵の盟は、遼宋間の長期的な講和・歳幣(宋から遼へ絹・銀の定期供与)を取り決め、両国の国境と秩序を安定化させました。この合意は、戦争のコストと交易利益の天秤を巧みに取った現実主義的外交の典型です。

東方の高麗に対しては、渤海の承継と遼東の覇権をめぐり数度の遠征・交渉が繰り返されました。高麗は山城・水軍と文治を基盤に持久戦を展開し、遼は決定的勝利を得られないまま、国境交易と冊封関係の調整へと軸足を移します。西北方面では党項の西夏と対峙し、砂漠・河西回廊の商路をめぐって緊張と協調を繰り返しました。遼は西夏に対しても軍事圧力と婚姻・冊封を併用し、互いの独立性を保ちながら秩序を取り結びました。

軍事力の核は機動力の高い騎馬軍で、重装騎兵と弓騎兵の組み合わせにより、平原では突撃と包囲、山地では分進合撃を得意としました。攻城戦では漢地出身の工匠・兵員を動員し、投石機・弩・攻城塔を使用しました。動員は部族単位の編成と漢地の州県兵の併用で、戦役ごとに合同軍団を編成する柔軟性が特徴でした。補給は遊牧の自給性と市場調達を組み合わせ、草原の季節移動ルートと都市の倉廩を連結させる「移動兵站」に長じていました。

11世紀末から12世紀初頭、満洲の女真が急速に台頭し、1115年に金を建国します。女真は遼の宗主権から離脱し、北宋と同盟して遼を挟撃しました。遼は内政の混乱と軍の反乱も重なって防衛に失敗し、1125年に金により滅亡します。これは、草原国家としての柔軟性が長期にわたり優位を保った一方、王位継承・宮廷内紛・新興勢力への適応の遅れが致命傷になり得ることを示す転換点でした。

崩壊後と西遼(カラ・キタイ)、遺産と記憶

遼滅亡後、皇族の耶律大石(やりつ・たいせき)は西走して中央アジアへ到り、1130年代にバラサグンを都として西遼(カラ・キタイ)を樹立しました。西遼はテュルク系カラハン朝、ホラズム、カラ・キタイに屈した旧領の諸侯を服属させ、天山・セミレチエ・フェルガナに広がるオアシスと草原の秩序を再編しました。支配言語・宗教・法は多元的で、仏教・イスラーム・ネストリウス派キリスト教が共存し、貨幣・度量衡・課税の標準化を通じて通商を活性化させました。西遼の行政では、契丹の二重統治の思想が形を変えて受け継がれ、遊牧勢力とオアシス都市の橋渡しを果たしました。

13世紀初頭、西遼は内紛と外圧に直面します。ナイマン人の屈出律(クチュルク)が西遼の権力を簒奪して宗教的寛容を損ね、商路の安定が揺らぎました。1218年、モンゴル帝国の追撃を受けたクチュルクが滅びると、西遼の領域はモンゴルの支配に編入されます。こうして契丹の西方国家は消滅しますが、「カタイ」の名はなお中央アジア・イスラーム世界の地名・民族名の中に生き残り、中東・ヨーロッパでは長く「中国(Cathay)」の呼称として記憶されます。マルコ・ポーロの『東方見聞録』に現れる「カタイ」は、まさに契丹の遠い影響の痕跡です。

遼の遺産は多岐にわたります。第一に、草原と農耕の複合社会に最適化した二重統治の制度設計は、のちの金・元・清など多民族帝国における多元統治の先駆けでした。第二に、契丹文字の創出と公用化は、遊牧国家における文書行政の可能性を示し、碑刻・墓誌に残る語彙は言語史・民族史の貴重な手がかりです。第三に、仏教を軸としつつもシャーマニズムや儒教を折衷した宗教政策は、文化の混淆と寛容の度合いを物語り、遼代仏教美術・工芸(石仏、金銅仏、銀器、琺瑯、陶磁)は独自の様式を生み出しました。第四に、交易路の管理と市場の整備は、東北アジアの物資循環を安定させ、茶・絹・馬・毛皮・金属・塩の広域流通に寄与しました。

考古学の進展により、遼代の都市遺跡・墓葬・仏寺址・碑文の発見が相次ぎ、契丹社会の具体像が再構成されています。王族墓に見られる金銀器・漆器・馬具・甲冑は、遊牧貴族の生活世界を生々しく伝えます。都城跡は、回廊・門・瓦葺きの建築と帳幕的施設の混合を示し、定住と移動の折衷を形にしています。出土した契丹小字の墓誌は、個人名・官位・血縁・地名を緻密に記録し、遼の官僚制・軍制の実相を照らし出しています。

総じて、キタイ(契丹)は、草原と農耕、移動と定住、軍事と交易、固有文化と外来制度を架橋した「ハイブリッドの帝国」でした。国号が変わっても、彼らの国家運営の技法は後世へ受け継がれ、名称は遠くヨーロッパにまで響きました。遼と西遼の歴史は、ユーラシアの東西連結を動的に理解するうえで不可欠の章であり、国家とは異質な社会をいかに調停し、制度の二重化で多様性を包摂するのかという、今日にも通じる課題に豊かな示唆を与えます。