アンデス文明 – 世界史用語集

「アンデス文明」とは、南米西岸のアンデス山脈・太平洋岸(コスタ)・高地(シエラ)・アマゾン側の森林縁(セリバ)に広がる多様な自然帯で、先史からスペイン到来前夜まで連続して展開した複合文明を指します。先陶器期のカラル=ノルテ・チコ(前3000年紀)に早くも都市的集住と公共建築が現れ、初期形成・初期地平を経て、チャビン(前10〜前3世紀)、ナスカ・モチェ(前後1千年紀前半)、ティワナク・ワリ(中期地平:6〜10世紀)、シカン(ランバイェケ)・チムー(後期中間期:10〜15世紀)、そしてインカ帝国(後期地平:15〜16世紀初頭)へと、地域間の連接と再編を繰り返しながら持続しました。文字による文書制度は発達しませんでしたが、結縄(キープ)・精緻な織物・石造/日干しレンガ建築・広域道路網など、独自の情報・技術体系を育みました。

アンデス世界の核心は、垂直方向に環境が変化する「縦の大地」にあります。海岸砂漠の灌漑農業、高地の段々畑と寒冷作物、湖沼地の浮畑・高畝、草原のラクダ科家畜(リャマ・アルパカ)牧畜が、急峻な等高線を横断する道路と交易で縫い合わされました。社会の単位としての「アイユ(共同体)」、相互扶助(アイニ)、再分配、巡回祭祀、山岳崇拝などの仕組みが、厳しい環境での安定を支えます。インカの巨大帝国はこの長い蓄積の上に立ち、征服よりも統合・標準化・再編の力を発揮したといえます。

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地理と時代区分—縦の大地と長い時間

アンデスは、冷たいフンボルト海流の影響で降水に乏しい海岸砂漠、霧のベールがかかるリマ周辺のロマス植生帯、標高3000〜4000メートル級の高地(プーナ)、チチカカ湖周辺の湖沼地、さらに東側に広がる雲霧林の縁が、短距離で折り重なります。この「垂直的生態ピソ(帯)」の組合せを、家・血縁・村落のネットワークによって利用する戦略は、民族誌学者J.マラが「垂直の群島(vertical archipelago)」と呼んだように、アンデス的な生存技法の核でした。標高差が作る小気候は、ジャガイモ・オカ・キヌア・トウモロコシ・トウガラシ・コカといった作物の地域分化と、相補交易を促しました。

時代区分は、考古学的におおむね以下のように整理されます。先陶器期末〜初期形成期(カラル=ノルテ・チコ、コトシュなど:前3000〜前1800)には、海岸の灌漑谷沿いにピラミッド状のプラットフォームや円形広場を伴う宗教中心が現れます。初期地平(前900〜前200)では、チャビン・デ・ワンタルが「杖の神」などの共有イコノグラフィと高地—海岸のネットワークを通じて文化的統合を進めました。初期中間期(前後1〜600)には、海岸にナスカ(地上絵・プキオ)とモチェ(土器・神殿・儀礼)の地域文化が並立します。中期地平(600〜1000)では、ワリ(高地の行政都市網)とティワナク(チチカカ湖畔の宗教—農業中心)が広域に影響力を持ち、後期中間期(1000〜1450)はシカン(ランバイェケ)・チムー(チムー=チャンチャン)などの地域王国が台頭します。後期地平(約1438〜1532)はインカ帝国(タワンティンスーユ)の統合期で、スペイン到来まで続きます。

この長い時間を通じて、アンデスは「続ける技術」に長けました。干ばつ・エルニーニョ・地震に対し、段々畑(アンデネス)・石組みの擁壁・灌漑運河・貯水池(コチャ)・高畝(ワルワル/ワル=ワル)・地下水を導く風車状のプキオなど、環境に合わせた多層的解を積み重ねます。都市は必ずしも巨大ではありませんが、広場・基壇・列柱・壁龕などの定型が共有され、儀礼と行政が交差しました。

政治社会と統治—共同体から帝国へ

アンデスの基層社会は、血縁・土地・水利・祖先祭祀を結ぶ「アイユ(ayllu)」という共同体でした。アイユは耕作地と牧草地を帯状に配分し、成員は相互扶助(アイニ)、共同労働(ミンカ)、再分配(カミャキ)の原理で生産と儀礼を回しました。首長(クラカ/クラカ)は水利・労働・儀礼の調整者で、上位の首長連合と横断的に連なります。王権や国家が登場しても、アイユの単位は基礎として生き続けました。

初期に広域影響をもったチャビンは、山地の聖所を核に海岸・高地のネットワークを動かす「宗教ハブ」の性格が強く、統一国家ではありませんでした。初期中間期のモチェは、複数の谷に散在する王権(北・南モチェ)と儀礼中心(ワカ・デル・ソル/デ・ラ・ルナ)を持ち、戦争・捕虜・供儀のイコノグラフィで権威を示しました。ナスカは地上絵と彩文土器で知られますが、地下水道(プキオ)を含む水利共同体の連合として理解されます。中期地平で、ワリは高地に整然とした行政都市(ワリ、ピキリャクタ、ビルカスワマンなど)を設け、格子状街路・標準化建材・ストアハウスによって各地を統御しました。ティワナクは、巨大な平台・半地下広場・石門(太陽の門)を備えた宗教中心で、チチカカ湖周辺の高畝農耕(ワルワル)と結びつき、象徴体系と生業を統合しました。

後期中間期の北海岸では、シカン(ランバイェケ)が黄金工芸と灌漑で繁栄し、のちにチムーがチャンチャンを中心に大規模な宮城群・倉庫・運河網を整備して広域王国を形成しました。チャンチャンの宮区画は王ごとに新造され、埋葬・祭祀・管理がセットになった「王の都市」でした。こうした地域王国の政治装置—官倉・測量・労働組織—は、のちのインカの標準化政策に吸収されます。

インカ帝国(タワンティンスーユ=「四方の地」)は、クスコを中心にチンチャイ、コリャ、アンティ、クンティの四州に分け、州(ワマン)—県(ワマンイ)—郷(サユ)—アイユと階層化して統治しました。サパ・インカ(唯一のインカ)を頂点に、皇太后(キヤ)、貴族(パンカ)と在地首長(クラカ)を編入する二重の支配が行われます。労働はミタ制(公共労働税)として組織され、道路網(カパック・ニャン)に沿って宿駅(タンボ)と倉庫(クルカ)が配されました。再配住政策(ミティマク)で各地に移住集団が送り込まれ、忠誠・技術・言語の標準化が進みます。行政情報は結縄(キープ)に十進法で記録され、専門官(キープカマヨク)が人口・貢納・労役・軍需・在庫を管理しました。石造技術は地震に強い多角形切石・傾斜壁・台形開口で知られ、クスコのサクサイワマン、聖なる谷のオリャンタイタンボ、山上のマチュピチュにその粋が見られます。

経済・技術と生業—農牧・工芸・計量知

アンデスの農業は、標高帯に応じた作物の多様性が強みでした。高地の主食ジャガイモは寒冷・霜に強く、凍結乾燥して長期保存可能なチューニョへ加工されました。キヌア、カニワなど雑穀は栄養価が高く、トウモロコシは儀礼飲料(チチャ)の原料として重要でした。トウモロコシ自体は外来系譜をもちつつ、灌漑・段々畑で高地適応が図られます。コカは高地労働・交易・祭祀の必需品で、噛用により疲労軽減・高山病対策と信じられました。家畜では、リャマが担ぎ手・肉・皮を、アルパカが高品質の毛を提供し、モルモット(クイ)は家内のタンパク源でした。車輪・大型牽引獣がない環境で、リャマ隊列と人力が物流を担い、吊橋(草のロープ橋)と石敷き道が山腹を結びました。

農地改良の技術は多彩です。海岸では大河の支流を延長する運河灌漑が谷ごとに発達し、モチェやランバイェケは砂漠の縁を緑地化しました。高地では段々畑(アンデネス)が熱の蓄積・風の遮断・土壌流亡防止を果たし、チチカカ湖畔の高畝(ワルワル)は水面の熱緩衝により凍霜害を軽減しました。ナスカのプキオは、地下水脈にらせん状の通気孔(オジョス)を開けて渓谷に水を引く独創的な技術で、干魃の谷に持続性を与えました。内陸の貯水池(コチャ)や分水・井堰の微細な制御は、共同体の合意形成と不可分でした。

工芸では、織物が権威・記録・贈与の媒体でした。腰機(バックストラップルーム)で織られる布は、色彩豊かで幾何・動物・神話図像を織り込み、身分や地域を識別しました。染色はコチニール(サボテンの介殻虫)やキンセンカ、藍などの天然資源を用い、上質のウニョ(ベビーアルパカ毛)織は王権への貢納品でした。金属工芸は、銅—ひ素青銅の実用具から、金・銀・トゥンバガ(銅金合金)による打ち出し・鏡面研磨・ロストワックス鋳造の装身具・儀礼器まで発達し、とりわけシカンやチムーの黄金仮面・胸甲は高度な冶金と象徴世界を示します。土器では、モチェの写実的ポーズ壺や場面叙述、ナスカの多色彩文、ワリの抽象幾何が著名です。音楽はサンポーニャ(パンパイプ)・ケーナ・太鼓が儀礼とともに鳴り、集団のリズムを合わせました。

情報・計量の面では、キープが中心装置でした。綿・キャメルドの紐に色分け・撚り・結びの位置・種類で情報を符号化し、十進位取りによって数量・分類を表現します。研究は進行中ですが、在庫・人口・労役・土地台帳・暦・儀礼順序など多用途であったことが確認され、地域ごとに標準化が図られていました。石造都市は、耐震を意識した台形の扉・窓・壁龕、すり合わせの切石(多角形やはぎ)で組まれ、地震多発帯での知恵が体系化されます。道路網は、太平洋岸の低地路と高地の背梁路を主幹に、支線が谷ごとの中心地へ降りる構造で、全長は数万キロに及びました。

宗教・芸術・世界観とスペイン到来—聖なる景観の力学

アンデスの宗教は、多神的で土地と天空に根ざします。山(アプ)、泉・岩・古墳などの聖所(ワカ)が至る所にあり、祖霊(マリキ/モミア)への崇敬と季節儀礼が共同体を束ねました。創造神や秩序の源としてのヴィラコチャ、太陽神インティ、雷のイーリャパ、月のキヤ、農耕・水に関わる神格が地域で重なり合います。チャビンでは、獣の牙を持つ「杖の神」像・迷宮的回廊・音響効果が、変容と越境の宗教体験を演出しました。モチェは、戦士—捕虜—供儀—首級の連関を壁画と土器で繰り返し表し、権威の劇場を築きました。ナスカ地上絵は、幾何学と動物図形が数十キロにわたり描かれ、水の祭祀・天体観測・行進路など複合的機能をもった可能性が議論されています。ティワナクの「太陽の門」には、中央の神格から雨・穀霊を呼ぶ杖持神と随伴者が広がり、空と地の秩序を象徴しました。

インカは、クスコの聖域を同心円状に配列するセケ体系で数百のワカを結び、太陽の祭(インティ・ライミ)や死者の行列、カパコチャ(高峰への奉献儀礼)など四季の儀礼を組織しました。王は太陽の子として天体運行と地上秩序を結ぶ媒介者であり、結婚・即位・遠征と祭礼は不可分でした。高峰の氷雪中から発見されるミイラは、異常気象や王位継承の危機に向き合う共同体の祈りと犠牲の記憶を伝えます。

16世紀初頭、インカはワイナ・カパックの死後、王子アタワルパとワスカルの内戦で疲弊し、疾病(天然痘など)も広がっていました。1532年、ピサロの一隊がカハマルカでアタワルパを急襲・捕縛し、翌年処刑してクスコへ進みます。1536年にはマンコ・インカがクスコ包囲戦を起こして抵抗しましたが、やがてビルカバンバへ退き、1572年のトゥパク・アマル捕縛でネオ・インカ政権も終息します。植民地期には、共同体の再編(レドゥクシオン)、エンコミエンダとミタの強制労働、ポトシ銀山の酷使が社会を変質させ、偶像破壊(偶像撲滅運動)とカトリック受容のせめぎ合いで、聖人崇敬と山岳信仰が重なる「アンデス的カトリシズム」が形成されました。

それでも、多くの基層は生き延びます。ケチュア語・アイマラ語は広域言語として存続し、織物・音楽・農法・祭礼は地域の文脈で継続されました。チチカカ湖畔のトトラ舟、草の吊橋の定期的架け替え、段々畑の復旧、キープ研究の進展、道路網(カパック・ニャン)の保全など、考古・歴史・地域社会の協働で、アンデス世界の技術と記憶が今日に伝えられています。