「諸国民の春」とは、1848年を中心にヨーロッパ各地でほぼ同時期に起こった革命と民衆運動の高まりを指す言葉です。とくにフランス、ドイツ諸地域、オーストリア帝国、イタリア諸国などで、自由主義や民族自決を求める人びとが一斉に立ち上がったため、「多くの国民(諸国民)」が動き出した「春」とたとえられました。これは、ナポレオン戦争後に続いていた保守的なウィーン体制に対する、ヨーロッパ規模の挑戦でもありました。
この時代、ヨーロッパの多くの地域では、国王や皇帝が強い権力を持ち、議会や言論の自由が十分に認められていませんでした。また、産業革命が進むなかで、都市の労働者や中産市民(ブルジョワジー)の不満も高まり、農村では封建的な身分制度や賦役に苦しむ農民も少なくありませんでした。こうした政治的・社会的・経済的な不満が積み重なり、1848年という年に一気に火を噴いたのが「諸国民の春」です。
ただし、「諸国民の春」の運動がすべて成功して新しい自由な国家が生まれたわけではありません。たしかに一時的には王や政府が譲歩し、憲法や議会が認められる例も多く見られましたが、やがて保守勢力が反撃に転じ、多くの革命運動は武力で鎮圧されてしまいました。その意味で、1848年革命は「失敗した革命」とも呼ばれます。しかし、完全に無意味だったわけではなく、その後のヨーロッパ政治に長期的な影響を与えるきっかけとなりました。
以下では、まず「諸国民の春」が起こるまでのヨーロッパの状況を整理し、そのうえでフランス・ドイツ・オーストリア・イタリアを中心に、各地でどのような運動が展開されたのかを見ていきます。そして最後に、それらの運動がどのように鎮圧され、どのような変化をヨーロッパ社会にもたらしたのかを、具体的にたどっていきます。
ウィーン体制と1848年直前のヨーロッパ
「諸国民の春」を理解するためには、その前提となる「ウィーン体制」についておさえておく必要があります。ウィーン体制とは、ナポレオン戦争が終結したのち、1814〜1815年のウィーン会議で決められた、ヨーロッパの国際秩序のことです。オーストリアの外相メッテルニヒを中心に、オーストリア・ロシア・プロイセン・イギリスなどの大国が集まり、「革命や戦争の再発を防ぎ、保守的な王政を安定させる」ことを目標にしました。
この体制のもとでは、フランス革命やナポレオン時代に広まった自由・平等・国民主権といった思想は、危険なものとして警戒されました。各国政府は言論や出版を厳しく取り締まり、秘密警察や検閲を通じて反体制的な動きを押さえ込もうとしました。とくにオーストリア帝国内では、ドイツ諸邦やイタリア諸国に対しても影響力を行使し、自由主義・民族運動の芽を摘むことに努めました。
しかし、産業革命の進展や商工業の発展とともに、都市には新しい中産階級(ブルジョワジー)が台頭し、彼らは税や兵役の負担を負わされながらも、政治参加の権利や言論の自由を十分に享受できていませんでした。また、工場労働者(プロレタリアート)の生活は過酷で、長時間労働・低賃金・不安定な雇用に苦しむ人びとが増加していました。彼らの怒りや不満は、しだいに社会問題として意識されるようになります。
一方、農村では依然として封建的な地代・賦役が残っている地域も多く、農民たちは地主や領主に対する不満を抱えていました。とくにドイツやオーストリア帝国の一部では、農奴制やそれに近い形の束縛が残り、自由な土地の売買や移動が制限されていました。さらに、穀物価格の変動や不作が重なると、食糧不足と物価高騰が都市と農村の両方で社会不安を引き起こしました。
こうしたなかで、大学生や知識人たちは、フランス革命以来の自由主義思想や民族自決の理念に共感し、秘密結社やサークルを通じて交流していました。ドイツでは「ドイツ民族の統一」、イタリアでは「イタリアの統一」、ハンガリーやチェコ、ポーランドなどでは「民族の独立」への願いが、知識人や一部の市民のあいだで高まります。国境線はウィーン会議で大国の都合に合わせて引かれていましたが、そこに住む人びとの民族意識や言語意識は、その枠組みと必ずしも一致していませんでした。
このように、1848年直前のヨーロッパは、一見するとウィーン体制のもとで安定しているようでありながら、その内側には自由を求める市民、中下層の生活に苦しむ人びと、民族自決を求めるグループなど、さまざまな不満と変革願望が積み重なっていました。その圧力が、1848年という「一つの年」に一気に噴き出したのです。
フランス二月革命とドイツ・イタリアへの波及
「諸国民の春」を最初に切り開いたのは、1848年2月のパリの革命、いわゆるフランス二月革命でした。七月王政期のフランスでは、ルイ=フィリップ王のもとで一定の立憲政治が行われていましたが、選挙権は財産要件によって厳しく制限され、多くの市民が政治から排除されていました。経済不況や失業の増加も重なり、選挙制度の改革を求める声が高まっていました。
1848年2月、政府が政治集会を禁止したことをきっかけに、パリで大規模なデモと暴動が発生します。市街戦の末、ルイ=フィリップ王はイギリスへ亡命し、王政は崩壊しました。かわって臨時政府が樹立され、普通選挙を原則とする第二共和政が宣言されます。このフランス二月革命は、ヨーロッパ各地に「フランスでまた革命が起きた」というニュースとして伝わり、多くの人びとに強い刺激を与えました。
とくにドイツ諸邦では、すでに自由主義的な憲法や統一国家を求める気運が高まっていたところに、フランスの動きが拍車をかけました。3月には、ベルリンやウィーンで大規模なデモが起こり、王や政府は弾圧と譲歩のあいだで揺れ動きます。プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は、一時的に自由主義的な政策を約束し、ドイツ統一の「国民的王」となることを期待されました。
同じころ、ドイツ諸邦の自由主義者や民族主義者たちは、全ドイツの代表を集めた憲法制定議会の開催を目指し、やがてフランクフルト国民議会が開かれます。ここでは、ドイツ統一のあり方や、立憲君主制・基本的人権・議会の権限などについて真剣な議論が行われました。フランクフルト国民議会は、「ドイツにおける国民国家と憲法の試み」として象徴的な意味を持ちます。
イタリアでも、同じ1848年に各地で蜂起が起こりました。当時イタリア半島は、サルデーニャ王国、両シチリア王国、教皇領、トスカナ大公国などに分かれ、さらにロンバルディアやヴェネツィアなどはオーストリア帝国の支配下にありました。ミラノやヴェネツィアではオーストリア支配に反対する民衆が蜂起し、サルデーニャ王国のカルロ=アルベルト王は「イタリア統一の旗手」としてオーストリアに戦いを挑みました。これが第一次イタリア独立戦争です。
また、トスカナやローマ(教皇領)でも自由主義的な憲法が一時的に認められ、青年イタリアのマッツィーニらが共和主義的な運動を展開しました。こうした動きは、イタリア全体に「祖国イタリア」という意識を広める役割を果たしましたが、軍事的にはオーストリア軍の反撃を受け、多くの場合短期間で押さえ込まれてしまいます。
このように、「諸国民の春」は、一つの国で起きた革命が、新聞・手紙・人の移動を通じて周辺諸国へと連鎖的に波及していった現象でした。フランス二月革命は、その連鎖の出発点として大きな意味を持っています。
オーストリア帝国と多民族地域の運動
1848年の「諸国民の春」の中で、とくに複雑な様相を呈したのがオーストリア帝国です。オーストリア帝国は、現在のオーストリアだけでなく、ハンガリー、チェコ(ボヘミア)、クロアチア、イタリア北部、ポーランドの一部など、多くの民族と地域を含む多民族帝国でした。そのため、自由主義と民族運動が同時に高まると、さまざまな要求と利害が交錯し、帝国内部で多数の運動が同時多発的に起こりました。
1848年3月、ウィーンでは学生や市民が自由主義的改革を求めて蜂起し、長年ウィーン体制を支えてきたメッテルニヒは失脚して亡命を余儀なくされます。これは象徴的なできごとであり、「ヨーロッパ秩序の番人」ともいわれた人物が民衆の圧力によって追放されたことは、各地の自由主義者たちに大きな勇気を与えました。ウィーン政府は、当面の危機をしのぐために検閲の緩和や憲法制定の約束など、一定の譲歩を行います。
しかし同じ帝国内では、ハンガリーのマジャル人が自治拡大や独立を求めて立ち上がり、チェコ人やクロアチア人、イタリア人などもまた、それぞれの民族的要求を掲げて運動しました。ハンガリーではコシュートらの指導のもと、議会が改革法案を通過させ、事実上の自治政府が成立します。彼らは封建的な義務を廃止し、農民の解放などを進めようとしました。
ところが、多民族帝国の内部では、「ある民族の自治拡大」が「別の民族の不安」につながるという矛盾が生じます。たとえば、ハンガリー王国内のスロヴァキア人やルーマニア人、クロアチア人などは、マジャル人主導のハンガリー政府に抑圧されることをおそれ、オーストリア中央政府と結びついてハンガリーの完全な独立に反対する動きを見せました。このように、自由主義と民族自決が常に同じ方向を向くとは限らないことが、オーストリア帝国でははっきりと表面化します。
ウィーン政府と皇帝側は、当初は革命勢力に譲歩する姿勢を見せつつも、軍隊を立て直し、ロシア帝国の支援も取りつけながら、少しずつ反撃を開始しました。1848年の年末から1849年にかけて、ウィーンでは軍が蜂起を鎮圧し、ハンガリーではオーストリア軍とロシア軍が共同で反乱軍を打ち破りました。多くの指導者が逮捕・処刑・亡命に追い込まれ、オーストリア帝国は一時的には中央集権的な支配を回復します。
この過程は、「諸国民の春」が必ずしも一枚岩ではなく、さまざまな民族と階層が異なる利害を持っていたことをよく示しています。自由主義者たちが求めた憲法や議会は、多民族国家の中でどのような形をとるべきかという難しい問題に直面せざるをえませんでした。
革命の挫折とその後の変化
1848〜1849年の「諸国民の春」は、最終的には多くの国で武力によって押さえ込まれ、「革命の挫折」として語られます。フランスでは、二月革命後に成立した第二共和政が、6月暴動の鎮圧や社会主義者への弾圧を経て保守化し、やがてナポレオンの甥ルイ=ナポレオン(のちのナポレオン3世)がクーデタを起こして第二帝政を樹立します。ドイツでは、フランクフルト国民議会がまとめた統一憲法案に対し、プロイセン王が皇帝位の受諾を拒否し、軍隊を動員して自由主義者たちを抑え込みました。
イタリアでは、サルデーニャ王国がオーストリアに敗北し、ローマ共和国などの試みもフランス軍やオーストリア軍によって鎮圧されました。オーストリア帝国では前述のように、ハンガリーやウィーンの革命が鎮圧され、皇帝権力が再び強化されます。このように見れば、「諸国民の春」は、短期的には保守勢力の勝利とウィーン体制の延命につながったように見えるかもしれません。
しかし、1848年革命の経験は、各国の政治と社会に目に見えない形で深く刻み込まれました。まず、多くの地域で封建的な義務や諸特権が廃止され、農民解放の流れが加速しました。たとえ革命そのものが鎮圧されても、土地制度や農民の身分に関する改革は取り消されず、その後の資本主義的な農業経営や市場経済の発展の基盤となりました。
また、自由主義的な憲法や議会の試みは、一度は押さえ込まれたものの、その後の政治改革運動の重要な参照点となりました。ドイツやイタリアでは、1848年の失敗を踏まえつつ、プロイセンやサルデーニャ王国など特定の王国が中心となって統一を進める方向へと戦略が変化していきます。プロイセンのビスマルクによるドイツ統一(1871年)や、サルデーニャ王国を軸としたイタリア王国の成立(1861年)は、その意味で「諸国民の春」の後章として位置づけられることがあります。
さらに、1848年には社会主義思想の発展ともつながりがありました。ちょうどこの年、マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』を発表し、資本主義社会の矛盾と階級闘争の展開を理論的に示しました。実際の1848年革命では、自由主義的市民と労働者・農民の利害が完全には一致せず、社会主義的な要求は十分に実現されませんでしたが、それでも都市労働者の存在感は増し、「労働者階級」という新しい政治主体が意識されるようになります。
このように、「諸国民の春」は短期的には挫折に終わったものの、封建的な身分秩序の解体、国民国家形成への伏線、社会主義・労働運動の胎動など、多くの長期的変化と結びついていました。1848年を境に、ヨーロッパ社会はゆっくりと、しかし確実に、新しい政治と社会のかたちへと向かっていくことになります。

