「羌(きょう)」は、中国古代の史料に広く現れる周辺諸族の呼称で、おおまかには中国西北部(甘粛・青海・四川北部など)を拠点に、牧畜と農耕を併せ営みながら移動・定住を繰り返した人々を指します。殷・周時代の甲骨文や金文に早くから登場し、漢代には涼州・隴右を中心にしばしば王朝と衝突・交渉を重ねました。さらに中世以降、吐蕃(チベット)勢力の台頭や党項(タングート)による西夏の建国など、同系の文化・言語圏が展開する文脈でも、羌は歴史用語として重要な位置を占めます。近現代では、中華人民共和国の民族分類において「羌族」として公式に認定された集団が四川省の山間部を中心に暮らし、チベット・ビルマ語派(シナ・チベット語族)に属する言語を話します。つまり「羌」は、古代の外部呼称、王朝と辺境の関係史、そして現代の民族名が重なり合う、多層的な概念なのです。以下では、名称と文字の由来、古代から中世にかけての歴史的展開、社会と文化の特徴、他の周辺諸族との関係、そして現代につながる受け継がれ方を丁寧に解説します。
名称・文字・地理――「羌」という呼称が示すもの
中国古典に現れる「羌」は、単一の民族=固定した集団名ではなく、広い意味で西北の牧畜・半農半牧の人々を総称する外部呼称として使われました。甲骨文にはすでに「羌」の字形が見られ、殷王朝の軍事・祭祀活動の対象として登場します。文字の構形は、古い字形で「羊」と「人」に関わる要素を組み合わせたとされ、遊牧・牧畜にたずさわる人々というイメージを帯びています。ただし、文字の形から民族の本質を直接推定することはできず、あくまで王朝側の認知枠組みを反映した記号である点に注意が必要です。
地理的には、「羌」と呼ばれた人々は、オルドス以西から河西回廊、祁連・隴山の山地、さらには青海高原や岷山・岷江上流域(今日の四川北西部)にかけて分布しました。環境は厳しく、標高差に富み、牧草地と台地農耕地が入り混じるため、季節移動(垂直移動)をともなう生活が一般的でした。家畜は羊・山羊・牛・馬などが中心で、雑穀栽培や狩猟と組み合わせて生計を立てました。これらの環境条件は、政治的にも「機動性」と「分散性」をもつ社会組織を育て、王朝側から見ると統御が難しい対象として映りました。
史料に現れる名称は時期と地域で揺れます。春秋・戦国から前漢・後漢にかけては「羌」「西羌」「先零羌」「氐羌」などの下位分類が現れ、同じ「羌」でも部族連合の構成や首長名によって具体的な内訳が変動しました。漢字史料は多様な集団をひとまとめに記す傾向が強いため、特定の「民族」を固定的にイメージするより、流動的なローカル集団の総称と捉えるのが適切です。
古代から中世へ――王朝と羌の相互作用の歴史
殷・周期:甲骨文では、羌は討伐や捕虜、貢納といった文脈で語られ、王権の祭祀や軍事活動と関わりました。周代の金文・伝世記録では、羌が西方の勢力として周辺に位置づけられ、交易・婚姻・軍事同盟など多様な関係が見られます。王朝の境界は固定的ではなく、羌との関係は、敵対と協調が季節や情勢で入れ替わる可変的なものでした。
秦・漢期:秦は西方の地理と諸族に通じ、辺境統治の経験を蓄えました。漢帝国は張騫の西域開拓と対匈奴政策の一環で河西回廊を重視し、羌との関係管理に力を注ぎます。前漢後半から後漢にかけ、涼州・隴右では羌諸部の移動と反乱が相次ぎ、漢側は羌の部族長を郡県の官職に組み込む懐柔策と、屯田・堡塁による軍事抑え込みを併用しました。長期の緊張は後漢末期に大規模化し、辺境経済と交通に深刻な打撃を与えます。こうした「羌乱」は、単なる民族対立というより、課税と労役、交易の利害、在地豪族と郡県の権限争いなどが絡み合った社会政治的現象でした。
魏晋南北朝・五胡十六国期:後漢の崩壊後、北中国では匈奴・鮮卑・羯・氐・羌など、さまざまな集団が王朝建設や政権支援に関与します。羌や羌系とされる人々は、関中・隴右・河西の要衝で軍事力と地縁を背景に勢力を築き、漢人の豪族や他の周辺諸族と同盟・抗争を繰り返しました。都市・農地・牧地が細かく混在する地帯では、遊牧と農耕の境界が流動的で、羌の武装集団は傭兵・辺防の役割を担う一方、収奪と自衛が表裏一体となった生活を送ります。五胡十六国期の複雑な政権地図は、羌・氐・鮮卑などの「部族国家」が、漢地の統治技術と辺境の軍事力を折衷した実験場でもありました。
隋唐以降:吐蕃(チベット)帝国の伸長は、西北の民族地図を塗り替えました。唐は河西・青海の羌諸部を都護府・羈縻府州の枠内に編入して連携を図りますが、吐蕃との争奪戦の中で離合集散が続きます。やがて、唐末から宋代にかけて、党項(タングート)と呼ばれる集団がオルドス・寧夏・甘粛一帯で勢力を拡大し、11世紀初頭には西夏を建国します。党項は文化・言語の面で羌系との連続性を指摘され、牧畜・軍事・交易の三位一体の国家を築きました。この系譜は、古代の「羌」概念が中世の地域国家形成へとつながっていく一例と言えます。
社会・文化・言語――半農半牧の生業と宗教観、言語の系統
生業:史料や民族誌的知見が示す羌の生活は、羊・山羊・牛・馬などの牧畜を中心に、雑穀・豆類・麦の栽培、狩猟・採集を組み合わせた柔軟な経済でした。標高差の大きい山地では、季節ごとに牧草地を移動する「垂直移牧」が一般的で、家族単位のテント・石造小屋と、地域の祭祀・市(いち)を結ぶリズムが社会を回しました。牧畜は財産であると同時に婚姻・同盟の媒介であり、家畜の交換や贈与が社会関係を維持する重要な手続きでした。
社会組織:羌の社会は氏族・部族・連合の多層構造をもち、首長・長老会・戦士団・祭司などの役割が分化していました。王朝との交渉は、これらの首長層を通じて行われ、賜与・官職授与・人質交換(質子)・市場開設といった「恩給と統合」の技法が用いられました。他方、在地の自律性は強く、中央の命令が必ずしも末端まで届くとは限りません。境界社会特有の「多言語・多規範」状況のもとで、人々は時に遊牧民、時に農民、時に商人としてふるまいました。
宗教・儀礼:古い記録には、山・水・石など自然物への崇拝、祖霊祭祀、シャーマン的な媒介者の存在が記されています。羊や牛が供犠に用いられ、年周期の祭りが共同体の結束を確認しました。後世の羌族社会では「白色」の象徴性や、石塔・碉楼(石造の塔状建築)といった固有の景観が注目されます。これらは安全保障(見張り・防御)と宗教的象徴が重なる機能を持ち、山岳社会の工夫を示します。
言語:現代の羌族が話す言語群は、シナ・チベット語族のうちチベット・ビルマ語派に属し、しばしば「羌語群」と総称されます。内部には多様な方言・言語があり、隣接するチベット語や嘉絨(ギャロン)語、彝語(イ語)などとの影響関係が指摘されます。古代の「羌」と現代の「羌族」を完全に一続きの同質集団とみなすことはできませんが、地理・生業・言語の面で連続性をうかがわせる点は少なくありません。つまり、「羌」は王朝側の総称でありつつ、長期の時間スケールでは高地・山地の文化圏としての実体を持っていた、と整理できます。
統治・境界・イメージ――王朝史料に映る「羌」を批判的に読む
王朝の対辺境政策:漢から唐に至るまで、中央政府は羌を「安撫」(安定化)と「利用」(軍事・交易)、「抑圧」(討伐)の三つの手で扱いました。羌の部族長に印綬や官職を授け、羈縻体制で自治を認める一方、反抗すれば軍事行動や移住強制に踏み切ります。交易市場(互市)や塩・馬の取引は、双方に利益をもたらしつつ、しばしば緊張の火種にもなりました。境界の政治は、敵対/同盟の単純な二分ではなく、季節や人の入れ替わりによって絶えず再構成される関係網でした。
史料における偏り:漢文史料は王朝の視点で書かれているため、羌が秩序を乱す存在として描かれがちです。反乱の原因は「野蛮性」ではなく、租税・労役・交易規制・地元豪族との対立など具体的な利害に根ざしていました。また、同じ「羌」と呼ばれていても、部族ごとに統治経験や王朝との距離は大きく異なり、一括りの「性格」を与えることはできません。現代の歴史叙述では、考古学・民族誌・言語学を総合して、王朝史料の語りを相対化する作業が進んでいます。
他の周辺諸族との関係:匈奴・鮮卑・氐・羯・吐蕃・党項など、北西ユーラシアの諸勢力は、交易路・放牧地・軍事同盟を介して絶えず接触しました。羌はこの網の中で、時に仲介者、時に緩衝地帯の住民として機能しました。五胡十六国期の政権モザイクは、その相互浸透の極端な形であり、血統よりも地縁・武力・政略の方が政治的実体を左右したことを示しています。
近現代の「羌族」と文化遺産――災害と再生、継承のかたち
近現代の民族分類では、四川省アバ・チベット族チャン族自治州や茂県・理県・汶川県などに居住する人々が「羌族」と分類されています。石造の碉楼や白い石積みの祭壇、刺繍や銀飾、対偶的・応答的な歌の伝統、羊皮鼓の舞など、独自の物質文化・芸能文化が知られます。家屋や集落の構えは山岳の地形と災害リスクに適応したもので、見張り・避難・保管の機能を兼ねた建築が発達しました。2008年の大地震では大きな被害を受けましたが、伝統知識と新技術を組み合わせた復興が試みられ、祭祀・歳時・工芸の継承が地域社会の再生の柱となりました。
言語と教育の面では、学校教育の公用語との二言語状況が一般化しつつも、口承叙事詩や祭祀言語の保存が課題です。録音・記録・辞書編纂・文字化の取り組みは、地域アイデンティティの再確認と直結しており、外部からの文化観光の視線との折り合いをつけながら進められています。近代国家の枠組みの中で「少数民族」として位置づけられることで、資源配分・教育・表象の政治学が新たに生じている点も、過去の「羌」との連続/非連続を考える上で重要です。
総じて、「羌」は王朝の周縁に貼られたラベルでありながら、山と草原が育てた生活技術・社会関係・言語文化の束を指し示す有効な歴史語でもあります。殷周の甲骨から、漢唐の辺境統治、吐蕃・党項の地域国家、そして今日の羌族社会に至るまで、この語は形を変えつつも人びとの記憶と制度の中で生き続けてきました。古代の呼称を現代の民族名へ安易に直結させず、同時に長期の連続性にも目を向ける――この二つの姿勢が、「羌」という用語を確かな手触りで理解するための鍵になります。

