北匈奴(ほくきょうど)は、前漢末から後漢にかけてモンゴル高原北・中央部を中心に勢力を維持した匈奴の一派を指す呼称です。前2世紀後半以降、漢の討伐と内部抗争によって匈奴は勢力の再編を迫られ、紀元前後には、漢との和親・朝貢関係を受け入れて塞内に移住した南匈奴と、高原に拠って独立を保とうとした北匈奴に大きく分裂しました。北匈奴は草原の遊牧勢力として広い機動性を持ち、烏孫・康居・月氏など西域諸国や鮮卑・丁零など北方諸族と複合的な関係を結びましたが、後漢・鮮卑の圧迫、内部の継承争い、交易路の掌握をめぐる競合によって次第に勢力を喪失し、2世紀後半には天山以西へ後退、やがて中央アジアへと西遷して歴史の表舞台から退きます。中国史・中央ユーラシア史における「北匈奴」は、遊牧帝国の分裂と移動、オアシス世界との結びつき、そして後代にまで及ぶ民族名称の記憶が交錯する重要なトピックです。本項では、成立と構造、漢・鮮卑との抗争、西遷と後継勢力、文化的遺産という観点から整理して解説します。
成立の背景と勢力の骨格
匈奴は、前3~前2世紀に冒頓単于の下でモンゴル高原・オルドス・河西回廊周辺にまたがる大規模な連合体を形成しました。前漢の武帝期(前141–前87)に衛青・霍去病らの遠征を受けて勢力は後退し、以後は和親と戦争を繰り返しながら、高原の牧地と西域諸国の朝貢・交易に依存する複合経済を維持しました。前漢末の王莽の動乱、および新末後漢初の混乱は、匈奴にとって再編の機会でもありましたが、同時に単于位の継承・宗族間の対立を激化させ、漢との関係をめぐって方針の相違が表面化しました。
この結果、紀元1世紀初頭に、漢との接近を選び塞内(長城内側)に移住して庇護を受けた勢力が「南匈奴」と呼ばれ、反対に草原の本拠を維持して独立を保とうとした勢力が「北匈奴」と呼ばれるようになりました。北匈奴はモンゴル高原北部からアルタイ・バイカル方面にかけての広域を遊牧の基盤とし、東西の草原回廊と天山北路にアクセスし得る地理的優位を持っていました。政治構造は、単于を頂点とする宗族連合で、左・右の賢王(左賢王・右賢王)や各部落の王侯(骨都侯・日逐王など)が軍事・狩猟・祭祀を担い、季節移動に応じて連合軍を編成できる柔軟性を備えていました。
北匈奴の経済は、馬・羊・牛を中心とする牧畜が基盤で、冬営地と夏営地を結ぶ移動牧畜のリズムに従って資源を管理しました。金属器・織物・塩・穀物などは交易で補い、西域のオアシス都市や烏孫・康居などの遊牧・半遊牧勢力と物々交換・朝貢を通じて調達しました。中国の絹や鉄器は重要な外来品で、漢との和平・戦争はしばしば交易条件の交渉でもありました。
後漢・鮮卑との抗争:1~2世紀の軍事・外交
後漢成立後、光武帝は対北匈奴で直接衝突を避けつつ、南匈奴を懐柔・編入して防波堤とする戦略を採りました。建武年間、北匈奴は度々西域諸国に圧力をかけ、漢の保護下にあるオアシス政策を揺さぶりました。これに対し、後漢は班超・班勇らを西域都護として派遣し、疏勒・于闐・亀茲などを再統合しつつ、北匈奴の影響力を削ぐ策を取りました。西域経営は、単なる軍事ではなく、使節派遣・人質交換・王の交替承認など外交的手段を併用する「多層の関与」でした。
決定的な転機は、和帝・安帝期に訪れます。永初元年(107)頃にかけて、北匈奴は鮮卑や丁零の台頭、内部の継承争い、気候変動による牧草地の不安定化など複合的な圧力に直面しました。永元16年(104)には北匈奴が漢辺境を侵擾し、漢は防衛を強化します。永初年間(107–110)には度重なる交戦が続き、やがて北匈奴は西方へ後退を余儀なくされました。
名高いのは、永元5年(93)の竇憲(とうけん)・耿秉(こうへい)らによる北匈奴討伐です。竇憲は雲中・朔方方面から北上し、鮮卑の酋長らと同盟して高車・烏桓なども動員、稽落山(キルガン山とも比定)付近まで追撃して北匈奴単于の本営を撃破しました。この遠征は、後漢が鮮卑など北方諸族との戦略的協力を通じて北匈奴の中枢を直接叩いた点で画期的でした。敗北後、北匈奴は西走し、天山北路沿いのオアシス地帯へ拠点を移しつつ再起を図りましたが、勢いを回復することはできませんでした。
鮮卑の勃興も北匈奴の衰退に拍車をかけました。鮮卑は同じ東胡系の烏桓を統合し、柔軟な部族連合と機動戦術で高原東部の覇権を握ります。彼らは後漢と交易・軍事で協力し、北匈奴の遊牧圏を東から圧縮しました。鮮卑の騎射・分進合撃・山地機動は、北匈奴の戦術に対して優越を示す局面も多く、北匈奴は草原の主導権を恒常的に失っていきます。
西遷と後継:中央アジアへの移動と名称の残響
2世紀前半以降、北匈奴は天山以北・以西へと段階的に後退し、イリ川・ゼラフシャン流域やセミレチエ、さらにはさらに西方のサルマタイ・アランの領域に接近したと考えられます。オアシス世界では、康居・奄蔡・大月氏(クシャーナ朝)などとの間で、通行・貢納・雇傭兵の供給といった関係を結び、遊牧連合の一構成として再編されていきました。中国側史料には、以後「北匈奴」の名称が希薄化し、代わって「匈奴の余部」「休薛(キュセ)」「呼衍」「鉄勒(テュルク系)」「丁零(テレ系)」などの諸名が登場し、民族連合の流動化を示唆します。
学界では、北匈奴の西遷と、のちにヨーロッパに出現する「フン族(Huns)」との関連が長く議論されてきました。音韻対応や移動の時間幅、考古学的文化(遷移期の墓葬様式・副葬品)を手掛かりに、ある程度の連続性を想定する説と、同名的収斂・政治的ブランドの共通化に過ぎないとする懐疑的見解が併存します。確定的な系譜を描くのは難しいものの、匈奴という名が中央ユーラシアの諸言語で広く「北方の騎馬戦士集団」を指すラベルとして流通した事実は重く、北匈奴の西遷がステップの勢力地図に波紋を広げたことは間違いありません。
一方、中国本土では、南匈奴が漢の内地に編入されて諸郡に分置され、のちの八王の乱・五胡十六国期における劉淵(漢〈前趙〉)や劉曜らの匈奴系政権の担い手となります。これは北匈奴の物語とは枝分かれしつつも、匈奴という名の政治的・軍事的資本が、異なる方向へと展開していった例です。南北の分岐は、遊牧帝国が分裂後に複数の帰結を取り得ることを示しています。
社会・文化と遺産:遊牧の統合技術とオアシス世界への影響
北匈奴の社会構造は、宗族・盟友関係・人質交換によって維持される「多核連合」でした。単于家は天の加護を表す祭祀と軍略の双方を掌握し、左・右の賢王を中心に軍事権を分配しました。各部は、冬夏の移動路を持ち、馬・羊・牛の群れの規模と牧地の質に応じて勢力が変動します。重要な婚姻は、政治連合の再編と同義で、漢・西域・鮮卑との婚姻も外交カードとして用いられました。懐柔・威圧・贈与・略奪が交互に現れる外向きの振る舞いは、遊牧国家の常であり、北匈奴も例外ではありませんでした。
物質文化の面では、弓騎兵の武装(複合弓・三翼矢・鱗甲)、馬具(鐙前夜の鞍・轡)、金銀の装身具、フェルト・皮革製品、移動式住居(ゲル系)などが考古学資料から知られます。墓葬は浅い土坑墓や木槨墓が一般的で、一部に副葬馬や金属器が見られます。匈奴期の遺物は後代の鮮卑・柔然・突厥文化に影響を与え、馬具や金属装飾の文様に系譜を残しました。オアシス世界との交易は、金属加工・紡織品・ガラス・宝石の流通を促し、草原とオアシスの文化的混合を加速させました。
北匈奴の政治技術として注目されるのは、連合の求心力を保つための「贈与と再分配」の仕組みです。戦利品・朝貢品・交易によって得られた財は、単于から諸部へと分配され、忠誠と軍事動員の対価となりました。これは、中央集権的な課税システムが整わない遊牧社会における統治の基本で、贈与を途絶えさせた政権は崩壊の危機に直面します。北匈奴の衰退は、外圧だけでなく、この再分配を支える交易路(シルクロード北道)の掌握に失敗し、財源が痩せたこととも関わっていました。
総括すると、北匈奴は、匈奴連合の「高原に残った核」として、1~2世紀の東アジア・中央ユーラシアに大きな影響を与えた勢力でした。後漢・鮮卑とのせめぎ合いは、辺境防衛・同盟戦略・西域経営という複合的課題を同期させる契機となり、北匈奴の西遷はステップの勢力地図を塗り替え、のちの中央アジアと欧州の遊牧政治にも影を落としました。「北匈奴」という名称は中国側史料に依拠する区分ですが、その背後にあるのは、遊牧帝国が地理・交易・婚姻・戦争の相互作用の中で伸縮するダイナミクスそのものです。彼らの歴史は、国家形成の多様性と、ユーラシアの広域秩序がどのように結び直されるのかを理解する手がかりを、今なお豊かに提供してくれます。

