七月王政 – 世界史用語集

七月王政(しちがつおうせい、Monarchie de Juillet)は、1830年の七月革命を受けてフランスに成立し、1848年二月革命で崩壊するまで続いた立憲君主制の体制を指します。国王に即位したルイ=フィリップは「フランス人の王(roi des Français)」を称し、復古王政の王権神授説から距離を取りつつ、制限選挙と議会主義を土台に「中庸(ジュスト・ミリュー)」を掲げました。鉄道・炭鉱・金属工業・金融の発展で都市ブルジョワジーが台頭し、同時に労働者・職人の不満が高まった時代でもあります。対外的にはベルギー独立を支持し、アルジェリア征服を本格化させましたが、東方問題(1840年)やスペイン王位継承婚姻(1846年)で英仏関係が悪化し、孤立も経験しました。政治はギゾー派とティエール派を軸とする議院内閣制的運営が進みましたが、有権者が総人口の1%未満という狭いセンサス選挙、汚職醜聞、言論規制(1835年九月法)などが蓄積し、穀物不作と景気後退(1846–47)の打撃のもと、1848年の宴会運動から二月革命へと連鎖して退場しました。すなわち七月王政は、近代的議会政治と産業化の進展を先導しつつ、その社会的包摂に失敗した「ブルジョワ君主制」の典型として位置づけられます。

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成立の経緯と基本理念――七月革命から「フランス人の王」へ

1830年7月、シャルル10世が発した七月勅令(検閲の強化、議会解散、選挙法改定など)に反対してパリで蜂起が起こり、「栄光の三日間(27–29日)」の市街戦で王政が動揺しました。急進共和派と穏健立憲派がせめぎ合うなか、ラファイエットやティエールら穏健派は、王政の枠を保ちながら国民主権的正統性を取り入れる解として、オルレアン家のルイ=フィリップを推し立てます。彼は革命の象徴である三色旗を復活させ、「フランス人の王」として即位しました。これは「王は国家の所有者ではなく、国民の代表として統治する」という理念的転回を示すもので、王権神授説に立つブルボン本流(正統王党=レジティミスト)との決別を意味しました。

新体制は憲章(1814年憲章の改正)を土台に、議会(代議院・貴族院)の権限を拡大し、言論・出版・宗教の自由を再確認しました。ただし、選挙は高額納税者のみが資格を持つセンサス制で、有権者は19世紀半ばを通じて20~24万人程度(総人口約3,000万人)にすぎませんでした。国家は「中産階級の政体」として運営され、王は〈中庸(juste milieu)〉を掲げて左の共和派と右の正統王党の双方を抑制する舵取りを標榜しました。

統治の実像――議院政治、主要勢力、法制度と治安

七月王政の政治運営は、議会多数派を背景にした首相(閣僚評議会議長)が主導し、王の任免権と均衡を取り合う「未成熟な議院内閣制」でした。中心人物は二人です。アドルフ・ティエールは、外向的で進取の政策を唱える政治家・歴史家で、対外強硬やフランスの威信回復を志向しました。他方、フランソワ・ギゾーは教育家・歴史家出身で、秩序と財産の保護、倹約財政、選挙体制の維持を重視し、強いブルジョワ自由主義を体現しました。「豊かになりなさい(Enrichissez-vous)」という彼の言葉は、財産資格を政治参加の前提とする体制の価値観を象徴します。

制度面では、1831年の全国自衛組織ナショナル・ガード再編、同年および1837年の市町村法(地方自治体の選出機関整備)、1833年のギゾー教育法(各コミューンに初等学校設置を義務づけ、師範学校を整備)が画期でした。治安面では、1831年と1834年にリヨンで絹織工(カニュ)が蜂起し、賃金と労働条件をめぐる近代的労働闘争が本格化します。政府は軍を投入して鎮圧し、社会問題の政治化が進みました。

言論と政治闘争は激しく、風刺画家ドーミエは国王や議員を風刺して人気を博しますが、1835年のフィエスキによる国王暗殺未遂を契機に「九月法」が制定され、挿絵・図像による政治的表現に厳しい規制が加えられました。選挙は買収や行政の関与が横行し、1847年にはテステ=キュビエール事件など汚職が世論を沸騰させ、体制の頽廃イメージを強めます。

議会内の勢力は、オルレアン派の中でもティエール系の「動的左派」とギゾー系の「抵抗右派」、さらに少数の共和派、正統王党(王位継承をブルボン本流に戻すべきとする)、ボナパルティスト(ナポレオン的権威への期待)などが混在しました。普選・社会立法を求める急進共和派や社会主義者(サン=シモン派、フーリエ派、ルイ・ブランら)は、議会外のクラブ・新聞・相互扶助を通じて影響力を拡大しました。

産業化と社会・文化――鉄道・金融の躍進、教育改革、ロマン主義

経済面では、七月王政期に鉄道網の建設が本格化しました。1837年のパリ—サン=ジェルマン、1839年のパリ—ヴェルサイユ(右岸・左岸の二線)、1843年以降の地方幹線整備などにより、1848年までに約3,000kmの路線が開通します。石炭・鉄鋼・機械産業の集積が進み、サンテティエンヌ、ルールロラン、ロレーヌなどが工業地帯として成長しました。取引所と銀行(ロスチャイルド家など)が資本動員を担い、株式市場が拡大します。農業は依然として大多数の就業を占めましたが、地代と農産物価格の変動に脆弱で、1846年以降の不作は都市の失業とともに政情不安を増幅させました。

労働政策では、1841年に児童労働制限法(8歳未満就業禁止、工場での就業時間制限)が成立し、社会問題への「最初の一歩」が記されます。公教育はギゾー法で量的拡大が進み、読み書きの普及と地方の師範学校整備が進展しましたが、教育内容の政治的中立や宗教との関係はしばしば論争を呼びました。

文化面では、ロマン主義が燦然と開花します。1830年のユゴーの戯曲『エルナニ』をめぐる「エルナニ合戦」は古典主義との決別を象徴しました。ドラクロワは『民衆を導く自由の女神』(1830)で七月革命の精神を描き、1831年には『アルジェの女たち』でオリエンタリズムを示しました。文学ではバルザックが『人間喜劇』でブルジョワ社会の実相を、スタンダールやメリメが現実と情熱の葛藤を描き、新聞・雑誌市場の拡大が読書文化を支えました。王政はヴェルサイユ宮殿を「フランスの栄光の博物館」として改装し、王朝を超えた国民史の展示空間を整備しましたが、この文化政策もまた「国民的正統性」の獲得努力の一環でした。

外交・帝国・崩壊――ベルギー独立、アルジェリア征服、1848年への坂道

対外政策で早期に成功したのはベルギー独立問題でした。1830年に起きたベルギー革命にフランスは同情的に介入し、オランダとの緊張を管理しつつ列強協調(ロンドン会議)を通じて1831年のレオポルド即位、1839年ロンドン条約での独立承認に至る枠組みを支えました。これは七月王政の国際的承認を高める成果でした。

一方で、アルジェリアでは1830年の支配開始を引き継ぎ、1840年代にブジョー総督の下で征服が本格化します。焼畑・焦土・洞窟封鎖など苛烈な鎮圧を伴い、アブド・アル=カーディルの抵抗を屈服させて、植民地化が進みました。これは国内の栄光と市場拡大をもたらす一方、軍事費負担と道義的批判を招きました。

1840年の東方問題(エジプト総督ムハンマド・アリーの処遇)では、英国・オーストリア・プロイセン・ロシアがロンドン条約で連携し、フランスはこれに参加できず国際的孤立に陥りました。ティエールは強硬策を唱えましたが退陣し、ギゾーが慎重外交で事態収拾を図ります。1846年のスペイン王位継承をめぐる「スペイン婚姻問題」では、フランス皇女の縁組を巡って英仏関係が悪化し、国際的信用を損ないました。

体制崩壊の直接要因は、1846–47年の凶作と信用収縮による景気後退でした。失業と物価高が広がるなか、ギゾー政権は選挙法改正(選挙資格の緩和)要求を拒み続け、野党は「宴会運動(banquets)」と呼ばれる政治集会で選挙改革と政府非難を組織しました。1848年2月22日、パリで予定された宴会の禁止を契機にデモが拡大、国民軍の一部が民衆に同調してバリケードが林立します。22–24日の三日間で市街戦が再燃し、ルイ=フィリップは退位・出国(イギリスへ亡命)し、孫のパリ公への譲位も受け入れられず、臨時政府が第二共和政を宣言しました。

二月革命は普選(成年男子)実施、労働権を掲げた国立作業場の設置へと進み、フランス政治を普遍男性参政の時代へ押し出します。七月王政は、議会主義と経済近代化を進めながらも、政治参加の拡大と社会問題への対応を先送りしたがゆえに、危機の衝撃を吸収できず崩れた体制でした。その経験は、以後の第二共和政・第二帝政・第三共和政の設計に深く影を落とし、普遍選挙と政党政治の組み合わせがフランス政治の長期課題であることを明らかにしました。