七月革命(しちがつかくめい、Révolution de Juillet)は、1830年7月27日から29日にかけてパリで発生した蜂起と政変の総称で、ブルボン朝のシャルル10世を退位させ、オルレアン家のルイ=フィリップを「フランス人の王」とする立憲君主制へ体制転換をもたらした出来事です。直接の引き金は、検閲強化と議会解散、選挙法改悪を定めた「七月勅令」でしたが、背景には復古王政が進めた王権神授的な反動、宗教勢力の復権、そして産業化と都市化の進展に見合わない政治参加の狭さがありました。三色旗を掲げた市民・職人・学生・印刷労働者・新聞人らが街路を占拠し、国民軍(国民衛兵)や議会の一部勢力がこれに呼応して政権が交代しました。以後1848年まで続く「七月王政」の出発点となり、同年のベルギー独立革命やポーランド蜂起など欧州各地の運動にも波及しました。要するに七月革命は、旧体制の王権中心主義から、議会・憲章・ブルジョワ市民を軸にした統治へ舵を切った、19世紀前半フランスの大転換だったのです。
背景――復古王政の反動、宗教・王権・有権者の三重の緊張
1814年の王政復古で即位したルイ18世は、憲章(シャルトル)を認め、ナポレオン期の民法や財産秩序を概ね維持しました。しかし1824年に即位した弟のシャルル10世は、正統王党(レジティミスト)を後ろ盾に、王権の尊厳とカトリックの特権回復を志向しました。聖職者への賠償や教会の影響拡大は、革命後の世俗的秩序に順応した市民層の反感を買います。さらに政府は、選挙制度を高額納税者に厳しく限定し続け、工業化と都市化で増える中産階級・職人・労働者の政治的表現の場は狭いままでした。新聞・出版社は拡大し、政治クラブとサロン、学校ネットワークが意見形成の舞台となりますが、政府は検閲と起訴で抑え込もうとし、言論の緊張が高まっていました。
1827年以降、ウルトラ王党の強硬策は議会多数の支持を失い、穏健な反対派(コンスティテューショネル、独立派)とジャーナリズムが連携を深めます。ジャック・ラフィットら銀行家層や産業資本家は、通商と信用の安定を望み、政治の自由化を好みました。こうした中で1830年春の選挙では反政府派が伸長し、国王周辺は議会運営に行き詰まります。ここで宰相ポリニャックの下、国王は勅令で事態を打開しようと賭けに出ました。
引き金――「七月勅令」と新聞の抵抗
1830年7月25日、官報は四つの勅令を公表しました。(1)出版の自由の停止と事前検閲の大幅強化、(2)下院の解散、(3)新選挙の告示、(4)選挙法の改定(選挙資格の厳格化)です。これは憲章が保障した自由の否定と受け止められ、新聞各紙は即座に抗議の連盟を組み、26日には編集者・印刷人・弁護士らが抗議会合を開きました。政府は直ちに押収・閉鎖に動きましたが、印刷工や販売人は地下印刷・街頭配布を敢行し、市中の憤激は一気に臨界へ達します。
新聞は七月革命の現場で「司令塔」となりました。『ナショナル』『グローブ』『コンスティテューショネル』などが、勅令の違憲を論じ、蜂起の正当性を主張します。政治的言語は、王権神授から「国民主権」へと軸足を移し、フランス革命の記憶が呼び起こされました。パリの街では、看板や石畳が剥がされ、バリケードが短時間で構築されます。
「栄光の三日間」――7月27〜29日の市街戦と政権崩壊
7月27日、警察と市民の衝突が発火点となり、軍隊は印刷所・新聞社の破壊を進めますが、学生・職人・労働者が合流して各所でバリケードが築かれました。街灯が打ち倒され、石畳が剥がされ、銃砲店が襲われて武器が手に渡ります。28日にはルーヴルとチュイルリーを守る王兵に対し、蜂起側は分散攻撃で圧力をかけ、国民衛兵の一部が再編されて蜂起側に参加しました。29日、ホテル・ド・ヴィル(市庁舎)と王宮に対する決定的攻撃が行われ、三色旗が市庁舎に掲げられます。ドラクロワがのちに『民衆を導く自由の女神』で描いたのは、この瞬間の精神でした。
戦闘は激烈でしたが短期決戦でした。死者は数百から千余とも推定され、若年層と職人・印刷労働者の比率が高かったとされます。王軍は士気を欠き、指揮命令は混乱し、政権中枢は有効な妥協策を打ち出せませんでした。ラファイエットは国民衛兵の総司令として市庁舎に戻り、革命の「正統性」の演出に一役買います。
政体選択――共和政か立憲王政か、オルレアン家の登場
蜂起成功後、パリ政治は二つの選択肢をめぐって急展開しました。急進共和派は共和国樹立を主張しましたが、銀行家ラフィットやジャーナリストのティエール、軍人ラファイエットら穏健派は、列強の反発を避け、内戦を防ぐ現実的解として「立憲王政の衣替え」を選びます。ブルボン本流ではなく、革命期に三色旗を掲げた経歴をもつオルレアン家のルイ=フィリップを推戴し、彼は8月「フランス人の王(roi des Français)」として即位しました。
新体制は1814年憲章を改訂し、(1)王の立法権限の縮小、(2)議会の権限強化、(3)検閲の撤廃(ただし後に再規制)、(4)カトリックの特権緩和、(5)三色旗の正式復活、などを打ち出しました。王位の正統性は「国民の同意」に基礎づけられ、王権神授の理念とは線が引かれます。これが「七月王政」の出発点でした。
社会の担い手――職人・学生・ブルジョワ、市民軍の役割
七月革命の群衆の中心は、印刷・家具・織物・金属などの都市職人、徒弟、学生、店員たちでした。彼らは柔軟なネットワークで結びつき、街区単位でバリケードを築き、近隣の協力で弾薬と食料を調達しました。印刷工や新聞売りは情報・煽動の中核を担い、急速な動員が可能でした。他方で、国民衛兵の中産階級や議会の反対派が加わらなければ、王政の転覆には届かなかったと考えられます。すなわち、革命は「街路の力」と「議会・経済エリートの選好」の接合で成立したのです。
この構図は、その後の不満の種にもなりました。蜂起の主力であった職人・労働者は、政治制度の設計(制限選挙の継続)から疎外され、早くも1831年・1834年のリヨン絹織工(カニュ)の蜂起につながる労働不満が噴出します。七月革命は社会の広がりを示しつつ、参政と社会権の課題を残しました。
文化とイメージ――三色旗、記念碑、絵画・文学の反響
七月革命は視覚文化の爆発を伴いました。三色旗の復活は、革命と国民統合の両義的象徴として都市空間を覆い、パリでは記念碑の再配置や街路名の変更が行われました。ヴァンドーム広場の像やパリ市庁舎の装飾が改められ、ヴェルサイユ宮殿はやがて「フランスの栄光の博物館」へと再編されます。
絵画では、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』が七月革命の精神図像となり、ロマン主義文学はユゴー、ラマルティーヌ、ミュッセらが自由・情熱・個人を讃えました。新聞・雑誌の市場拡大は世論形成の新段階をもたらし、風刺画家ドーミエは王や議員、ブルジョワの矛盾を痛烈に描き、政治的ユーモアが庶民の教養となりました。
国際的波及――ベルギー、ポーランド、イタリア・ドイツの動揺
1830年の波は国境を越えました。ベルギーでは8月のブリュッセル蜂起を発端に独立戦争が始まり、七月王政フランスは慎重に支持しつつ列強協調の場で解決を図り、1839年ロンドン条約で独立が承認されます。ポーランドではロシア支配への蜂起(十一月蜂起)が起き、フランスには亡命者が多数流入しました。イタリア諸邦やドイツ諸邦でも自由主義・立憲運動が刺激され、検閲と秘密結社の攻防が続きます。七月革命は、1815年体制(ウィーン体制)の下に抑圧されていた自由主義・民族運動に「可能性の窓」を開いた出来事でした。
七月王政への接続――憲章改訂、議会主義、そして再規制
新政権は1830年憲章改訂で検閲を撤廃しましたが、政治的暴力と陰謀(1832年のデュシェーヌの陰謀など)を契機に治安立法が強まり、1835年の「九月法」は挿絵・図像による元首冒涜などを厳罰に処す規定を導入しました。政治的自由は拡大と制限を繰り返します。
議会政治では、ティエールら「動的左派」とギゾーら「抵抗右派」が主導権を争い、王は〈中庸〉の名の下に均衡を図りました。鉄道・鉱工業・金融の発展は都市ブルジョワの力を増し、公教育(1833年ギゾー法)や地方自治の枠組みが整いますが、選挙資格は依然として高額納税に結びつき、政治参加の裾野は広がりませんでした。七月革命の「自由」は、ブルジョワ中心の政治秩序へ制度化され、労働者・農民の期待とのギャップが拡大していきます。
七月革命の論点――偶発か必然か、街路と議会の力学、象徴と制度
七月革命の解釈では、いくつかの論点が繰り返し議論されてきました。第一に、偶発性と必然性の問題です。直接原因は七月勅令という拙速な政治判断でしたが、その背後には復古王政の反動、産業化、市民社会の成熟という深層があり、体制変更はいずれ不可避だったと見る立場があります。第二に、街路と議会・経済エリートの力学です。蜂起の「民衆の革命」は、最終的に穏健ブルジョワの選択により立憲王政へと翻訳されました。第三に、象徴と制度の関係です。三色旗・自由の女神といった強力な象徴が生まれる一方で、制度面では制限選挙が温存され、政治的包摂の拡張は先送りされました。
また、軍の役割も重要です。正規軍の一部は王に忠誠を保ちましたが、国民衛兵や一部部隊は市民に同調し、政府の指揮は混乱しました。以後のフランス政治において、軍の政治的中立と治安の役割は常に課題となります。
余波と長期的影響――1848年への道筋、政治文化の定着
七月革命の余波は、1848年二月革命への道筋を作りました。言論と結社の文化、議会と新聞の相互作用、街路の動員技法(バリケード、即席の治安組織)、国民衛兵の再活用、といった政治文化が定着し、経済循環の悪化(1846–47の不作・失業)と選挙改革要求の高まりが重なると、宴会運動を経て再度の体制転換が実現します。七月革命は「市民的自由」と「政治的包摂」の課題を並置したまま、新たな時代の基調を作ったと言えます。
国際秩序の面では、ウィーン体制が柔軟に調整されうること、列強協調の枠内でナショナルな要求が部分的に実現しうることを示しました。亡命と思想の越境も加速し、パリは自由主義者・社会主義者・民族運動家のハブ都市となりました。出版、金融、鉄道、絵画・文学の市場は一段と拡大し、都市生活のダイナミズムが政治を動かす力量を持つようになります。
まとめ――王権神授から「国民の同意」へ、象徴と制度の転換点
七月革命は、憲章を踏みにじる勅令に対し、都市市民と職人・学生が三色旗の下に立ち上がり、議会勢力と合流して体制を転換した事件でした。王権神授から「国民の同意」に正統性の基礎が移り、三色旗・新聞・バリケードという新しい政治言語が社会に根づきました。他方、選挙資格の狭さや社会問題の先送りは、のちの不満と再革命の種を残しました。七月革命をたどることは、自由の象徴がいかに制度へ翻訳され、またどこで翻訳が途切れたのかを具体的に理解することに通じます。1830年の三日間は、19世紀のフランスとヨーロッパ政治の「新しい常識」の出発点だったのです。

