市舶司 – 世界史用語集

市舶司(しはくし)は、中国の沿海主要港に設けられた対外海上交易の監督・課税・外交接遇を担う官署の総称です。成立は唐末から宋代に本格化し、元・明を通じて形を変えながら存続しました。海外商人の入港から貨物検査・関税徴収・通訳・宿舎手配・市場仲介・航海安全の手配、さらには朝貢使節の応接までを一括管理し、王朝財政と海上秩序の要となりました。宋代には広州・泉州・明州(寧波)などに置かれ、南宋期の泉州は「刺桐(ザイトゥーン)」として世界港に成長します。明代前期には海禁のもとでも朝貢貿易の窓口として寧波・泉州・広州の三市舶司が整備され、指定路線・指定国の管理が行われました。近世以降、制度は関税機構(海関)へと衣替えしていきますが、市舶司の長期的な意義は、国家の海上フロンティアを行政的に統御し、交易・移民・宗教・技術が出入りする「港の政体」を成立させた点にあります。

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成立と展開:唐末の萌芽から宋・元・明へ

市舶司の萌芽は唐末〜五代に求められます。広州のような南海貿易港では、早くから蕃坊(異域商人居住区)を設け、官が交易税を取り立てていましたが、制度の骨格が定まったのは宋代です。北宋は財政確立を重視し、海運で入る香料・象牙・薬材・真珠・胡椒などの舶来品への課税と、絹・陶磁・銅銭など輸出管理を制度化しました。これに合わせ、広州・泉州・明州(後の寧波)・杭州・温州などの港に市舶司が設置され、港湾単位の行政と財政の要として機能します。

1127年の靖康の変で北方が金に奪われると、南宋は臨安(杭州)を都とし、海上交易の比重が一段と高まりました。泉州は南宋の最大外港となり、アラブ・ペルシア・南アジア・東南アジアの商人が集住し、貨物・人・情報のハブとして繁栄します。ここで市舶司は、商人・牙行(仲買)・公納・倉儲・秤量・鑑定・通訳・宿泊・治安を総合管理し、国家の主要収入源の一つを担いました。

元代に入ると、クビライ政権は海上交通を戦略化し、泉州・福州・広州・杭州などの市舶司のもとでインド洋と南シナ海への定期航海網が太くなります。泉州の旧来の豪商・ムスリム官僚層は新政権下でも重用され、港市の多文化性は一層顕著になりました。他方で、戦乱・疫病・税負担や政権交代に伴う排斥(例:泉州における宗教対立と港の衰微)など、港の盛衰は政治と密接に連動しました。

明代は洪武期に厳格な海禁を基本としつつも、朝貢貿易の「窓口」としての市舶司を残しました。初期には寧波(明州)・泉州・広州の三市舶司が整備され、たとえば日本は寧波、南海ルート(東南アジア・インド洋)の多くは広州へ、暹羅(タイ)や琉球などは泉州・福州経由といった「指定港・指定路」の運用が行われます(時期により変更あり)。やがて永楽期以降、鄭和の大航海の後背で朝貢使節の応接・貿易手続を担いつつ、私貿易の取締と密貿易・倭寇対策に追われる局面も増えました。中後期には泉州の衰退とともに職掌の移管・簡素化が進み、清代初期には海関制度が主役となっていきます。

職掌と仕組み:入港から課税・流通まで

市舶司の基本任務は、(1)入港許可・船舶登録、(2)貨物の検査・計量・関税徴収、(3)通訳・外交接遇、(4)市場運営と価格・為替の調整、(5)治安・衛生・航海安全、に大別できます。海外船が外洋から到着すると、指定海口で検査を受け、船籍・船員名簿・貨物目録を提出します。市舶司は通事(通訳)・書吏・秤手・検査官を動員し、倉庫に仮置きしたのち課税額を算定しました。税率は時期・品目で差がありますが、宋代には「抽分」や「市舶税」と総称される従量・従価課税が行われ、品目ごとの税表(香薬・金銀・宝石・香木・象牙・胡椒・蘇木・硫黄・錫など)が整えられました。

市場運営では、牙行(公認仲買)と行当(ギルド)を媒介に国内商人への卸を進め、価格の急騰・買い占めを防ぐために販売順序・手数料・公定秤などの細則を設けました。物価の乱高下は港の治安と財政に直結するため、市舶司は塩・銅銭・穀物など基礎物資の放出や両替比率の調整も担いました。宋~元の大港では外国人居住区(蕃坊)や清真寺・ヒンドゥー寺院・教会が成立し、宗教と商業の共存を行政が調停します。宿舎(蕃舎)や医療・検疫の手配も重要で、疫病流行時の隔離や航海季節(季風)に合わせた滞在管理など、細やかな運用が求められました。

外交接遇では、朝貢使節が到来した場合、詔書伝達・方物受納・宴饗・答礼品の授与、そして朝貢と並行して許容された市易(交易)の手配を行いました。明初のように朝貢に厳しく枠をはめた時期には、来航頻度・船数・人員・携行品の上限が文書で細かく規定され、市舶司は違反の取り締まりや不正仲介の監視を行います。

治安・航海安全では、港内の警邏、外港の烽火台・燈標の維持、沿岸の水賊・海賊対策が含まれます。専任の水軍・水手を持つ場合もあり、荒天時の避泊や座礁救助、沈没品の公収・返還手続も市舶司の職掌でした。

港と人:広州・泉州・明州を中心に

広州の市舶司は、唐代以来の伝統をもつ南海最大の関門でした。イスラーム圏・南アジアとの結節点として香料・象牙・珊瑚・胡椒・綿布・宝石といった品が集まり、輸出では絹織物・陶磁器・漆器・金属器・銅銭が大量に扱われました。市舶司は港湾の倉庫群と市街の行当をつなぎ、広東財政を支える柱となります。明清移行期には役割が海関(粤海関)に引き継がれ、清代の「広州十三行」体制の遠い前史を形作りました。

泉州は南宋最大の外港で、アラブ・ペルシア・インド・東南アジア商人の集住が特徴です。古文書・石刻(イスラーム墓碑やマニ教・ネストリウス派の痕跡)に、市舶司の許可・税・寄港規則が現れます。南宋末の地方実力者蒲寿庚はムスリム系の有力者で、市舶司に関与しつつ軍政を握り、1276年には元へ帰順しました。王朝交替に絡んだ彼の動きは、港市のエスニック多様性と、海上権益が政権の帰趨と直結する現実を示します。元代の泉州は一時「刺桐」として世界最大級の港に数えられましたが、のち戦乱・疫禍・河港変化などで衰退し、明代には福州・広州側へ重心が移ります。

明州(寧波)は、東シナ海の玄関口として日本・朝鮮・琉球との交流を担い、とくに明初の対日朝貢・勘合貿易では寧波の市舶司が中心を務めました。倭寇問題が激化すると、市舶司は海防・取締の現場となり、後背の温州・台州・舟山群島の港湾網と連動して治安・交易のバランスを取る必要に迫られます。

財政インパクトと制度の変容:海禁・密貿易・海関へ

宋代の市舶収入はしばしば国家財政の重要部門に位置づけられ、特に南宋期には塩・茶・酒と並ぶ主要財源に数えられました。銅銭の輸出入管理は通貨循環の安定に直結し、陶磁・絹の輸出は工芸生産を牽引します。元代も海上交易の税収は重視されましたが、戦乱や港湾地形の変化、内陸税制との連動不良が不安定要因となりました。

明代の海禁は、私貿易・密貿易の横行という逆効果も生みました。倭寇の多くは中間商人や沿岸勢力を含む複合的なネットワークで、市舶司の権限強化だけでは抑え切れません。中後期には勘合貿易の衰滅と民間海外活動の再燃(東南アジア移民・華人商人の台頭)により、統制モデルそのものが変質します。やがて清初の沿海移民強制移転(遷界令)と対外貿易の再設計を経て、18世紀には海関制度(粤海関など)と「十三行」体制が本格化し、関税・洋行商・コホン(公行)による管理が主流になります。こうして市舶司は、近世型の税関・港湾行政へと機能移管されていきました。

それでも、市舶司が遺した行政知は、港湾での多言語対応、度量衡の標準化、倉庫・検査・検疫の手順、行当・牙行の規制、朝貢と市場の二層運用など、後代の港湾管理に受け継がれます。地方財政の自立度を高める一方で、中央の監督・覆査(巡検)と帳簿決算(勘合・対勘)の技法が磨かれ、国家の「海の行政」が制度として定着しました。

法と実務の細部:文書・通訳・度量衡・宗教共存

市舶司は膨大な文書行政を抱えました。入港台帳、貨物明細、秤量記録、税票、割符・印信、請願・訴訟文などがそれです。偽造や不正に対応するため、印璽・絹符・木札・鉛封といった実物管理の工夫が重ねられ、帳簿の対勘(控えの照合)が徹底されました。通訳(通事)はアラビア語・ペルシア語・マレー語・タミル語など地域に応じた言語を扱い、儀礼・契約・紛争解決の場で重要な媒介者となります。彼らの任用・監督は、賄賂や癒着を防ぐ意味でも制度化されました。

度量衡の統一は交易の信頼基盤で、市舶司は官秤・官尺・官升の標準器を管理し、検査秤での再計量により不正を防止しました。貨幣の種類(銅銭・銀・金・布帛・胡椒など商品貨幣)と両替比率は頻繁に告示され、為替の歪みを是正します。宗教共存に関しては、清真寺や寺院の祭礼・葬送・休日を尊重しつつ、港の治安と禁令(殺生・喧騒・火気・夜間外出など)を調整しました。こうした「港の寛容」は、実利と秩序維持のバランスで支えられました。

誤解の整理:朝貢だけの窓口ではない/海禁=閉鎖ではない

第一に、市舶司を「朝貢貿易だけの窓口」とみなすのは不十分です。確かに明初のように朝貢枠に絞る時期はありましたが、宋・元では民間商人の自発的交易が旺盛で、市舶司はその管理・課税・保護を担いました。第二に、「海禁=完全閉鎖」という理解も単純化です。禁令は時期・地域により運用差が大きく、免許・互市・沿岸交易の例外が広く存在しました。第三に、「港の栄枯=世界経済の潮目の反映」であり、河道変遷・砂州形成・疫病・戦乱・政権交替など環境・政治両面の要因が絡みます。市舶司はその調整弁としてつねに忙しく立ち回ったのです。