「ジュンガル」とは、17〜18世紀にかけて中央ユーラシアの天山山脈北側・ジュンガル盆地一帯を支配したモンゴル系遊牧勢力「ジュンガル汗国(ジュンガル・ハン国)」、およびその主力をなしたオイラト系モンゴル人の一集団を指す名称です。現在の中国新疆ウイグル自治区北部からカザフスタン東部にかけての地域に相当し、清朝・ロシア帝国・カザフ諸ハン国・チベット世界など、周辺諸勢力の境界に位置する戦略的要地でした。世界史では、とくに17〜18世紀における清朝との抗争、そして18世紀半ばに清によって壊滅させられた遊牧帝国として紹介されます。
ジュンガル勢力の特徴は、単なる遊牧部族連合ではなく、火器を備えた常備軍や課税制度を持ち、農耕地や都市をも支配下に収めた「早期近代的な遊牧国家」であった点です。オイラト諸部族の中から台頭したジュンガルは、チンギス=ハン系のハンではなくとも、自らの軍事力と政治組織を背景に広大な草原とオアシスを支配しました。他方で、その拡張はロシアや清朝、カザフ・キルギスなど周辺勢力との激しい対立を呼び起こし、最終的には清の大規模遠征と弾圧によって「ジュンガルの名前そのものが地図からほぼ消える」ほどの壊滅的打撃を受けます。
この解説では、まずジュンガルがどのような地理環境と歴史的背景の中から誕生したのかを整理します。つぎに、ジュンガル汗国の政治構造や軍事力、周辺諸勢力との関係(清・ロシア・中央アジア諸勢力)を取り上げ、さらに清朝との連続する戦争と滅亡の過程を見ていきます。最後に、ジュンガルの消滅が新疆・中央ユーラシアの民族構成と国境形成にどのような影響を与え、世界史の中でどのような位置を占めるのかを考えます。概要だけでも「ジュンガル=清と対立したオイラト系遊牧帝国」というイメージが持てるようにしつつ、詳しい部分は各見出しで立体的に理解できる構成にします。
オイラトからジュンガルへ:地理と成立の背景
ジュンガルが活動した地域は、現在の地名でいうと「ジュンガル盆地」と呼ばれる広大な内陸盆地を中心としています。北をアルタイ山脈、西を天山山脈、南をタクラマカン砂漠の北縁に囲まれ、東はゴビ砂漠へと続くこの地方は、乾燥したステップ地帯と山麓の牧草地、河川沿いのオアシスが入り混じった環境でした。夏には山地の草原で家畜を放牧し、冬には盆地や河川沿いへ移動する遊牧生活に適した土地であり、古くからモンゴル系・テュルク系の遊牧民が活動してきました。
ジュンガルの中心をなしたのは、モンゴル語系の「オイラト」と総称される西方モンゴル諸部族の一派です。オイラトは、モンゴル高原の西部から中央アジアにかけて広がり、チンギス=ハン時代にはモンゴル帝国の一部として活躍しましたが、のちにモンゴル本系(東方)とはやや距離を置いた存在となりました。16〜17世紀にかけて、オイラト諸部族の中から、ホシュート、トルグート、ジュンガル(ゾンガル)などの系統が分かれ、それぞれが中央ユーラシア各地に勢力を築いていきます。
このうちジュンガルは、アルタイ山脈とジュンガル盆地を拠点に勢力を伸ばした集団で、17世紀前半、ホンタイジやガルダン(ガルダン=ハン)ら有力指導者のもとで「ジュンガル汗国」としての形を整えていきました。彼らは、遊牧民の軍事力を基礎にしながらも、オアシス都市や農耕地からの税収を重視し、またチベット仏教(ラマ教)を支配の正当化に利用することで、単なる部族連合を超えた権力構造を築きました。
ジュンガルが台頭した背景には、明朝の滅亡と清朝の成立、モンゴル諸勢力の再編といった東アジア世界の大きな変動があります。16〜17世紀のモンゴル世界では、東方のハルハ(外モンゴル)と西方のオイラトのあいだで覇権争いが続いており、ジュンガルはその西方勢力の代表として浮上しました。さらに西へ目を向ければ、中央アジアではティムール朝やチャガタイ系諸政権の没落後、ウズベク諸ハン国やカザフ諸部族、イスラーム教スーフィー教団系勢力が入り乱れており、その間に位置するジュンガルは、草原とオアシスを繋ぐ「中継支配者」として振る舞う余地がありました。
こうした地理的位置と歴史的空白が、ジュンガルにとっては好機となりました。東では清朝とモンゴル諸部族、西では中央アジア諸勢力、北ではロシア帝国、南ではチベット・南新疆のオアシス諸都市と向き合う中で、ジュンガルはしばしば仲介者・征服者・被侵略者という複数の顔を持ちながら、17〜18世紀の中央ユーラシア政治の中心的プレイヤーの一つとなっていきます。
ジュンガル汗国の構造と周辺諸勢力との関係
ジュンガル汗国の特徴は、遊牧社会としての伝統を維持しつつ、火器と騎兵を組み合わせた強力な軍事力を持ち、周辺のオアシス都市や農村から税を徴収することで安定した財政基盤を築いていた点にあります。ジュンガルの支配者層は、部族ごとの家系や功績にもとづいて権力を分配しながら、中央にはハンを頂点とする指導者が存在し、対外戦争や外交交渉を統括しました。
軍事面では、ジュンガルは火器の導入に積極的でした。ロシアや中央アジア、さらにはオスマン帝国やヨーロッパ世界からもたらされた銃砲技術を取り入れ、騎兵中心の伝統的な遊牧軍に、火縄銃や大砲を組み合わせた戦術を発展させました。その結果、同じ遊牧系のモンゴル諸部族の中では際立って強力な軍事集団となり、東方のハルハ=モンゴルに対して優位に立つこともしばしばありました。
宗教面では、ジュンガルはチベット仏教(黄帽派)を保護し、その権威を利用しました。オイラト諸部族は16〜17世紀にかけて積極的にチベット仏教を受け入れ、多くの寺院や僧院を建てました。ジュンガルの支配者は、チベットの高僧と関係を結び、自らを「法王の庇護者」として位置づけることで、内部統治の正当性を高めるとともに、チベット世界への影響力も強めました。これは、清朝がチベット仏教を通じてモンゴル支配を正当化しようとした政策とも競合するものでした。
対外関係に目を向けると、ジュンガルは清朝・ロシア・中央アジア諸勢力との間で複雑な駆け引きを行いました。北方では、シベリアに勢力を拡大するロシア帝国と接触し、ときに交易や外交を通じて火器や物資を入手する一方、国境線をめぐる小競り合いも起こりました。東方では、清朝が内外モンゴルを支配下に置く中で、ジュンガルはハルハ・モンゴルをめぐって清と対立・競合しました。
西方や南方では、ジュンガルはタリム盆地のオアシス都市(カシュガル・ホータン・ヤルカンドなど)や、カザフ・キルギスといったテュルク系遊牧民に対して支配・影響力を行使しました。オアシス都市に対しては軍事力を背景に朝貢や税を課し、カザフ諸ハンに対しては戦争と同盟を繰り返しながら、放牧地と通商路の支配を争いました。このように、ジュンガル汗国は遊牧世界とオアシス世界、イスラーム世界と仏教世界をまたぐ「境界帝国」として振る舞っていたと言えます。
しかし、このような拡張と介入は、周辺諸勢力にとっては大きな脅威でもありました。とくに清朝から見れば、ジュンガルは北西方面からの潜在的な侵略者であると同時に、内外モンゴル支配を揺るがしかねない競合勢力でした。そのため、清朝は17世紀末から18世紀にかけて、ジュンガルを「必ず制圧すべき宿敵」と見なすようになっていきます。
清との戦争とジュンガルの滅亡
ジュンガルと清朝の対立は、17世紀後半から激しくなります。康熙帝の時代、ジュンガルの指導者ガルダンは、モンゴル世界の再統一をめざしてハルハ・モンゴルに軍を進め、これに対抗して清朝が遠征軍を派遣しました。1690年代の戦いでは、清軍とジュンガル軍がモンゴル高原で衝突し、最終的にガルダンは敗れて自殺に追い込まれます。この時点でジュンガルは壊滅には至らなかったものの、清との巨大な軍事衝突が避けがたいことが明らかになりました。
18世紀に入ると、ジュンガル内部でも後継争いが起こり、内紛と政権交代が続きます。ツェワン=ラブタンやガルダン=ツェレンなどの指導者のもとで一時的に勢力を回復するものの、清朝もまた康熙帝・雍正帝・乾隆帝と続く強力な皇帝の時代を迎えており、北西辺境の安定を最優先課題と見なしていました。
決定的な転機は、乾隆帝の時代に訪れます。18世紀半ば、ジュンガル内部で有力者同士の争いと混乱が激化すると、清朝はこれを好機と見て大規模な遠征軍を派遣しました。清軍は、ジュンガル支配層の一部を懐柔しつつ、反抗勢力を徹底的に討伐し、多くのジュンガル人を殺戮・追放・強制移住させました。この過程は、現代の研究でも「大虐殺」「民族殲滅」と評されるほどの規模と徹底性を持っており、ジュンガル人口は激減したとされています。
乾隆帝は、ジュンガル征服の完了を誇示する碑文や勅命を残し、「ジュンガルの名を地図から消した」とまで述べたと伝えられます。実際、18世紀後半以降、独立した政治勢力としてのジュンガル汗国は完全に姿を消し、残存するジュンガル人も他地域への移住や他民族との混住の中で、固有の政治単位を持たない存在となっていきました。
ジュンガルの滅亡後、清朝はその支配領域に対して直接統治を進めます。ジュンガル盆地には、漢人・回族(イスラーム教徒の漢語話者)・タランチ(ウイグル系農民)・ソロン(満洲系)など、さまざまな集団を移住させ、空白地帯となった牧草地やオアシスを再編しました。また、タリム盆地南縁のオアシス都市に対しても軍政を敷き、「新疆(新しい領土)」としての枠組みを整えていきます。こうして、ジュンガルの旧領は清朝の版図に組み込まれ、のちの中国新疆地域の基盤となりました。
ジュンガル滅亡の過程は、遊牧帝国の終焉と、中央ユーラシアにおける「定住帝国(清・ロシアなど)」の支配拡大という大きな流れの一部でもあります。ジュンガルは、モンゴル帝国以来続いてきた遊牧系大勢力の最後の一つとして清に挑みましたが、近代的な火器と官僚制、人口動員能力を備えた大帝国の前に敗れ去ったと言えます。
ジュンガルの消滅と中央ユーラシア世界への影響
ジュンガル汗国の崩壊は、中央ユーラシア世界の勢力図と民族構成に大きな影響を与えました。第一に、ジュンガルの旧支配地であるジュンガル盆地や、その周辺の牧草地が「権力の空白」となったことで、カザフ諸ハン国やキルギス、さらにはロシア帝国が勢力を広げる余地が生まれました。ロシアは18〜19世紀にかけてカザフ草原や中央アジアへ南下し、清朝と国境を接するようになりますが、その背景にはジュンガルの消滅による緩衝地帯の喪失があります。
第二に、ジュンガルの旧領に対する清朝の支配は、中国の版図の西方拡大という意味を持ちました。清は、ジュンガル征服とタリム盆地支配を通じて、「新疆」という新たな辺境支配単位を形成し、満洲・モンゴル・チベット・新疆という多民族の周辺地域を抱え込む大帝国としての性格を強めました。これは、現代に至るまで中国の領土認識や民族問題に影響を与え続けている要素です。
第三に、ジュンガルの人びと自身にとって、この滅亡は文化と記憶の断絶を意味しました。多くのジュンガル人が殺害・移住・同化を強いられた結果、「ジュンガル」という民族名・政治単位は歴史の表舞台から姿を消し、その記憶は主として清側の公式記録やロシア・ヨーロッパの報告、そしてオイラト系の一部伝承の中に残されるのみとなりました。
世界史の視点から見ると、ジュンガルは「ユーラシア草原地帯における最後期の大遊牧帝国」として位置づけることができます。チンギス=ハンのモンゴル帝国以来、遊牧民は長らく東西交易の担い手であり、時には定住農耕帝国を征服する側でもありました。しかし近世以降、火器の発達や官僚制・租税制度の整備を通じて、定住帝国側の軍事・動員力が高まると、遊牧勢力は次第に劣勢に立たされます。ジュンガルと清の戦いは、この大きな転換点の一場面として理解することができます。
また、ジュンガルの歴史は、単に「遊牧民 vs 定住帝国」という単純な対立ではなく、多宗教・多言語・多民族が交錯する中で、遊牧と農耕、仏教とイスラーム、モンゴル世界とテュルク世界、中国とロシアの利害が絡み合う複雑な空間の物語でもあります。ジュンガル汗国は、その結節点として17〜18世紀の中央ユーラシアに独自の秩序をつくろうとしましたが、最終的にはより巨大な帝国の力に飲み込まれていきました。
世界史で「ジュンガル」という用語に出会ったときには、17〜18世紀の中央ユーラシアで活躍したオイラト系モンゴル人の遊牧帝国であり、清朝と激しく争った末に滅亡し、その旧領がのちの中国新疆やロシア南部の国境形成に深くかかわった勢力だ、とイメージしておくとよいでしょう。そのうえで、ジュンガルの興亡を、遊牧と定住、草原とオアシス、東アジアと中央アジアをつなぐダイナミックな歴史の一部として眺めると、この地域の近現代史の背景がより立体的に見えてきます。

