インティファーダは、アラビア語で「振り払う」「払い落す」を意味し、一般にはイスラエル占領下にあるパレスチナの住民による大規模な抗議・抵抗運動を指す言葉として用いられます。世界史では特に、1987年から1993年にかけての第一次インティファーダと、2000年から2005年ごろまでの第二次インティファーダを中心に理解するのが基本です。前者は民衆的なボイコットやストライキ、石投げなどの非武装抵抗を主とし、後者は自爆攻撃や銃撃などの武装攻撃と、それに対する厳しい治安措置の応酬が特徴でした。起点はそれぞれ、占領体制下の長期的な不満の蓄積に、偶発的な事件や政治的緊張が重なって噴出したものです。両者はいずれも国際社会に強いインパクトを与え、オスロ合意や治安体制の再編、分離障壁の建設、ガザ撤収など、その後の地域秩序を大きく方向づけました。この記事では、語の意味と背景、第一次・第二次の展開と方法、各期の帰結と長期的影響を、できるだけわかりやすく整理します。
語の意味と背景:占領下社会の不満と組織
「インティファーダ」という言葉は、文字通りには「埃を払う」しぐさを連想させ、「重くのしかかったものを振り落とす」という比喩的意味で政治運動を表します。パレスチナの文脈では、1967年の第三次中東戦争でイスラエルの占領下に入ったヨルダン川西岸とガザ地区を中心に、住民が示す大規模抗議の総称として広がりました。背景には、軍政・移動制限・入植地拡大・土地収用・検問・就労や税制の制約など、日常生活のあらゆる層に及ぶ不満の蓄積があります。さらに、PLO(パレスチナ解放機構)や各派武装組織、宗教運動、労働組合、学生組織、町内委員会など、社会の多層に広がる組織が抗議のネットワークを形成し、地域・家族・モスク・学校といった空間を媒介に行動が動員されました。
一方、イスラエル側では、治安の確保、テロ対策、入植者の安全、国境線の防衛という観点から、軍・警察・情報機関・法制度が一体で対応に当たります。報復の連鎖を断つこと、武装組織の壊滅、交渉の前提を整えることなどが政策目標とされましたが、現地の生活と統治の現場ではしばしば強圧的な措置がとられ、国際世論の批判も呼び起こしました。インティファーダは、この二つの論理が現地の街路や検問、学校、難民キャンプなどで衝突する局面として現れ、メディアを通じて世界が「現場の現実」を目撃する契機にもなったのです。
歴史用語としての意義は、民族運動・反占領運動・宗教運動・都市社会運動・国際政治が一体となって噴出する点にあります。第一次と第二次のあいだには、目的や方法、政治的帰結において継続と断絶の双方が見られます。以下では各期の特徴を、引き金・主な行動レパートリー・組織・国際的反応・政治的結果の観点から整理します。
第一次インティファーダ(1987–1993):民衆動員と交渉への道
第一次インティファーダは、1987年12月、ガザ地区でイスラエル軍用車両との交通事故によりパレスチナ人が死亡した事件を直接の契機として、ガザから西岸へと急速に拡大しました。決定的だったのは、行動の担い手が特定の武装組織に限られず、学生・労働者・商人・女性グループ・宗教者・自治委員会などの幅広い層に及んだことです。通商・納税・就労のボイコット、ゼネスト、落書き・ビラ配布、学校閉鎖への抗議授業、石投げや火炎瓶といった軽武装の街頭対峙など、非武装・低強度の抵抗が連鎖的に行われました。
この運動は、PLO本部(当時は国外)に対しても内側から圧力をかけ、現地社会の声を国際交渉へ反映させる効果を持ちました。他方、イスラエル側は夜間外出禁止、検問強化、指名手配と拘束、建物の破壊、住居の封鎖、指導者の国外追放などの措置で抑え込みを図ります。治安維持の現場では過剰な暴力行使が国際的批判を浴び、国連や人権団体の報告書が注目を集めました。テレビ映像がリアルタイムで世界に流れ、国際世論の形成に影響した点も第一次の特徴です。
第一次インティファーダは、数年におよぶ摩擦の末に、政治プロセスの転換を促しました。1991年のマドリード会議を経て、1993年にはPLOとイスラエルが相互承認し、暫定自治を柱とするオスロ合意に至ります。これにより、ガザと西岸の一部にパレスチナ暫定自治政府(PA)が設けられ、治安・行政・経済協力の枠組みが発足しました。完全な解決には達しなかったものの、第一次は「交渉の扉を開いた民衆蜂起」と総括されることが多いです。その背後には、草の根の動員と国際外交の接続、非暴力行動の効果と限界という、現代史上の重要な論点が見て取れます。
第二次インティファーダ(2000–2005):暴力の螺旋と治安再編
第二次インティファーダの引き金は、2000年9月、イスラエルの野党指導者によるエルサレム旧市街の聖域(ユダヤ教では神殿の丘、イスラームではハラム・アッシャリーフ/アル=アクサ・モスクの一帯)訪問をめぐる緊張とされます。直後に発生した衝突は急速に拡大し、第一次とは質の異なる暴力の循環に発展しました。パレスチナ側では一部組織による自爆攻撃、銃撃、ロケット弾攻撃が相次ぎ、イスラエル側では大規模な軍事作戦、標的型の拘束・空爆、入植地と都市の防護強化、封鎖や移動制限の強化が実施されました。市街地・バス・レストランなどを狙う攻撃は社会に深い恐怖を与え、報復のサイクルが治安協力の土台を崩しました。
第二次期の焦点は、治安アーキテクチャの再設計です。イスラエルは自爆攻撃を防ぐための分離障壁(フェンス/壁)の建設を進め、検問所や通行許可制度を再編しました。これは攻撃の減少に一定の効果をもたらしたとされる一方、西岸の地形・交通・土地利用に大きな影響を与え、生活分断や経済停滞、社会的コストを生みました。自治政府内部では治安組織の再編・統合が進められ、国際支援の下で警察訓練や財政の管理が強化されましたが、各派の対立や統治能力の問題は尾を引きました。
第二次期には、和平交渉の停滞と並行して、入植地問題、エルサレムの地位、難民の帰還権、国境線、治安権限など、核心争点がいっそう先鋭化しました。国際社会は仲介努力を重ね、「ロードマップ」などの計画が提示されましたが、実施は分断と不信に阻まれます。2005年のイスラエルによるガザ撤収は、入植者と常駐部隊の撤退という点で画期的でしたが、境界管理と治安の責任分担、ガザと西岸の政治分裂という新たな課題を残しました。第二次インティファーダは、暴力の応酬が短期的に双方の安全と自由を大きく損なうこと、そして治安と政治の双方に長期の影を落とすことを示しました。
影響とその後:政治・社会・国際秩序への長期的含意
インティファーダが残した最大の影響は、政治交渉の枠組みと治安・領域管理の常態化にあります。第一次はオスロ合意を通じて自治体制と相互承認の道を開き、二国家解決の構想を国際標準に押し上げました。他方、第二次は武装攻撃と強硬な治安措置の応酬が、相互不信と制度疲労を深め、交渉のアジェンダをより困難にしました。分離障壁と検問網、地域別の統治区分(A/B/Cなど)、入植地と道路網、治安協力の仕組みは、紛争管理のインフラとして定着し、住民の移動・就労・教育・医療・経済活動のすべてに長期の影響を与えています。
社会的には、両期とも若者と都市貧困層、難民キャンプ居住者が運動の中核を担い、女性の参加も目立ちました。家庭・学校・宗教施設・市場といった日常空間が政治化される一方、抑圧と抵抗の相互作用が市民社会の組織化を推し進め、NGO・人権団体・医療救援・メディア活動が発展しました。宗教指導者・地方名望家・学生組織・専門職団体といった多様なアクターが、対話・交渉・抗議・治安協力・復興のそれぞれに関与し、地域社会の政治文化を形づくりました。
その後も、2000年代後半以降の対立激化、2010年代の一連の抗議や個別攻撃、2015年ごろの「ナイフ・インティファーダ」と呼ばれた波、エルサレムをめぐる緊張、ガザを舞台にした度重なる衝突など、局地的・突発的な上昇局面が繰り返されています。インティファーダという語は、これらの出来事を包括的に表す「波」の名前として使われることもありますが、運動主体・方法・規模は時期ごとに大きく異なります。
国際秩序の観点では、インティファーダはメディア時代の紛争の可視化、国際人権規範の発展、武力行使の合法性をめぐる議論、テロ対策と市民的自由のバランス、援助と治安の連動設計など、多様な課題を突きつけました。パレスチナ社会の内政、イスラエルの選挙政治、アラブ地域の外交、欧米の対中東政策、国連と地域機構の役割など、広範なアクターの意思決定が相互に影響し合う構図が定着しています。
総じてインティファーダとは、占領下の生活世界と国際政治の回路が直結し、非暴力・市民的不服従から武装攻撃に至るまで多層の行動が重なり合う歴史現象です。第一次と第二次の比較を通じて、草の根の動員が交渉の扉を押し開く可能性と、暴力の螺旋が社会と政治の基盤を侵食する危険の双方が見えてきます。世界史用語として学ぶ際は、用語の語感に含まれる「振り払う」の意味を念頭に、具体の場と人の経験に即して理解を深めることが大切です。

