インディラ・ガンディーは、インドの第3代首相として1966年から1977年、そして1980年から暗殺される1984年まで政権を担った政治指導者です。初代首相ネルーの長女として生まれ、カリスマ性と強い指導力で国内外の重大局面を切り抜けました。銀行の国有化や旧藩王の年金(プリヴィ・パース)の廃止、農業の近代化を進める「緑の革命」、1971年の印パ戦争とバングラデシュ独立支援、1974年の核実験など、決断の早さが際立つ半面、1975~77年に非常事態(エマージェンシー)を宣言して公民権を大幅に制限した統治は強権の象徴として記憶されています。最晩年にはパンジャーブ州の治安悪化を背景に聖地アムリトサルの黄金寺院に対する軍事作戦(ブルースター作戦)を承認し、その余波の中でシク教徒の警護官に暗殺されました。国内統合、開発、非同盟外交を軸に、冷戦下のインド国家像を大きく形づくった人物です。
生涯と登場:家系、政治修業、首相就任まで
インディラ・プリアダルシニー・ネルーは1917年、アラハバードのネルー家に生まれました。父ジャワーハルラール・ネルーは独立運動の中心人物で、のちに独立後の初代首相となります。幼少期から政治活動に接し、英留学を経て、帰国後は国民会議派(コングレス)の組織運営に関わりました。1942年にフェローズ・ガーンディー(フェローズ・ガンディー、国会議員)と結婚し、姓が「ガンディー」となりますが、マハトマ・ガンディーとは血縁関係はありません。
1964年にネルーが死去し、ラール・バハードゥル・シャーストリーが後継となると、インディラは情報放送相に起用され、政治・行政の実務に携わりました。1966年、シャーストリー急逝を受けてコングレス党内の妥協候補として首相に選出されますが、その後は党内実力者に依存しない独自路線を強め、1969年の党分裂で旧主流派(コングレス(O))と袂を分かち、左傾色の強いコングレス(R)を率いることになります。
1971年総選挙では「貧困に勝利を(Garibi Hatao)」を掲げて大勝し、カリスマ的な国民的人気を確立しました。こうして彼女は、世襲の二世政治家に留まらず、独自の政治基盤と政策パッケージをもって冷戦時代のインド政治を主導する地位へと上り詰めました。
国内政策と統治:開発国家の推進と非常事態
インディラ政権の国内路線は、国家主導の開発と社会動員の組み合わせに特徴がありました。1969年の主要商業銀行14行の国有化は、農村・中小産業・貧困層への信用供与を拡大する狙いから断行され、公共部門の比重を高めました。同年、旧藩王に支給されていたプリヴィ・パースの廃止を進め、独立後も温存されていた封建的特権の清算を象徴しました。価格統制や食糧配給の強化、計画経済の枠組みの中で、国家が資源配分の主導権を握る「指令型混合経済」の色彩が濃くなります。
農政では「緑の革命」を後押しし、高収量品種の導入、化学肥料・灌漑・農機の普及、流通価格の支えなどを通じて、小麦を中心に生産性を飛躍させました。これは飢饉リスクの低減と食料自給の改善に寄与する一方、地域間・階層間での恩恵の差、環境負荷や水資源の偏在という新たな課題も生みました。工業化では公共部門の巨大企業群がエネルギー・重工業・通信・運輸の基盤整備を担い、輸入代替の保護と外貨管理が堅持されました。
しかし、こうした国家主導路線の強さは、政治手法にも反映されます。1975年、選挙違反訴訟をめぐる司法判断や反政府運動の高まり、経済停滞とインフレの圧力の中で、インディラは「国家の安全」を理由に非常事態(エマージェンシー)を宣言しました。期間中(1975~77年)、憲法上の基本的人権の一部が停止され、報道検閲、反対派指導者の大量拘禁、官僚機構と警察の強化が進みます。息子サンジャイ・ガンディーが影響力を増し、都市再開発や出生抑制(強制不妊手術と批判された施策を含む)など、急進的で強権的な政策が推進されました。
非常事態は治安・物流・価格の安定化に短期的な効果をもたらしたとする評価がある一方、民主主義の基盤を傷つけた重大な逸脱として広く批判されます。1977年の総選挙でコングレスは歴史的敗北を喫し、インディラは一時政権を失います。だが統一の脆弱な反対勢力(ジャナタ党)政権の分裂を経て、1980年にコングレス(I)を率いて返り咲き、再び強い統治を実現します。
外交・安全保障:非同盟、対ソ接近、戦争と核の選択
対外政策では、非同盟の旗を掲げつつ、現実主義的な選択を重ねました。1971年、東パキスタンでの政治危機と難民流入が深刻化すると、インディラは人道的・安全保障上の必要を理由に介入を決断し、印パ戦争に勝利してバングラデシュ独立の成立を後押ししました。これに先立ち、ソ連との平和友好協力条約を結んで外交的後ろ盾を確保し、米中接近が進む国際環境下で安全保障の均衡を図りました。翌1972年のシムラー協定では戦後の二国間枠組みが整えられ、カシミール問題を含む交渉の基本線が引かれます。
1974年、ラジャスタン州ポカランで地下核実験(「微笑むブッダ」)を実施し、インドは名目上は「平和目的」ながら核能力の保有を世界に示しました。これにより核不拡散体制との緊張が高まり、先進国の対印輸出規制が強化される一方、国内では技術自立と安全保障の確立の象徴として支持を集めました。軍の近代化、宇宙・原子力・重工業の国策的育成は、開発国家としての自負と結びつきます。
第三世界外交では、解放運動への共感と非植民地主義の立場を強調し、インド洋・アフリカ・東南アジアとの連帯を深めました。1983年のニューデリー非同盟諸国首脳会議では議長国として南北問題や新国際経済秩序の議題を牽引し、債務危機と貿易不均衡にあえぐ途上諸国の利害を代弁する役割を果たしました。もっとも、ソ連への相対的接近は、厳密な中立というより、総力としての国益追求を優先する「戦略的非同盟」だったといえます。
晩年の危機と死:パンジャーブ問題、ブルースター作戦、暗殺
1980年代初頭、パンジャーブ州ではシク教徒の一部急進派と治安当局の対立が深まり、宗教・地域アイデンティティと政治的不満が絡み合って緊張が高まりました。1984年、急進派が拠る黄金寺院(ハリマンディル・サーヒブ)複合施設内のアカーラ・タクトに対して、インディラは軍による強制捜索・制圧(ブルースター作戦)を承認します。作戦は多数の死傷者と宗教施設の損傷をもたらし、深い禍根を残しました。
同年10月31日、インディラ・ガンディーはニューデリーの自宅で、シク教徒の護衛二人によって射殺されました。暗殺の直後、各地で反シク暴動が発生し、多くの犠牲者を出します。この出来事は、インドの宗教間関係と国家の治安政策に長い影を落とし、後継となった長男ラジーヴ・ガンディー政権の発足と、その後の政治展開にも大きな影響を与えました。
インディラの死は、強権的手法と国家統合・開発の成果という彼女の相克を象徴的に締めくくる出来事でした。政治的遺産には、計画経済の枠組みを基盤に据えた国家主導の産業政策、食料自給力の向上、第三世界外交の牽引、そして民主主義の制度が持つ脆弱性を露呈させた非常事態体験が並びます。彼女の統治スタイルは、のちのインド政治におけるリーダー像と政党内権力の在り方にも強い影響を与えました。
人物像と評価:カリスマ、決断、そして矛盾
インディラ・ガンディーは、その強靭な意志と迅速な決断で支持を集める一方、権力集中と寛容性の欠如を厳しく批判される人物でもありました。演説や象徴操作に長け、「国民の母」「鉄の女」といったイメージを巧みに用い、貧困層や農村の女性からの支持を固めました。他方で、党内民主主義の弱体化、官僚・警察装置の政治化、司法と立法の緊張など、制度的コストを伴う統治を選択した場面も少なくありません。
経済・社会政策の成果は、所得分配の改善や雇用創出に直結した部分と、長期的な非効率や保護主義の硬直化につながった部分が混在します。「緑の革命」は飢餓の恐怖を後退させましたが、地域偏在と環境負荷の課題を残しました。核実験と対ソ接近は安全保障上の利益を生みましたが、対外関係の緊張と技術封鎖の代償も負いました。非常事態は、短期に秩序と成長の兆しをもたらしたとする擁護論がある一方、民主的価値の毀損として今日まで批判が続いています。
総じて、インディラ・ガンディーは冷戦と脱植民地化の時代に、途上大国インドが選びうる選択肢の幅と限界を体現した指導者でした。彼女の政治は、国家建設・社会改革・安全保障・外交の四つの軸が常に絡み合う「総力戦」型の統治であり、その成功と失敗は、現代インドの制度と政治文化の層に深く刻まれています。彼女の歩みをたどることは、アジア・アフリカの多くの新興国家が直面した課題—開発と民主主義、統合と多様性、安全保障と非同盟—を立体的に理解するための手がかりとなります。

