室利仏逝(シュリーヴィジャヤ王国) – 世界史用語集

室利仏逝(しつりぶっせい、サンスクリット:Śrīvijaya、現代語表記:シュリーヴィジャヤ)は、7世紀頃から13世紀にかけて東南アジア海域世界に君臨した港市国家連合・海上王権を指す呼称です。主な拠点はスマトラ島南部のパレンバン周辺とされ、マラッカ海峡とスンダ海峡という二大チョークポイント(海上交通の要衝)を押さえることで、中継貿易を土台に繁栄しました。中国史料では室利仏逝のほか「三仏斉(さんぶつせい/サンフォチ)」の名でも現れ、7〜11世紀にかけて唐・宋との朝貢貿易ネットワークの中核に位置しました。仏教、なかでも大乗・密教の学問と実践の中心としても知られ、唐僧・義浄が往復途上で長期滞在した記録は同王国の国際的性格をよく物語ります。本稿では、成立背景、政治経済の仕組み、宗教文化と対外交渉、衰退と歴史的意義を、誤解しやすい論点に触れながら整理します。

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成立と史料:碑文・中国史料・旅行記の三本柱

シュリーヴィジャヤの研究は、主に三種類の史料に依拠しています。第一に、スマトラ島やバンカ島、ジャワ島南部などに残る古マレー語・サンスクリット語の碑文群です。ケドゥカン・ブキット碑文(683年)やタラン・トゥウォ碑文(684年)、コタ・カプル碑文(686年)、テラガ・バトゥ碑文などがよく知られ、王権の儀礼・功徳行為・航海の成功祈願・支配領域と反乱鎮圧の記録が刻まれています。これらは、王権が航路の掌握と宗教的威信を結びつけていたことを示します。

第二に、中国正史・地理書・港市案内にあたる記録です。唐から宋にかけての史書や、使節・商人の見聞録には、室利仏逝・三仏斉・闍婆(ジャワ)との関係、朝貢貿易の品目、航路・風俗が記されています。ここでの三仏斉は、狭義の王都に限らず、広域の港市連合(マンダラ)を指す通称として用いられる場合があり、後世の研究では「政治的中心は移動し得るネットワーク王権」と理解されます。

第三に、インド・中国・東南アジアを往来した僧侶の旅行記です。なかでも義浄(7世紀後半)は、インド仏教留学の往復で室利仏逝に滞在し、学僧の訓練・仏教文献流通・航海技術・季節風利用について活写しました。義浄は、インド直行ではなく、まず室利仏逝で準備し季節風を待ってから西航するのが安全だと述べており、同王国が「海の大学」「トランジット・ハブ」として機能したことが分かります。

成立時期については、7世紀の碑文が画期となりますが、その前史としてスマトラ内陸の金産地・樹脂(ベンゾイン)・カンフルなどの資源と、河川・外洋を結ぶ交通の蓄積がありました。都市国家が一気に出現したのではなく、河口港・内陸交易拠点・外洋航海者を束ねる形で「海域王権(thalassocracy)」が形成されたとみるのが妥当です。

海上交易と政治構造:港市ネットワークとしての王権

シュリーヴィジャヤの富の源泉は、東西交易の中継と課税・護送でした。胡椒・丁子・肉桂などモルッカの香辛料、スマトラ内陸の金・錫・樹脂、ボルネオのカンフル、中国の絹や陶磁、インドの綿布・ビーズが、季節風に乗って海峡に収斂します。王権は航路の安全を確保し、港湾施設・倉庫・標識・水の供給を管理し、入港船に税・関銭・贈与の交換を課して利益を得ました。これは単なる搾取ではなく、海賊抑止・仲裁・情報提供を含むサービスの対価でもありました。

政治構造は、固定的な領土国家というより「マンダラ型」と形容されます。中心港の威信と贈与の流れに応じて周辺港市がゆるやかに結びつき、勢力の中心が時に移動します。スマトラ南部・ジャワ北岸・マレー半島西岸の諸港は、交易の季節性と外交の成否に応じて連合・離反を繰り返しました。王権の正統性は、航海の加護(仏教的功徳)と成功する贈与循環(朝貢・下賜)に支えられ、碑文に見られる「呪誓」や「功徳の宣言」は、この政治文化の一部でした。

王統については、9世紀の「バラプトラデーヴァ(Balaputradeva)」の名が重要です。彼はインドのナーランダー僧院に寄進を行い、国際仏教ネットワークの名士として記録されました。これは、王権が宗教的威光を海外にも拡張し、交易の信用を高める戦略であったと解せます。また、同時代ジャワのシャイレーンドラ朝(ボロブドゥールを造営)との関係は複雑で、親族・婚姻・競合が絡み合いました。両者を同一視するのは誤りで、相互に影響しつつも、拠点・政治文化・宗教儀礼の様式には差異がありました。

行政実務は、河川交通の掌握、港市の監督、徴税・倉庫管理、航海者への通行証の発給など、多岐にわたりました。港市の支配者=在地エリート(orang kaya)と王権中枢が贈与・婚姻・同盟で結ばれ、場合によっては強制(懲罰遠征)で統合が補強されました。海域王権の安定は、軍事力というより情報と信頼のネットワークに依存しており、季節風と共に動く船団のリズムを読み違えると、たちまち影響力が低下する脆さも抱えていました。

仏教文化と東アジア交流:学問センターとしての面

シュリーヴィジャヤは仏教、特に大乗・密教諸派の学問と実践の拠点でした。港市には僧院・講堂・写経施設が整えられ、インド・中国・在地の学僧が往来しました。義浄は、サンスクリットと仏教梵語の素養をここで整え、航海の季節を待ってインドへ向かったとされます。僧院は単なる宗教施設ではなく、翻訳・教育・宿泊・通訳・資金仲介を担う多機能の「知識インフラ」でした。これにより、交易ネットワークは宗教ネットワークと重なり合い、知の信用が商業信用を補強しました。

宗教実践は、王権の功徳(プンニャ)と結びつき、布施・塔の建立・僧院保護が政治儀礼の核心となりました。碑文には、法(ダルマ)に背く行為への呪詛や、共同体への誓約が刻まれ、宗教規範が社会秩序の維持に用いられたことが分かります。在地信仰との複合も進み、海と河川の霊、山の守護などの観念は、仏教の護法善神と重ね合わされました。交易者は出航前に加護を祈願し、帰港後に供物を捧げる慣行を通じて、宗教と経済が循環しました。

東アジアとの交流では、朝貢貿易が重要でした。三仏斉の名で唐・宋に遣使し、香料・象牙・宝石・鳥羽などを献上する一方、絹・陶磁・銅銭などを下賜として受け取り、再輸出しました。中国側の冊封体制は、海域の秩序維持と情報交換の枠組みとして機能し、王権の外的正統性を補強しました。中国の商人・技術者・書記が港市に滞在し、計量・航海術・造船技術の共有が進んだことも推測されます。

衰退の要因と歴史的意義:海域世界のダイナミクス

シュリーヴィジャヤの衰退は単線的ではありませんが、11世紀前後の外的衝撃として、南インド・チョーラ朝の遠征(1025年頃)が特筆されます。ラージェーンドラ1世の海軍はカダーラーム(ケダ)など複数の港市を攻撃し、海峡秩序に揺さぶりをかけました。これにより、同王権の威信とネットワークは一時的に寸断され、周辺港の自立化が進みました。とはいえ、これですべてが終わったわけではなく、12〜13世紀にも三仏斉の名義での交流は続き、勢力の中心がパレンバンからジャンビ(マラユ)方面へ、さらにマレー半島側へと移る「重心移動」が起きたと見るのが一般的です。

長期的には、ジャワ島のシンガサリ、ついでマジャパヒトといった新興勢力の台頭、そして14〜15世紀にマラッカ・スルタン国が新たな海上秩序を構築したことが、海域の権力地図を書き換えました。イスラーム化の進展も、大乗・密教中心だった宗教景観を変化させ、商人ネットワークの組成に新たな結び目を与えました。これらの変化は、シュリーヴィジャヤの遺産を否定するものではなく、むしろ「海峡のハブを押さえ、宗教と交易を結合する」という基本原理が、他の制度・信仰のもとで継承されていったことを示します。

歴史的意義として、第一に、シュリーヴィジャヤは東南アジア海域世界における「国家」の多様性を示す好例です。固定境界と官僚制に立脚する陸上国家モデルではなく、流動的なネットワークと贈与・儀礼に立脚する海域王権が、千年近く地域秩序を担い得たという事実は、世界史の国家観を拡張します。第二に、宗教・知識と商業・政治の結合が、持続的繁栄の鍵であった点です。僧院と港湾、学僧の移動と商品の移動が重なったからこそ、信用と安全が確保されました。第三に、季節風・河川・海峡という自然条件を読み解く技術と制度が、権力の形成に決定的だったことです。

誤解に関しては、(1)シュリーヴィジャヤとシャイレーンドラを同一視する見方、(2)三仏斉を単一の固定国家名とみなす見方、(3)1025年のチョーラ遠征で「即滅亡」とする単純化、が代表的です。前二者はネットワーク的・連合的性格を捨象しすぎであり、三つ目は政治文化の復元力と地域ごとの差異を無視します。入試や検定では、「碑文(683〜686年)」「義浄滞在」「チョーラ遠征(1025年)」「ナーランダー寄進(9世紀)」「重心移動(ジャンビ、半島)」といった結節点を、地図と結びつけて整理すると混乱を避けられます。

まとめると、室利仏逝=シュリーヴィジャヤ王国は、海をつなぐ術と、人々をつなぐ儀礼・知の仕組みを高度に統合した海域王権でした。そこでは、嵐の季節を読む航海者、河口と内陸を結ぶ船頭、港市を取り仕切る在地エリート、僧院で教え学ぶ学僧、そして贈与と交易を取り仕切る王権が、複雑な拍子を刻んでいました。マラッカ海峡が世界経済の大動脈であり続けるかぎり、シュリーヴィジャヤの遺制は、形を変えながら現在にも通底しています。海域世界を理解するための鍵概念として、この王権のネットワーク性と宗教—交易複合を心に留めておくと、東南アジア史の鳥瞰がぐっと明瞭になります。