『失楽園』(Paradise Lost)は、17世紀イングランドの詩人ジョン・ミルトンがラテン語古典の作法と聖書物語を融合させ、英語で書き上げた大叙事詩です。全12巻(初版は10巻)からなり、人類の始祖アダムとイヴが蛇(サタン)に誘惑されてエデンの園を追放されるまでを中心に、天上界の戦争、地獄の政治、宇宙創造、救済の予告といった壮大な時空を往復します。格調高い無韻詩(ブランクヴァース)で描かれる物語は、単なる宗教詩ではなく、自由と服従、理性と情念、権力と反逆、言葉と想像力の問題を立体的に問う作品です。清教徒革命=共和政の挫折や王政復古という激動の政治史を背景に、盲目となった老詩人が口述で完成させたという成立事情も、作品の緊張を形づくっています。本項では、成立背景、物語の骨子、主題と詩学、受容と影響、読み方の手引きをわかりやすく整理します。
成立と歴史的背景:革命と復古、盲目の詩人と口述の叙事詩
作者ジョン・ミルトン(1608–1674)は、清教徒革命期にパンフレットで王権神授や検閲を批判し、クロムウェル政権ではラテン秘書官として対外文書を担当しました。共和政の崩壊と王政復古(1660年)後、彼は一時投獄され、公職から退きます。この政治的失意と晩年の失明が、『失楽園』の内的緊張—自由意志を称えつつも人間の堕落と救済を俯瞰する距離—を深めました。執筆は1650年代から構想され、1660年代に本格化し、1667年に10巻本で刊行、1674年に12巻本へ改訂されました。ホメロスやヴァージルの叙事詩を英語に継承する意図から、韻を踏まない五歩格の無韻詩を採用し、「英語叙事詩の正典」を目指した点が画期的です。
宗教思想の点では、ミルトンはプロテスタント的な聖書至上主義と個人の良心を重んじ、教会制度や王権への過度な服従を批判しました。他方で三位一体の解釈や自由意志、離婚や女性観などで独自の意見を持ち、同時代の神学論争とも交差します。彼の知的背景には、聖書・ギリシアラテン古典・ルネサンス人文主義・近世自然学(天文学)までが広く含まれ、詩には学識の網が緻密に織り込まれています。
物語の骨子と主要人物:天上の叛乱から楽園追放へ
叙事詩は、神に叛いて敗れたサタンと堕天使たちが、地獄の火の湖で目を覚ます場面から始まります。サタンは悪魔たちを鼓舞し、「天を支配できないなら地獄を支配しよう」と演説して反逆の大義を捨てず、評議会(パンデモニウム)で次の策を議論します。直接の再戦か、奸計による破壊か—最終的に、神が新たに創った人間を堕落させることで神の計画を傷つける方針が採択され、サタン自身が冥府の門を越えて宇宙へ旅立ちます。
一方、天上では神と御子(子なる神)が人間の試練と救済をあらかじめ見通し、自由意志を損なわずに救いがもたらされる筋立てを示します。大天使ラファエルは地上の楽園(エデン)に降り、アダムとイヴに天上の戦争—サタンの叛乱とミカエルらによる討伐—を物語り、服従と節制の大切さを説きます。しかし、サタンは蛇に身をやつし、イヴの自尊心と言語の柔らかさにつけ込んで禁断の木の実を食べさせ、イヴを失いたくないアダムも後を追います。二人は羞恥と罪責を知り、互いを責め合った末に涙と悔いの言葉を見いだします。
終盤では、御子が裁きを言い渡す一方で、来るべき救済(受肉と贖罪)が予示され、人類史の大きな見取り図が開示されます。大天使ミカエルはアダムに未来の歴史—ノアの洪水、族長、出エジプト、王国、預言、救い主の到来—を幻視させ、人類の罪と恩寵の物語を伝えます。最終巻でアダムとイヴは楽園を後にしますが、手を取り合って「生計を同じく求める」決意を固め、世界へ歩み出します。この両義的な結末—喪失と開始—が、作品の余韻を形づくっています。
主題と詩学:自由意志・服従・言葉、そして「サタン的壮麗」
第一の主題は自由意志と服従です。ミルトンは、人間が神の像に似せて創られたがゆえに自由に善を選べると考えます。禁令は恣意的な束縛ではなく、自由の試金石として置かれています。堕落は理性の欠如というより、自己愛と傲慢による秩序転倒です。他方、服従は盲従ではなく、理性に裏づけられた自由な合意—愛としての服従—として描かれます。アダムとイヴの関係も、上下関係と相互性の緊張の中で揺れ動き、近代的な伴侶観を先取りする読みも可能です。
第二の主題は言葉と想像力です。サタンの雄弁は、レトリックの力と危うさを体現します。彼の演説は勇気と自律を称えつつ、原因と結果、目的と手段をすり替える誘惑言語でもあります。イヴを口説く場面は、言葉が欲望を呼び起こし、自己像を歪め、現実を魔術的に変形するプロセスのドラマです。ミルトンは、詩そのものの言葉—比喩・古典的典拠・聖書表現—を総動員しつつ、言葉の倫理に自覚的です。
第三は権威への反逆とその魅惑です。サタンは多くの読者にとってカリスマ的に見え、「ミルトンは無自覚のサタン擁護者か(ブレイクの逆説)」という有名な論争を生みました。確かに前半の地獄評議会から宇宙探検まで、サタンは英雄叙事詩のような活力をまといます。しかし物語が進むほど、彼の壮麗は自己欺瞞と空虚に崩れ、「地獄とは心の状態」という台詞どおり、彼自身が自我の牢獄に閉じ込められていく姿が明らかになります。この魅惑と解体の二段構えが、作品の倫理的緊張を作ります。
詩学の面では、無韻詩による長い期間法(エンジャムメント)と倒置、広範な典拠(ホメロス、ヴァージル、オウィディウス、聖書、近世地理書・天文学)を駆使した総合のスタイルが特徴です。宇宙の描写には当時の天文学(コペルニクス、プトレマイオスの折衷)への目配りが見られ、叙事詩の召喚(インヴォケーション)やカタログ、英雄会議といった古典的技法が、聖書叙述と結び合わされています。英語の語彙・統語・音調を極限まで拡張した点で、以後の英詩に計り知れない影響を与えました。
受容と影響:文学・思想・美術・政治文化への波及
『失楽園』は18〜19世紀にかけて英語圏の教育の柱となり、ミルトン的修辞は雄弁術の模範とされました。ロマン派の詩人(ブレイク、ワーズワース、シェリー、キーツ)は、サタン像や自由の観念、想像力の力をめぐって本作と対話し、批判や継承を繰り返しました。ブレイクは「ミルトンは無自覚に悪魔の党に加担した」と挑発的に書き、シェリーはサタンに「最初の反逆者」の高貴を見出そうとしました。他方で、トマス・ハクスリーらはミルトンの神義論の緊張に注目し、近代の宗教批判とも重ね合わせて読まれました。
小説・演劇・映画・ゲームでも、本作のモチーフ—堕天使、禁断、楽園追放—は繰り返し再利用されます。美術ではギュスターヴ・ドレの銅版画が決定版のイメージを提供し、鮮烈な光と闇の対照で物語の劇性を可視化しました。音楽ではヘンデルやハイドンのオラトリオ、20世紀以降の映画音楽まで、楽園と堕落の図式が素材となっています。政治文化では、自由・服従・反逆の語彙が革命思想、共和主義、言論の自由論と絡み合い、検閲反対論『アレオパジティカ』と並んで引用され続けます。
翻訳と比較文化の面でも、『失楽園』は日本を含む世界各地で受容されました。明治期以降の英学者が抄訳と講義で紹介し、ドレ版画の図像は日本の挿絵や装幀にも影響を与えました。タイトル「失楽園」は一般語としても広まり、のちの文学・映像作品の題名や比喩として定着しています(ただし、近現代日本文学の同名作品は主題・ジャンルが異なります)。
読み方の手引き:構成・キーワード・典拠の地図
初学者がつまずきにくい読み方として、まず12巻の軸を押さえると理解が進みます。第1–2巻は地獄の叛徒と評議会、サタンの宇宙航行。第3–4巻は天上の遠謀とエデン到着。第5–8巻はラファエルによる教示(天上戦争の回想、宇宙・天使学、アダムの好奇心と節度)。第9–10巻は誘惑と堕落、その直後の破局と裁き。第11–12巻はミカエルの歴史幻視と楽園追放です。物語は時間を往復し、視点と舞台を大きく切り替えるため、巻頭の要約(argument)を読み、人物と場面の位置関係をメモすると負荷が下がります。
キーワードは、自由意志(free will)/服従(obedience)/理性(right reason)/節度(temperance)/自愛(self-love)/高慢(pride)/レトリック(rhetoric)などです。典拠は、創世記・ヨブ記・黙示録に加え、ホメロス『イリアス』、ヴァージル『アエネーイス』、オウィディウス『変身物語』、ルカーノス『内乱』、近世地理・天文学(プトレマイオス球体論、コペルニクス仮説)など。これらを「知識として暗記」する必要はありませんが、詩が古典と聖書を自由に橋渡しするダイナミズムに気づくと、比喩と場面転換の意味が鮮明になります。
翻訳で読む場合は、無韻詩の長い息—倒置と反復、硬い抽象語と肉感的な描写の緩急—に注意して、句点ごとに視点を整えるとよいです。原文では五歩格の緩やかなリズムが、天上と地獄、宇宙と楽園のスケールをつなぐ役割を果たしています。擬人化や大規模な列挙(カタログ)の場面では、絵画や地図を思い浮かべながら読むと理解が進みます。
最後に、『失楽園』は「堕落の物語」でありつつ、同時に「学びの物語」でもあります。アダムとイヴは、失敗と和解を通じて無垢から成熟へと移行し、世界の困難さを引き受ける強さを獲得します。読者もまた、サタンの言葉の魅力とそのほころびを見抜く「ことばの倫理」を試されます。歴史・宗教・文学の接点に立つ本作は、17世紀の産物でありながら、自由と責任、欲望と言語、権力と反逆という普遍的な問いを、今日の私たちにも手渡してくれるのです。

