疾病保険(しっぺいほけん)は、人が病気やけがで診療を受けたときの費用や、就労できない期間の所得を補填することを目的とする保険制度の総称です。民間の任意保険を含む広い意味でも使われますが、世界史・制度史の文脈では、とくにビスマルク体制下のドイツ(1883年)に始まる「社会保険としての疾病保険(Sickness Insurance)」を指すことが多いです。医療費の家計破綻を防ぎ、疫病による社会不安を抑え、産業労働力を守るために、雇用主・被用者・国家が費用を分担して被保険者集団を作る仕組みが核になります。今日では、国民皆保険や医療保険制度の一部として制度化され、医療の提供体制(病院・医師・薬局)や公衆衛生、福祉と密接に連動しています。
定義と基本構造:だれが払い、なにを保障し、どう運営するか
疾病保険の基本は、偶発的な医療支出と病気による就労不能のリスクを多人数でプールし、加入者が保険料を拠出して必要時に給付を受ける点にあります。保険数理の観点では、大数の法則を活かして個々の大きなリスクを小さな定額負担に平準化します。制度設計の主要素は、(1)加入単位(職域/地域/国民全体)、(2)拠出(雇用主・被用者の保険料、税、国庫負担の比率)、(3)給付範囲(診療費、薬剤費、入院費、リハビリ、出産、病気休業中の所得補償など)、(4)支払方式(出来高払い、包括払い、出来高+総額管理、DRG/診断群分類など)、(5)保険者(公的基金、健康保険組合、政府機関、保険者機能を持つ自治体)です。
公平と効率の調整は、自己負担(定率・定額・上限)、高額療養費の上限、保険外併用、紹介状の有無、かかりつけ医制度、ジェネリック医薬品の促進、予防サービスの無償化などで行われます。逆選択(病気の人ほど加入し健康な人が離れる)を防ぐために、強制加入や保険者間のリスク調整が採られます。他方、過剰受診・過剰供給というモラルハザードを抑制するインセンティブ設計が不可欠で、支払方式とガイドライン、レビュー(審査・監査)が重要になります。
疾病保険は医療の供給側と相互依存です。価格設定(診療報酬・公定薬価)、医療計画(病床数、専門医の配置)、情報基盤(レセプト・電子カルテ・共通ID)、品質管理(指標・ベンチマーク)、患者安全、救急・周産期の責任分担など、保険者と医療提供体制の協働で制度の成否が決まります。
歴史的展開:ビスマルク型からベヴァリッジ型、そして皆保険へ
近代的な疾病保険の画期は、ドイツ帝国で1883年に制定された疾病保険法です。工業化に伴う労働災害・感染症・都市貧困が深刻化するなか、政府は社会主義運動への対抗と労働者の生活安定を目的として、雇用主と労働者の拠出を基礎に職域ごとの「保険金庫(クランケンカッセ)」を組織しました。給付は診療・薬剤の現物給付に加えて、病気休業中の短期所得補償も含み、医師会・病院と契約を結ぶ仕組みが整えられました。これがいわゆる「ビスマルク型」の原型で、加入は原則強制、保険者は多数の準公的基金、財源は主に社会保険料という特徴を持ちます。
このモデルはオーストリア、フランス、イタリア、ベルギー、北欧などヨーロッパ各国に波及し、20世紀初頭にはイギリスでも1911年に国民保険法が成立しました。第二次世界大戦後、イギリスはベヴァリッジ報告に基づき、税財源を基軸にした国民保健サービス(NHS、1948年)を創設します。これは「ベヴァリッジ型」と呼ばれ、国民全体を対象に、税を主財源として医療を原則無料で提供し、医療提供体制の公的色彩が強いのが特徴です。両者は対立モデルではなく、現実の多くの国は両型の折衷で運営しています。
アメリカ合衆国では、公的な全国民医療保険は成立せず、雇用主提供の民間保険が戦後に普及し、1960年代に高齢者向けメディケア、低所得者向けメディケイドが整備されました。21世紀には無保険対策と規制改革が進み、加入拡大と差別的引受の禁止、最低基準の設定など、社会保険的な要素が強まりましたが、依然として多層的で州差の大きい制度です。
日本では、工場法や救済制度を経て、1922年に健康保険法が制定(1927年施行)され、被用者向けの疾病保険が本格化しました。戦後は国民健康保険の拡充と被用者保険の整備が進み、1961年に国民皆保険が実現します。以後、診療報酬の改定、薬価制度、保険者機能の強化、介護保険の創設(2000年)など、制度の持続可能性と公平性の調整が続けられてきました。
中南米やアジアでは、社会保険と税財源型の混成が一般的で、都市部の被用者保険から出発して、非正規・農村部へ対象を広げる段階を経ることが多いです。世界保健機関(WHO)は「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)」—必要な保健医療サービスに財政的困難なしにアクセスできる状態—を目標に掲げ、感染症対策、母子保健、慢性疾患、リハビリ、緩和ケアを含む包括的保障の重要性が認識されています。
制度設計の論点:公平・効率・質をどう両立させるか
加入と拠出では、強制加入が原則化するほど逆選択は抑えられますが、保険料の賦課方式(賃金比例・人頭・所得総合)や賦課対象(賃金のみか所得全体か)、雇用主負担の割合、国庫負担の規模が争点になります。低所得者の負担軽減、保険者間のリスク調整(高齢・持病・出産の多い集団への補填)、保険料滞納への対応は、制度への信頼を左右します。
給付設計では、どこまでを保険で賄い、どこからを自己負担や民間保険に委ねるかが核心です。予防接種・がん検診・生活習慣病対策などの予防サービスを保険給付として無償化する政策は、長期的には疾病負担を下げる投資とみなされます。出産・育児・メンタルヘルス・リハビリ・在宅医療・緩和ケアの位置づけも、人口構造と価値観の変化に応じて見直されます。病気休業中の所得補償(傷病手当金など)を疾病保険の一部として設計するか、雇用保険や労災保険とどのように分担するかも国により異なります。
支払方式と医療の効率では、出来高払いは提供量を増やす誘因が強く、医療の過剰化・地域差を生む一方、包括払い(DRG、診断群分類包括評価)や包括的予算は過少提供のリスクを伴います。混合型(出来高+包括+質指標連動)、患者一人当たり包括(キャピテーション)を導入し、質の指標(再入院率、感染率、患者満足、アウトカム)を支払いに連動させる「価値に基づく医療(Value-based)」の試みが広がっています。医薬品と医療機器は、特許・価格交渉・保険償還の三点でバランスをとり、希少疾患や画期的新薬へのアクセスと財政制約の調整が課題です。
提供体制とガバナンスでは、かかりつけ医・ゲートキーパー制の有無、病院の集約と地域医療連携、救急・周産期ネットワーク、遠隔医療の導入、地域包括ケア、データ連携基盤(電子カルテの相互運用、匿名化と研究利用)などが中核です。保険者機能の強化(疾病管理、重症化予防、受診勧奨、健診とフォローアップ)と、自治体・公衆衛生部門・学校・職域との協働は、慢性疾患の増大に対処する鍵になります。
財政の持続性では、高齢化と医療技術の進歩が支出を押し上げる一方、経済成長や賃金の伸びが鈍いと財源は制約を受けます。自己負担の上限、保険外費用の管理、保険者統合とスケールメリット、詐欺・不正請求対策、価格交渉力の集中、予防投資の優先順位づけなど、複数の手段を組み合わせる必要があります。
社会・経済への波及:家計保護、産業と雇用、危機対応
疾病保険は、家計の予見可能性を高め、病気が貧困の原因になる悪循環を断ち切る役割を果たします。医療費破産の減少は、消費と労働供給の安定に寄与します。企業にとっては、従業員の健康管理や休業補償が労働生産性の維持・向上につながり、職場復帰支援(リハビリ、柔軟な勤務)との連携が重要です。医療産業側には、保険償還が安定需要を生み、医療投資・研究開発のインセンティブになりますが、価格・品質・アクセスのバランスを求められます。
感染症や災害の非常時には、疾病保険がキャッシュフローのセーフティネットとなり、検査・治療の費用障壁を下げることが感染拡大の抑制に資します。臨時の公費負担や無償化、遠隔診療の時限解禁などは、保険制度の柔軟性と連動して実施されます。パンデミック後には、後遺症やメンタルヘルスへの継続的対応が求められ、予防接種・公衆衛生と保険給付の接合が再設計されます。
デジタル化は、保険の運営に大きな影響を与えます。レセプトデータと電子カルテの二次利用、AIによるトリアージや診断支援、慢性疾患の遠隔モニタリング、ウェアラブルからのライフログ活用は、質と効率を高める可能性がある一方、プライバシー・データ主権・アルゴリズムの公平性という新たな課題をもたらします。インセンティブ設計を誤ると、データアクセスの格差や差別的な引受につながるおそれがあるため、透明性と監督が不可欠です。
誤解の整理:よくある素朴な疑問に答えます
第一に、「疾病保険があれば医療はすべて無料になるのか」という疑問があります。多くの国で、自己負担や非保険部分が存在し、上限や軽減策で家計保護と過剰受診抑制の両立を図っています。第二に、「民間保険があれば公的疾病保険は不要か」という論点では、任意加入だけでは逆選択で高リスク層が保護されにくく、社会全体としては強制加入と再分配を組み合わせる公的制度が基盤になります。第三に、「医療費は技術進歩で必ず高騰するのか」については、確かに新技術は費用を増やすことが多い一方、予防・早期介入・在宅ケア・デジタル化による効率化で抑制する余地もあり、制度設計次第です。
第四に、「ビスマルク型とベヴァリッジ型はどちらが優れているか」という比較は単純化です。国の歴史・財政・医療資源の分布・政治文化により最適解は異なり、実際には両者の要素を組み合わせたハイブリッドが主流です。第五に、「保険は医療者の裁量を縛り、質を下げるのではないか」という懸念もありますが、適正化のルールと臨床の専門性を接続する指標設計、現場の参画、アウトカム評価が整えば、質の向上と費用対効果の両立は可能です。
疾病保険は、医療・福祉・労働・財政が交差する複合制度です。歴史の中で形成された二つの基本モデルと、それらを折衷しながら各国が試行錯誤してきた過程を理解すると、制度の違いを単純な優劣で捉えず、社会の選好と資源制約に応じた現実的な設計を考える手がかりが得られます。

