「共産党インターナショナル(コミンテルン)」は、1919年にモスクワで結成された世界規模の共産主義政党の連合体で、簡潔に言えば「世界革命をめざす政党の国際本部」として機能した組織です。各国共産党に対して方針や戦術を示し、資金・人材・出版・訓練を通じて支援・統制を行いました。創設期には帝国主義と資本主義の打倒、ソビエト共和国の防衛、植民地支配からの民族解放を掲げ、1930年代にはファシズムの台頭に抗して人民戦線戦術を提唱しました。第二次世界大戦のさなか、連合国との協調を優先したソ連政府の判断により1943年に解散します。コミンテルンは世界政治・労働運動・反帝国主義運動に大きな影響を与える一方、各国党の自立性をめぐる緊張、ソ連外交への従属、路線転換の急激さなど多面的な評価を招きました。以下では、成立と理念、組織と運用、路線の変化と主要事件、世界各地への影響、解散と遺産の順に整理します。
成立と理念――世界革命の司令塔として
コミンテルンは、ロシア革命(1917年)に続く世界革命の波を受け、1919年3月にモスクワで第1回世界大会を開いて発足しました。レーニンは、第一次世界大戦が示した資本主義の矛盾と帝国主義の対立を「世界革命の成熟」と捉え、旧来の第2インターナショナルの改良主義を批判しました。コミンテルンは「各国の革命党は大衆運動に根ざし、議会活動や労組闘争を戦術として活用しつつも、決定局面では武装蜂起も辞さない」という方針を掲げ、民主集中制を組織原理に採用しました。
1920年の第2回大会では、加盟の「21カ条」が提示されました。これには、党の厳格な組織化、議会主義への批判的参加、労働組合内での活動強化、日刊機関紙の保持、民族・植民地問題への積極方針などが含まれ、加盟希望政党への実質的な「改造」を求めました。とくに民族・植民地問題については、反帝国主義と民族自決を結び、植民地・半植民地の解放運動とプロレタリア革命の結合を強調しました。
創設期の指導中枢は、レーニン、トロツキー、ジノヴィエフ、ブハーリンらボリシェヴィキ指導者で、モスクワの執行委員会(ECCI)が世界方針を決定しました。当初は世界的な革命の連鎖(ドイツ革命やハンガリー評議会共和国など)を想定しましたが、1920年代初頭には反動と弾圧の強まりに直面し、各国での合法・非合法を併用した長期戦へ移行していきます。
組織と運用――中枢、学校、地下ネットワーク
コミンテルンの最高機関は世界大会で、その合間を執行委員会(ECCI)とその幹部会が執行しました。地域別のビューロー(西欧、東欧、極東、ラテンアメリカなど)が置かれ、各国共産党に常駐代表を派遣して指導と連絡を担いました。文書指令や電信の他、連絡員や暗号・偽名・秘密印刷所を用いた地下通信網が整備され、迫害下の活動を支えました。
人材養成では、モスクワの東方勤労者共産大学(KUTV)や西方勤労者共産大学、国際レーニン学校が重要でした。ここで理論・組織・諜報・印刷・煽動技術などの研修が行われ、卒業生は各国党や植民地解放運動の指導層として活動しました。財政はソ連からの拠出が基礎で、コミンテルン出版物や友誼団体を通じた資金調達も併用しました。組織運用にはOMS(組織・連絡部)や国際労働組合書記局(プロフィンテルン)、反帝国主義同盟、国際赤色救援会など、周辺の国際団体(いわゆる「フロント組織」)が結節点として機能しました。
運動面では、産業別・地域別の細胞(セッレ)を基礎単位とし、工場・港湾・鉱山・鉄道・大学・軍隊など社会の要所にネットワークを広げました。合法政党として議会に参加できる国では議会演説・選挙・大衆紙を活用し、厳しい弾圧下では地下新聞、ストライキの組織化、秘密印刷所、越境連絡などを駆使しました。民主集中制の下、討議ののちには少数意見も決定に従う規律が求められ、機動性と統一行動が重視されました。
路線の変化と主要事件――統一戦線から人民戦線へ
1921年の第3回大会は「左翼幼稚病」を批判し、大量の大衆を組織に引き入れる「統一戦線」戦術を採択しました。これは、社会民主主義者を含む労働者の共同闘争を通じて階級的力関係を変える試みで、労働組合・地域共同体レベルの共同闘争に道を開きました。1922年の第4回大会はこの路線を確認しつつ、ファシズムの台頭に対抗する必要を強調しました。
しかし、1928年の第6回大会は、世界情勢を「資本主義の一般危機の深化」と捉え、社会民主主義を「社会ファシズム」と批判する急進化へ転じました。ドイツでは共産党(KPD)が社会民主党(SPD)との共同戦線に消極的となり、結果としてナチ党の伸長を阻めなかったという厳しい歴史的教訓が残ります。コミンテルンのこの「第三期」路線は、その硬直さと現実軽視をめぐり、後に強い批判を浴びました。
方針は1935年の第7回大会で大きく転換します。ディミトロフ書記長の報告は、ファシズムを「金融資本による最も反動的・排外的形態の独裁」と規定し、社会民主主義との共同、さらには自由主義諸勢力も含む「人民戦線(人民フロント)」を提唱しました。フランスとスペインでは人民戦線政権が成立し、スペイン内戦では国際旅団が結成され、各国の志願兵が反ファシズムの旗の下で戦いました。文化領域でも国際作家会議などが開かれ、反ファシズム連帯が知識人・芸術家の国際ネットワークを生みました。
アジアでは、中国革命に対する方針が大きな重みを持ちました。1920年代、コミンテルンは第一次国共合作を仲介し、帝国主義打倒と国内統一に向けた統一戦線を推奨しましたが、上海クーデタ(1927年)で国共は分裂します。1930年代には日本の侵略に対抗するため第二次国共合作が形成され、抗日民族統一戦線が提起されました。インド、インドシナ、朝鮮、インドネシアなどでも、民族解放運動と労働運動・農民運動の結合を図る路線が推奨されました。
日本では、1922年に日本共産党が創設され、非合法期を中心にコミンテルンの支援と指導を受けました。1931年以降の満洲事変・日中戦争の過程で、反戦・反ファシズムの統一戦線構想が模索されましたが、厳しい治安弾圧と内部路線対立により活動は困難を極めました。植民地朝鮮や台湾でも、民族解放と階級闘争の連結という課題が提示されました。
ソ連との関係――国際主義と国家利益のはざまで
コミンテルンは理念上は各国党の国際連帯機関でしたが、実態としてはソビエト国家(とりわけスターリン期)の外交・安全保障と密接に結びつきました。1920年代後半、ソ連の国内工業化と農業集団化が優先課題となると、国際革命の推進とソ連防衛のバランスが表面化します。スターリンは組織の統制を強め、各国党の指導者人事や方針に深く介入しました。モスクワ裁判や大粛清の時期には、コミンテルン関係者にも影響が及び、亡命者や外国党員が犠牲となる事例が出ました。
1939年の独ソ不可侵条約は、コミンテルンと各国党にとって大きな衝撃でした。多くの国で反ファシズムの枠組みが揺らぎ、路線の再調整が迫られます。1941年の独ソ戦開始後、方針は再び反ファシズムの全面戦へと収斂し、連合国との協力が最優先となりました。こうした流動は、コミンテルンの国際主義とソ連国家利益の緊張を象徴しています。
解散と遺産――1943年以後、何が残ったのか
第二次世界大戦の最中、ソ連は英米との同盟関係を強化するため、コミンテルンの存在が障害とみなされることを避け、1943年にコミンテルンの正式解散を発表しました。機能の一部はソ連共産党の対外連絡部や二国間の党関係に移行し、戦後は1947年にコミンフォルム(共産党情報局)が一時的に設けられますが、これは主に欧州諸党の連絡機関にとどまりました。戦後世界では、各国共産党が国内政治において独自の路線(議会主義的共産主義、民族解放優先、毛沢東主義やティトー主義など)を展開し、東西冷戦の構図の中で多様化します。
コミンテルンの遺産は、少なくとも三つの層で評価されます。第一に、労働運動・反帝国主義運動・民族解放運動に提供した組織技術と国際連帯の枠組みです。地下活動のノウハウ、宣伝・印刷・教育・資金調達、女性や青年への組織化、国際救援ネットワークは、20世紀の社会運動の手法に大きな影響を残しました。第二に、文化と思想の国際的交流です。作家・芸術家・科学者の連帯、反ファシズム文化の高揚、人民戦線期の公共文化は、政治を越えて近代文化史に深い刻印を残しています。第三に、限界と教訓です。中央からの急激な路線転換や、各国社会の条件差への感度不足、国家利益への従属は、運動の信頼性を損ね、取り返しのつかない損失を招いた局面もありました。
総じて、コミンテルンは「世界革命」という壮大な構想を掲げ、20世紀前半の世界政治の結節点であり続けました。人びとに解放の希望と国際連帯のビジョンを与えた一方で、現実の国家間関係と党派的力学の中で揺らぎ、しばしば矛盾を抱え込んだ組織でもありました。その歴史をたどることは、国際主義とナショナルな現実、理念と手段、自由と統制のバランスという普遍的な課題に向き合うことにもつながります。

