イェルサレム王国 – 世界史用語集

イェルサレム王国は、第一次十字軍の勝利を受けて1099年にパレスチナ・南シリアの一部に建てられたラテン(西欧カトリック)王国です。首都イェルサレムと聖地巡礼路を核に、地中海沿岸の港湾群とヨルダン川東岸(オルトレジュルダン)に広がる城砦線を結び、12世紀前半には最盛期を迎えました。人口の多数は地元のアラビア語系・シリア語系の住民と各東方教会の信徒で、西欧から来住した「フランク(ラテン人)」は支配階層と軍事・都市の中核を担う少数派でした。王国は宗教的動員から生まれた国家でありながら、日常の統治は法(アッシーズ)と諸都市の自治、軍事修道会、地中海貿易によって支えられていました。

12世紀末、サラーフッディーン(サラディン)率いるアイユーブ朝の反攻で1187年に壊滅的打撃を受け、首都イェルサレムを喪失します。以後はアッコン(アクレ)を事実上の首都とする沿岸国家へと変貌し、第三次十字軍や神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の外交で一時的に聖地の権利を回復するものの、13世紀後半にはマムルーク朝の軍事圧力に抗しきれず、1291年のアッコン陥落をもって本土領は消滅しました。王位自体はキプロス王家や欧州諸王家に名目的に継承され、「東方のラテン国家(アウトル=メール)」の象徴として長く記憶されました。

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成立と拡張:第一次十字軍から「聖地の王国」の確立

1099年、十字軍はイェルサレムを攻略し、ラテン総主教座を設置して王国の枠組みを整えました。初代は自らの謙抑を示すため「守護者(聖墳墓の擁護者)」を称したゴドフロワ・ド・ブイヨンで、実質的王権は弟のバルドゥアン1世(1100–1118年)が継承します。バルドゥアン1世と2世、アンジュー伯フールク(1131–1143年)、バルドゥアン3世、アモーリー1世と続く王たちは、内陸の城砦線と沿岸港湾の掌握に注力しました。ヤッファ、アスカルン、カエサレア、アッコン、ティールなどの港は巡礼と商船の出入り口となり、オルトレジュルダン(モンレアル〈ショーバク〉、ケラーク)やガリラヤ(ベルヴォワール)などの要地に石造の大城砦が築かれました。

イェルサレム王国は、北のアンティオキア公国・トリポリ伯国、西の地中海港湾、南の紅海への出入口(アカバ湾)と連動しつつ、ファーティマ朝(エジプト)やセルジューク系政権とのあいだで停戦と遠征を繰り返しました。12世紀半ばには皇帝国・諸侯の十字軍(第二次十字軍)を迎えますが、内陸遠征は不首尾に終わり、以後は都市・城砦の維持と外交の技巧が一層重要になります。王国は単なる「聖戦国家」ではなく、東地中海の実利と安全保障の均衡で生きる政体へと成熟していったのです。

宮廷政治の面では、王家の継承と婚姻が外部勢力を引き込みました。とりわけ「癩王」バルドゥアン4世(1174–1185年)の治世は、病弱な王を支える摂政・外戚・伯侯の駆け引きが錯綜し、サラーフッディーンと対峙する戦略の選択をめぐって分裂が深まりました。1187年、提督ギー・ド・リュジニャンらの失策と補給の破綻が重なり、ティベリア北方のハッティーンで十字軍主力は壊滅、続くイェルサレム開城で王国は中核地を失います。

制度と社会:アッシーズ、高等法院、港湾都市と騎士修道会

イェルサレム王国の統治は、王権の意思決定を担う高等法院(オートクール)と、のちに『イェルサレムのアッシーズ(アッシゼ)』として整理される法慣行に支えられました。高等法院は世襲の大諸侯・聖職・王領官が出席する「諸侯会議」で、封土の授与・軍役・征税・外交の大方針を審議しました。都市の市民(ブルジョワ)や非ラテン住民には別途の法廷(クール・デ・ブルジョワ、コミュナル法廷、宗派法廷)が設けられ、身分・宗教に応じた法的多元制が運用されました。こうした制度は、少数支配の安定と交易の予見可能性を高めるうえで不可欠でした。

社会構成は多層的でした。西欧から来た騎士・修道士・商人・職人は都市と城砦で集住し、地方の農村ではアラビア語・シリア語を話すムスリムや東方キリスト教徒(メルキト、シリア正教、アルメニア、マロン派など)が耕作を続けました。ラテン教会の司教区と各東方教会の聖職制度が併存し、巡礼と市場の日程が宗教歴と連動して都市のリズムを作りました。ムスリム住民には人頭税や地租の形で課税が行われ、信仰と社会秩序の妥協が現実的に模索されました。

軍事の要は、封建的な動員(騎士の軍役)と軍事修道会です。テンプル騎士団(神殿騎士団)は、聖殿の丘付近の旧神殿(アル=アクサー)を拠点に創設され、巡礼保護と前線駐屯を担いました。病院騎士団(聖ヨハネ/ホスピタル騎士団)は施療所に起源を持ちながら防衛の主力となり、のちにドイツ騎士団も加わります。彼らはヨーロッパからの寄進と広域の資産運用で資金を調達し、最新の攻城・防御技術を導入して城砦網を維持しました。沿岸ではアトリット(シトー・ペレラン)、アルスーフ、カエサレア、アッコンの巨大な城壁と港が、遠征軍・巡礼の玄関口として機能しました。

経済は、地中海交易と在地農業の接続で成り立ちました。砂糖黍のプランテーションと製糖所(サトリーン)、オリーブ・葡萄・小麦の生産、ナツメヤシや香料の流通が税収の柱で、ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサの商人団は特権街区(フォンデュク、ロッジア)を持ち、関税収入と海上護送を分担しました。貨幣はビザンツ金貨(ベザント)をモデルにした金貨・銀貨が流通し、地中海世界の価格体系に組み込まれていました。巡礼は経済にとっても重大な「需要」であり、宿泊・護衛・供給の一大産業を生みました。

危機と再編:1187年の喪失、第三次十字軍、沿岸国家への転生

ハッティーンの敗北とイェルサレム喪失(1187年)は王国の根幹を揺るがしました。第三次十字軍でリチャード1世(英)、フィリップ2世(仏)らが参戦し、アッコンを奪回(1191年)して沿岸に拠点網を再建します。最終的にサラーフッディーンとのラームラ条約(1192年)で、ヤッファからティールに至る沿岸回廊と巡礼の安全通行が確認され、王国は「アッコン王国」とも言うべき港湾国家へと再編されました。首都アッコンは多国籍の商人・修道会・朝聖者が交錯するコスモポリタン都市となり、自治的なコミューンと王権・諸侯・騎士団が微妙な均衡で共存しました。

王位はキプロスのリュジニャン家(ギー、ついで弟のアマルリック〈アイメリー〉)に移り、キプロス王国と人と資本・艦隊を共有します。13世紀前半、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がイザベラ2世との婚姻を通じて王位に介入し(1228–1229年)、交渉によってイェルサレムを含む一部内陸を返還させました(ヤッファ条約)。彼は十字軍の常識を覆す「外交的奪還」を成功させましたが、現地諸侯(イベリン家)との対立を激化させ、王国内戦(ロンバルディア人の戦い)を誘発します。さらに1244年、ホラズム軍の襲来でイェルサレムは再び陥落・破壊され、以後、聖都はラテン王国の恒常的支配から事実上外れました。

13世紀後半、マムルーク朝の名将バイバルス、ついでカーラウーン父子は、内陸・沿岸の城砦を系統的に攻略します。カエサレア、アルスーフ、サイダ、トルトーサ、サフド(ツァファッド)、そして要のアッコンへと圧力が迫り、1291年、壮烈な攻城戦の末にアッコンは陥落しました。これによりイェルサレム王国の本土は消滅し、騎士団はキプロス(のちロドス、マルタ)・欧州へと退去します。港湾・城砦の破却は徹底され、十字軍時代の石造モニュメントは多くが失われました。

亡命と継承、歴史的特徴:少数支配・法と交易の王国

アッコン陥落後、王位はキプロスのルジニャン家、ついでナポリ=アンジュー家など欧州諸王家に名目上継承され、「イェルサレム王」の称号は外交的権威の飾りとして残りました。キプロスは実務上の「亡命政府」として港湾・造船・砂糖栽培・金融で東地中海に存在感を保ち、聖地再征服の計画は時折語られましたが、実現することはありませんでした。

イェルサレム王国の歴史的特徴を要点で整理します。第一に、宗教動員から出発しても、持続の条件は法・税制・軍事・交易という世俗の制度にあったことです。王国は高等法院とアッシーズで諸侯支配を制度化し、身分別・宗派別の法廷を併置することで多様な住民を統治しました。第二に、少数のフランク支配層が多数の在地社会を管理するため、港湾都市と騎士団・イタリア商人に依存する「細長い」国家構造を採ったことです。第三に、外部環境—シリア・エジプトの統一や軍事革命—に脆弱で、統合されたイスラーム国家(アイユーブ朝・マムルーク朝)の圧力の前に防衛線を維持しきれなかったことです。第四に、それでも王国は都市文化と国際交易のハブとして、建築・法・貨幣・技術・食文化の往来を促し、東西交流の「場」を実体化させました。

最後に用語上の注意を挙げます。「イェルサレム王国」は厳密には1099–1187年の内陸中心期と、1187–1291年の沿岸再編期に大きく分かれます。首都・行政・軍事の構造、居住地図が異なるため、同じ名称の下でも時代像の差を意識する必要があります。また、クラック・デ・シュヴァリエやマルガブなど著名城砦の多くは隣接するトリポリ伯国内に属し、王国内の代表例はケラーク、モンレアル、ベルヴォワール、アトリット、アッコン城壁群などである点も区別が求められます。こうした具体の地理と制度に注意して学ぶことで、十字軍国家をめぐる通俗的イメージを超え、当時の人びとが現実に直面した統治と日常のダイナミクスが見えてきます。