「シリア教会」とは、古代から中世にかけてシリア語(シリア文字)を典礼・聖書・神学の主要な言語としてきたキリスト教諸教会の総称です。地理的には現在のシリア・イラク・トルコ南東部・イラン西部など、かつてのメソポタミアとシリア地方を中心とし、その影響はアラビア半島や中央アジア、インド、さらには中国にまで及びました。世界史の文脈では、とくに東方への宣教を担った「東方教会(アッシリア東方教会)」や、単性論的立場に立つ「シリア正教会(シリア正教)」などが、「シリア教会」の代表的存在として挙げられます。
シリア教会は、ギリシア語圏のビザンツ教会やラテン語圏のローマ教会とは異なる文化的基盤を持ち、シリア語で書かれた聖書訳(ペシッタ)や教父文書、典礼詩、賛歌など独自の伝統を発展させました。初期キリスト教のさまざまな神学的議論――キリストの本性をめぐる論争や、カルケドン公会議後の分裂――の中で、シリア教会は「東方教会」「非カルケドン派教会」などとしてローマ=コンスタンティノープル中心のキリスト教世界から距離を置くことになりましたが、その一方で、異文化世界との接触においては非常に柔軟で、多言語・多宗教環境の中で活動する宣教ネットワークを築きました。
以下では、まず古代シリア語キリスト教の起源と特徴を整理し、そのうえで公会議を通じた教会の分裂と東方教会・西方シリア教会の形成、さらに東方シリア教会によるアジアへの宣教(いわゆる景教)とインドへの伝播、西方シリア教会やマロン派などの諸教会の展開、最後に近代以降のシリア教会の状況と世界史上の意義について、順に見ていきます。
シリア語キリスト教の起源と特徴
キリスト教は、1世紀のパレスチナで誕生したのち、急速に地中海世界と近東に広がりました。シリア地方の都市アンティオキアやエデッサ(現在のトルコ南東部ウルファ)は、早くからキリスト教の重要な中心地となり、ここで話されていたアラム語系の言語が、のちに「シリア語」として聖書翻訳や神学著作の言語となっていきます。新約聖書『使徒行伝』によれば、「キリスト者(キリスチャン)」という呼び名が最初に使われたのはアンティオキアであるとされ、この地域が初期キリスト教史において重要な役割を果たしていたことがわかります。
シリア語キリスト教の大きな特徴の一つは、聖書のシリア語訳「ペシッタ」の存在です。ペシッタは旧約・新約を含む聖書をシリア語に翻訳したもので、4〜5世紀ごろまでに現在の形が整ったと考えられています。これにより、ギリシア語やラテン語を解さない人びとも、自分たちの言葉で聖書に親しむことができるようになり、シリア語圏でのキリスト教の普及と神学の発展が促進されました。
また、シリア語教父たち――たとえばエフライム・シリコ(シリアのエフレム)など――は、詩や賛歌、象徴的なイメージを多用した独自の神学表現を発展させました。彼らの作品は、単なる教義説明にとどまらず、詩的・霊性的な表現を通じて信仰を深めることを目的としており、「歌う神学」「祈る神学」とも呼べる性格を持ちます。このような文学的・霊性的伝統は、のちの修道制や典礼文化にも大きな影響を与えました。
シリア教会の社会的背景としては、多民族・多宗教が混在するメソポタミアとシリアの環境が挙げられます。ここには、ユダヤ教徒、異教徒(ゾロアスター教徒や多神教徒)、さまざまなキリスト教派が共存していました。このため、シリア教会の神学や宣教は、異なる文化・宗教への対話や適応を常に意識せざるをえず、その柔軟性と独立性は後の東方宣教においても重要な要素となりました。
公会議と分裂―東方教会と西方シリア教会
4〜5世紀、キリスト教はローマ帝国の国教となる一方で、キリストの本性をめぐる教義論争が激しくなります。431年のエフェソス公会議では、コンスタンティノープル大主教ネストリウスの教えが異端とされました。ネストリウスはキリストにおける神性と人性の区別を強調したとされ、その弟子や支持者の多くはシリア語圏やペルシア領内に活動拠点を移していきます。
この流れの中で、メソポタミア東部(サーサーン朝ペルシアの領域)に中心を置く教会は、のちに「東方教会」として独自の発展を遂げていきました。彼らは、カルケドン公会議(451年)以降、西ローマ・ビザンツ側教会との距離をさらに深め、「ネストリウス派」と呼ばれることもありますが、自称としては「東方教会」あるいは今日では「アッシリア東方教会」と名乗っています。
一方、シリア西部(主にローマ帝国東半の領域)を中心とする教会では、カルケドン公会議のキリスト論(キリストの両性=神性と人性)をめぐって激しい論争が起こりました。カルケドンの定式に反対する勢力の一部は、「単性論(ミア・フィシス)」的な立場を取り、キリストの神性と人性の結合を強調しました。この立場に立つシリア語系教会が、のちの「シリア正教会(シリア正教)」です。彼らは「非カルケドン派教会」あるいは「東方諸正教会」の一員として、ビザンツ帝国の国教会(ギリシア正教)とは別の道を歩むことになります。
このように、5世紀の公会議を契機に、シリア教会は大きく二つの流れ――ペルシアやさらに東方へ展開する東方教会(東シリア系)と、シリア・アナトリア・エジプトなどで活動する西方シリア教会(西シリア系)――に分かれました。両者は典礼様式や教会組織、神学表現に違いを持ちながらも、ともにシリア語の伝統を共有し、多様な形で東方キリスト教世界を構成する重要な要素となったのです。
東方シリア教会の東方伝播―ペルシア・中央アジア・中国・インド
東方教会(アッシリア東方教会)は、サーサーン朝ペルシアの支配下で発展しました。ペルシアはゾロアスター教を国教とする帝国でしたが、政治的対立からビザンツ帝国の教会と距離を置く必要があり、その意味で「ビザンツ教会から独立したキリスト教勢力」である東方教会は、ある種の容認を受けやすい立場にありました。東方教会はペルシア各地に司教区を設け、王都テシフォン近郊に「カトリコス(総主教)」を置いて組織を整えました。
東方教会の最大の特徴は、宣教とネットワークの広がりにあります。彼らはシルクロード沿いに修道院や教会を設立し、メソポタミアからイラン高原、中央アジア、さらには中国西域へと進出していきました。唐代の中国で「景教」と呼ばれたキリスト教は、まさにこの東方教会の一派であり、長安に建てられた「大秦景教流行中国碑」は、その存在を今日に伝える貴重な史料です。
また、東方シリア教会はインド南西部マラバール海岸(ケーララ地方)にも早くから伝播し、「トマス派キリスト教徒」と呼ばれる信徒共同体を形成しました。伝承によれば、使徒トマスがインドにまで布教に来たとされますが、歴史的には東方教会の宣教師たちがペルシア湾からインド洋を通る海上交易路に沿って伝道した結果、インドにシリア語系の教会が根付いたと考えられます。このインドのシリア教会は、後にポルトガル支配やローマ・カトリック教会の介入を受けながらも、現在まで独自の伝統を維持しています。
中世において、東方教会の勢力は最盛期には中央アジアのオアシス都市やモンゴル帝国支配下の地域にまで広がり、多くの民族が東方教会系のキリスト教を受け入れました。とくにモンゴル帝国の一部の王族や貴族は、東方教会に属するキリスト教徒女性を妃とすることが多く、宮廷内にキリスト教徒の影響力が存在しました。しかし、14世紀以降、イスラーム勢力の拡大やティムール朝の戦乱、中国の元朝滅亡などに伴い、東方教会のネットワークは次第に縮小し、多くの共同体が姿を消していきます。
西方シリア教会と諸教会―シリア正教会・マロン派など
一方、西方シリア系の教会は、主にシリア(アンティオキア周辺)とその周辺地域で活動しました。カルケドン派教義を受け入れた「ギリシア正教会(東方正教会)」とは別に、単性論的立場をとる「シリア正教会」が形成され、迫害や圧力を受けながらも独自のヒエラルキーと典礼を維持しました。シリア正教会は、自らを「アンティオキアおよび全東のシリア正教会」と称し、シリア語(西シリア方言)を典礼言語として用いています。
西方シリア系には、のちにローマ・カトリック教会と合同した諸教会も存在します。その代表が「マロン派教会」です。マロン派はレバノン山地を中心に形成されたシリア語系キリスト教共同体で、十字軍時代以降、ローマ教皇庁との関係を深め、最終的にカトリック教会との完全な一致(合同)に入ります。彼らは教義的にはカトリックと同じ立場を取りつつも、典礼においてはシリア語系の儀礼と音楽、祭服など独自の伝統を保持しており、「東方カトリック教会」の一例とされています。
また、シリア正教会内部からも、近代においてローマとの合同を選んだグループが生まれ、「シリア・カトリック教会」としてカトリック世界の一部を構成するようになりました。このように、シリア教会の系譜は、東方正教会・非カルケドン派諸教会・東方カトリック教会など、多様な形に分岐していますが、その根底にはシリア語を基盤とする典礼と霊性が共有されています。
西方シリア教会の典礼や聖歌は、豊かな象徴と言葉の重ね合わせを特徴とし、独特の旋律と詩的表現によって信仰を表現します。今日、これらの教会はシリア・レバノン・トルコ・イラクなど中東各地に信徒を持つほか、移民を通じて欧米やオーストラリアなど世界各地にディアスポラ(離散共同体)を形成しています。
近代以降のシリア教会と歴史的意義
近代以降、シリア教会の共同体はオスマン帝国の衰退、民族主義運動、世界大戦、強制移住や虐殺、そして現代の中東紛争など、多くの試練に直面してきました。第一次世界大戦期には、アルメニア人虐殺と並行して、アッシリア人・シリア語系キリスト教徒も多数が迫害と殺害の対象となり、故郷の村々を失いました。これにより、多くのシリア教会信徒がイラク北部やシリア、さらには欧米へと逃れ、ディアスポラが拡大しました。
20世紀半ば以降、シリアやイラクなどで成立したアラブ民族主義政権のもとで、シリア語系キリスト教徒は少数派として複雑な立場に置かれました。彼らはしばしば教育水準が高く、官僚や専門職として国家運営に一定の役割を果たしましたが、一方でイスラーム多数派との関係や民族・宗派対立の中で、身の安全とアイデンティティ保持の間で苦悩する状況が続きました。21世紀に入ると、イラク戦争やシリア内戦、過激派組織の台頭などにより、多くの教会や修道院が破壊され、信徒コミュニティが国外に流出する事態が深刻化しています。
それでも、シリア教会の伝統は、聖書学・教父研究・宗教史の分野で重要な意味を持ち続けています。シリア語で保存された古い聖書写本や教父著作は、聖書本文の比較研究や初期キリスト教神学の理解にとって欠かせない資料です。また、東方教会によるアジアへの宣教は、「西欧キリスト教史」中心の視野では見落とされがちな、ユーラシア規模での宗教交流の歴史を示すものとして再評価されています。唐代中国の景教碑文や、中央アジアのキリスト教遺跡は、その象徴的な証拠です。
世界史の学習において「シリア教会」という用語に出会ったときには、単に「シリアにあるキリスト教会」という地理的意味にとどまらず、「シリア語を共通基盤とする東方キリスト教の大きな潮流」であり、東方教会・シリア正教会・マロン派などに分かれつつも、古代から近代にかけて、中東とアジアの宗教・文化交流に重要な役割を果たしてきた存在であることを意識するとよいです。その背後には、ローマ=ビザンツ中心のキリスト教史では見えてこない、多言語・多民族世界の複雑で豊かな歴史が広がっているのです。

