康有為(こうゆうい、Kang Youwei, 1858–1927)は、清末に立憲君主制と近代化を唱え、1898年の戊戌変法を主導した改革派の思想家・政治運動家です。彼は儒学の枠組みを内側から作り替え、「孔子は革新者であった」と読み替えることで、近代国家への制度改革を正当化しました。光緒帝に上奏して科挙の刷新、学制・軍政・財政・産業の改革を提案し、短期間ながら中央政府に改革詔勅を連発させました。しかし西太后を中心とする守旧派の反撃で政変が起こり、多くの同志が処刑され、本人は亡命の身となります。亡命後は保皇会を組織して立憲君主制の実現と清朝の立て直しを訴え、反纏足運動や教育・出版活動にも携わりました。大著『大同書』では国民国家・家族・私有の超克を構想し、人種や性別の平等、世界政府の理念までを視野に入れた大胆な未来像を示しました。辛亥革命後は共和制に批判的で、復辟運動への関与で評価は割れましたが、清末改革の知的原動力の一人として大きな足跡を残しました。
要点として、①儒学内部からの改革正当化(今文公羊学の再解釈)、②戊戌変法の理論と政策、③政変・亡命・保皇運動、④『大同書』など思想的遺産、の四つを押さえると全体像が見通しやすいです。以下で、生涯と時代背景、思想と著作、改革の展開と挫折、亡命後の活動と評価の順に詳しく説明します。
生涯と時代背景──科挙秀才から上奏運動の先頭へ
康有為は広東省南海の名望家に生まれ、幼少より経学と文章に秀でました。清末の中国は、アヘン戦争以降の条約体制と国内の財政危機、軍事・産業の遅れに悩まされていました。洋務運動が軍事・工業の「器物」レベルで西洋技術を導入する一方、政治・教育・法制度の「体制」までは十分に更新できませんでした。こうしたなか、康有為は伝統学の延長で現状を守るのではなく、古典の再読によって統治原理そのものに手を入れる必要を感じるようになります。
転機は1895年です。日清戦争の敗北と下関条約の衝撃のただ中で、北京では科挙合格者や士人が連名で対外強硬・内政刷新を求める「公車上書」を上奏しました。康有為はこの運動の理論的指導者として頭角を現し、中央の目に留まります。彼は、試験中心で旧来の八股文を重んずる科挙が国家の活力を奪っていると批判し、近代学科の導入、官僚登用の実務化、地方自治の拡充、商工業振興、鉄道・鉱山・郵電の整備、財政・貨幣制度の統一など、国家再建のための包括パッケージを用意していました。
1898年、光緒帝は守旧派の抵抗を承知のうえで改革に踏み切ります。康有為・梁啓超らは連日のように上奏し、中央・地方・教育・軍事・経済の広範な分野で詔勅が相次ぎました。京師大学堂(のちの北京大学)の設立、官営・民営の産業振興、地方の諮議機関設置、新聞・出版の奨励、科挙の文体改革などが進み、従来の秩序は大きく揺れ動きます。しかし、この「百日」の急進は、宮廷内部の力学を刺激し、やがて政治危機へと発展していきました。
思想の基盤──今文公羊学の再解釈と『孔子改制考』・『大同書』
康有為の思想の核は、儒学を保守的道徳の体系ではなく、時代に応じて制度を更新する「変法」の学として読み替える点にありました。とりわけ彼が拠った今文経学・公羊学は、『春秋公羊伝』をもとに礼制や政治制度の変遷を「三世(据乱・昇平・太平)」の発展段階として捉え、君主が時宜に応じて改革を断行する理論的余地を用意します。康有為はこの枠組みで、科挙・官制・土地・教育・軍制などの包括的な更新を正当化しました。
代表作『孔子改制考』は、「聖人孔子は過去を絶対化した保守ではなく、時代の要請にあわせて制度を作り替える革新者であった」と論じ、儒教の看板の下に近代改革を位置づける試みでした。これは、西学をそのまま輸入すべきだとする急進派と、伝統墨守を主張する守旧派の対立を超え、伝統の内部論理を用いて改革を語る巧みな戦略でもありました。儒学を足場にしながら、その解釈を大胆に刷新することで、広範な士人層の同意を得ようとしたのです。
長期構想として重要なのが『大同書』です。ここで康有為は、家族・国家・民族・階級といった境界を超克する未来社会像を描き、女性・子ども・高齢者・障害者の保護、婚姻制度や居住の自由、教育と福祉の公的保障、私有の制限や計画的な資源分配など、近代の社会政策を思わせる理念を提示しました。さらに世界単一政府に近い統合の構想、人種・民族を超えた平等の強調は、当時としてはきわめてラディカルでした。現実政治では立憲君主制を支持しながら、理想論では国民国家を越えるビジョンを掲げる二層構造に、康有為の思想的スケールが表れています。
戊戌変法の展開と政変──百日改革の政策群と挫折
1898年の戊戌変法は、わずか数カ月のあいだに多数の詔勅が出されたため「百日維新」とも呼ばれます。政策の柱は、第一に科挙・教育制度の刷新で、八股文偏重からの脱却、算術・地理・理化・法律など近代学科の導入、京師大学堂の設立、書院の新制学校への転換が含まれました。第二に行政・法制の合理化で、冗官の整理、中央機構の簡素化、立法・財政・監察の専門化が志向されました。第三に産業・交通の振興で、鉄道・鉱山・商法の整備、特許や商標の保護、商工会の設立、官民合弁の推進などが挙げられます。第四に軍政の改革として新式軍隊の養成、訓練・装備の近代化が目指されました。
しかし、改革は短期で多方面に及んだため、関係省庁・地方官・既得権層の反発を招きました。宮廷では西太后を中心に、皇権の実権・名分をめぐる対立が深まります。康有為らが急進的な宮廷人事や外資導入、旧来組織の再編に踏み込むにつれ、守旧派は「皇帝を利用する少壮派の暴走」と描写し、軍政を握る勢力の支持を取りつけました。ついに1898年9月、政変が発生し、光緒帝は幽閉状態に置かれ、改革派は失脚します。
政変後、譚嗣同・林旭・劉光第・楊深秀・楊銳・康広仁(康有為の弟)ら「戊戌六君子」が処刑されました。康有為本人は外国公使館や友邦の支援を得て脱出し、日本へ亡命しました。この挫折は、中国における自上からの急進的改革の難しさ、宮廷政治と軍事力の力学、地方と中央の利害の調整の困難を露わにしました。一方で、短期間に示された政策群は、のちの清末新政や民国の制度改革の土台として記憶され、教育・産業・報刊の領域で具体的な遺産を残しました。
亡命・保皇運動と社会改革──海外ネットワーク、反纏足、出版活動
亡命後の康有為は、梁啓超らとともに各地の華僑社会を基盤に保皇会(中国保皇会・保皇党)を組織し、清朝のもとでの立憲君主制を目標に掲げました。彼らは新聞・雑誌・演説を通じて、近代議会・憲法・地方自治・教育の整備を訴え、留学生派遣と近代学校の設立に資金と人脈を提供しました。華僑の資金・印刷・通信ネットワークは、清末の言論空間を活性化し、革命派(孫文ら)と保皇派の間で激しい論争が展開されます。康有為の筆鋒は鋭く、伝統の変革と秩序の持続の両立を主張しましたが、辛亥革命に向けた大勢は共和制へと流れていきました。
社会改革の面では、康有為は纏足の廃止を強く訴え、反纏足会(天足会)を各地で支援しました。女性の身体に対する束縛を社会的慣習から切り離し、教育と労働参加の条件を整えようとする発想は、『大同書』の男女平等観と通底しています。また、近代教育の普及と印刷文化の発展に寄与し、教科書・雑誌の編集、各国の制度紹介、地理・歴史・政治経済の近代的知識の普及に力を注ぎました。書法・金石学にも通じ、文化人としての顔も併せ持っていた点は、清末の知識人に特徴的な幅広さを示しています。
辛亥革命後、康有為は共和政を理想とはみなさず、立憲君主制への回帰を模索しました。とくに1917年の張勲復辟に一定の理解を示し、清朝復活を図る動きに関わったことで、後世の評価は厳しくなりました。軍閥割拠と民国政治の混迷のなかで、秩序回復の方途として旧王朝を手段的に利用しようとした判断は、時代の主潮から乖離していたからです。最晩年は相対的に穏やかな文化活動に重心を移し、1927年に青島で没しました。
評価と影響──清末改革の触媒として
康有為の評価は、政治的選択と思想の射程で分かれます。政治面では、宮廷内部の権力構造を読み切れず、短期で急進に傾いた戦術、亡命後の復辟志向が批判の的となりました。一方、思想面では、儒学の革新解釈を通じて制度改革の正統性を確立しようとした創意、教育・産業・出版を束ねた「知の動員」の手腕が高く評価されます。『孔子改制考』に見られる伝統の再定義は、単なる西洋模倣ではない「中国的近代」の模索であり、『大同書』のユートピア的想像力は、国民国家の枠を越える長期的視野を提示しました。
具体的な制度面でも、京師大学堂に象徴される高等教育の制度化、近代的学科の導入、新聞・雑誌の公共圏の拡大、反纏足の社会運動化など、清末・民初の文化的変化に康有為の影は濃く落ちています。科挙の廃止(1905年)は直接の成果ではないにせよ、彼が繰り返し主張した学制改革の潮流の一部として理解できます。革命派との論争もまた、近代中国が立憲君主制と共和制、秩序と自由、漸進と急進の間で揺れ動く思考の振幅を可視化しました。
総じて、康有為は「伝統の衣を着た改革者」として、古典解釈を武器に近代化を説いた稀有な人物でした。政変と亡命が象徴する挫折の物語の背後には、制度・知識・文化を一体で組み替えようとした長期的構想がありました。彼の構想は時に非現実的で、政治判断に難があったとしても、清末の改革思潮を駆動した重要な推進力であったことは否定できません。中国が近代国家へと移行する長い過程のなかで、康有為の名は、挫折と創造が同時に刻まれた象徴として記憶されています。

