皇輿全覧図(こうよぜんらんず、Huangyu Quanlan Tu)は、清の康熙帝時代(17〜18世紀初頭)に編纂された、中国全土の実測地図です。最大の特徴は、ヨーロッパの最新測地学を取り入れて、天文観測と三角測量を組み合わせ、州・府・県・河川・山脈・交通路を統一的な基準で描いた点にあります。編纂の中核には、康熙帝の勅命を受けた漢人・満洲人の官僚と、宮廷に仕えたイエズス会士(例:ジャン=バティスト・レジス、ピエール・ジャルトゥー、エレンベルツ・フリデリら)が協働しており、東西知の協業が結実したプロジェクトでした。完成した地図群は、清朝の行政・軍事・学術に資するだけでなく、ヨーロッパでも翻案され、アジア地理の標準参照図として長く用いられました。しばしば「康熙地図」「康熙アトラス」とも呼ばれ、後世の雍正・乾隆期の測量、さらに18世紀のフランス地図学(ダンヴィルら)へも影響を及ぼしています。
成立と背景──康熙帝の知的関心と東西協業の舞台
皇輿全覧図の企画は、康熙帝(在位1661〜1722)の博学な関心と、国家統治の実務的要請が重なって生まれました。清は明の旧領を継承しつつ、満洲から北西の草原地帯、チベット世界、台湾沿岸など、地理的に多様な領域を統合する必要がありました。従来の地方志や行程記は豊富な記述を残していましたが、距離や位置の基準が地域ごとにばらつき、全土を一枚の座標の上で把握することは困難でした。国家財政・徴税・軍事移動・水利工事を合理的に運用するには、共通スケールでの空間把握が不可欠だったのです。
康熙帝は、宮廷に招聘したイエズス会士を、数学・暦法・天文・製図の専門家として活用しました。彼らは、西欧で発達した天体観測器具や測地法を、清の官僚・測量手とともに現地で運用し、星位に基づく緯度決定、磁針方位の補正、基線測定からの三角網構築などを行いました。宮廷天文台の設備更新や暦法改訂と並行して、全国レベルでの測量事業が展開され、宮廷—地方—学術の三者が連動する体制が整えられました。
企画は数段階に分けて進められ、まずは華北・華中の要域から測量が始まり、ついで西南・西北へと拡張されました。地方の官衙は宿泊・輸送・ガイド・通訳の面で後方支援を担い、測量隊は河川の渡渉や山脈の縦走、草原での基線設定など、過酷な地理条件に挑みました。測量の進展に応じて草図(野帳)と清書図が宮廷へ集約され、地名の字形や読み、行政区画の境界が複数の典籍と照合されました。こうして、従来の文献知と現地実測のデータが、一つの統一的な「版」に編集されていきます。
測量と製作の方法──天文観測・三角測量・投影と記号
皇輿全覧図の技術的核心は、天文観測と三角測量の併用にありました。緯度は太陽高度や恒星の南中高度から算出され、経度は携行時計の限界を補うため、天文現象の同時観測や行程距離・方位の積分で推定が補強されました。基線(測量の起点距離)は平坦な地形に設定され、そこから角度観測を繰り返して三角網を展開する手順が取られます。こうして得られた点群に、河川の流路、山脈の稜線、城郭・驛站・渡船場・関隘といった地物が重ね合わされ、行政区画線が整理されました。
投影法や縮尺は、地域と図幅の目的に応じて調整されました。全国総図では歪みの配分に配慮し、地方図では行軍・輸送・徴税の実務に適するよう、距離の読み取りと道路・水路の連結性が重視されました。図面上には、山は陰影や山記号で、河川は線種の違いで、都市は城郭記号と文字で表現され、関所や橋、渡しは記号化されました。凡例(レジェンド)と方位指示、距離尺度が整い、複数の図幅を継ぎ合わせても情報が連続するように版木が設計されています。
作図の最終段階では、宮廷図書館や工房で版木が彫られ、紙質や刷りの品質が吟味されました。複数回の刷り直しや改訂が行われ、地名の異同、行政単位の再編(州・府・直隷など)に合わせて図面が更新されます。モンゴル草原やチベット高原の測量は気候・地勢の難しさから精度が揺らぎやすく、現地勢力との交渉も不可欠でしたが、長期的には雍正・乾隆期の追加測量や境界画定(例えば外モンゴル方面の界碑設置)に接続していきます。
このプロジェクトを支えた人材の層も注目されます。レジス(Jean-Baptiste Régis)、ジャルトゥー(Pierre Jartoux)、フリデリ(Xavier Ehrenbert Fridelli)といったイエズス会士は、数学・天文学・製図に通じ、宮廷での教育・翻訳・技術移転にも従事しました。彼らの著述や書簡は、現地での実務や官僚とのやり取り、地形・気象・言語の観察を克明に伝えており、皇輿全覧図が単なる机上の編集ではなく、広域にわたるフィールドワークの結晶であったことを物語ります。中国側の学者・画工・測量手の技能も高水準で、工尺・書法・版木彫刻が科学的成果を美麗な図面として可視化しました。
流通と影響──清朝の統治とヨーロッパの地図学をつなぐ
皇輿全覧図は、清朝の行政・軍事・学術の多方面で参照されました。河川改修や堤防建設、漕運・塩運の管理、州県境の調整、驛伝制度の見直し、駐防と移駐の計画といった国家事業において、距離と位置の共通尺度を提供したからです。中央の軍機・理藩・工部などの機構は、地理情報を政策決定に組み込み、辺疆では堡塁や巡防の配置、牧場・関隘の管理などに実装しました。地方官にとっても、県誌の改訂や税賦台帳の整理に際して、地図は不可欠の基盤となりました。
一方、宮廷の許可と書簡の経路を通じて、ヨーロッパにも測量成果が伝わりました。イエズス会士の報告書や図面はフランス学界に届けられ、18世紀に入ると、地図学者ダンヴィル(Jean-Baptiste Bourguignon d’Anville)が中国・東アジアの大地図を編集する際に中核資料として用います。こうして生まれたヨーロッパ版のアトラスは、皇輿全覧図の精確さを土台に、周辺地域の情報と接続され、長らく欧州の「中国標準地図」として権威を持ちました。港湾都市や宣教師・商人の航路記録、ロシア帝国のシベリア踏査などとも照合され、東アジア像は徐々に更新されていきます。
皇輿全覧図の影響は、単なる地図技術の伝播にとどまりません。東西の知識体系が、王朝国家の統治という実用課題を媒介に接続され、「科学」と「政治」が相互に利益を与え合うモデルが示されたのです。清は測地学を国家の言語に翻訳し、ヨーロッパはアジアの高精度実測を自らの地理学の中に組み込みました。この相互作用は、18世紀的な「共和国の学問」のネットワークと、帝国の行政知の接合として理解できます。
図の構成・版と伝存──総図・分図・改訂と史料価値
皇輿全覧図は、全国を俯瞰する総図と、各省(あるいは道・直隷)ごとの分図から構成されます。分図は、主要都市・県治・関隘・駅路・水系・山脈が読み取れる縮尺で作られ、相互に継ぎ合わせて広域を連続的に把握できるよう設計されました。凡例は記号体系を統一し、図法・尺度・方位の表記も整備され、利用者が図幅間で迷子にならない「標準化」が徹底されています。地名は満洲語・モンゴル語・チベット語など多言語の実態を反映しつつ、漢字表記に揃えて整理されました(音訓の差や異体字は注で補正)。
制作と流通の過程で版の差が生じ、刷りの質や地名表記、境界線の描き方にバリエーションが見られます。宮廷秘蔵の精刻本、地方に配布された実務本、後年の修補本などが確認され、なかには雍正・乾隆年間の追加測量の成果が反映されたものもあります。紙背の蔵印・題記・付箋や、図面の余白に書き込まれた補注は、実際のユーザーがどの目的で、どのルートで地図を用いたかを示す一次史料です。今日、各地の図書館・博物館・宗教施設・大学コレクションに断片が伝存しており、比較研究によって改訂の履歴や情報ネットワークの経路が復元されつつあります。
研究上の価値は、第一に測量史・科学史の観点です。どの器具が用いられ、どの季節にどのルートで観測が行われたか、天文観測と行程測がどのように補完されたか、といった技術史的分析は、17〜18世紀のグローバルな知の移動を照らします。第二に行政史・環境史の観点で、河川改修や堤防線、塩運・漕運ルートの変遷、屯田や牧場の配置が、地図の比較から読解できます。第三に文化史の観点で、地名表記・山川の描写・境界線の表象が、王朝の世界観と地域社会の自己認識を反映している点が重要です。
また、皇輿全覧図は、リッチ(利瑪竇)の世界図「坤輿万国全図」(1602)や、清末の新式地図、民国期の測図と比較されることで、中国の地図文化がどのように近代的座標・尺度へ適応していったかを示す参照軸となります。世界図が「世界の中の中国」を可視化したのに対し、皇輿全覧図は「中国の内部」を高精度で可視化し、版図の把握—統治の合理化—国際知の編入という三つの課題を同時に解決する役割を果たしました。
総じて、皇輿全覧図は、帝国の統治と学知の交流が生んだ、アジア近世の科学的地図制作の金字塔です。実測という手間のかかる営みを、宮廷の意思と地方の協力、宣教師の技術と官僚の編集力が支え、結果として国内外の地図学を前進させました。図面そのものの美術的完成度も高く、精緻な線刻と均整の取れたレイアウトは、実用と美の両立を示しています。今日、この地図群を読み解くことは、単に「正確な古地図」を鑑賞すること以上に、知と権力と土地が結びつく歴史的力学を理解する手がかりとなります。

