高麗 – 世界史用語集

高麗(こうらい、918〜1392年)は、半島の統一を実現した後期古代から中世への橋渡しを担い、朝鮮史の制度・文化を大きく作り替えた王朝です。創始者の王建(ワン・ゴン)が後三国の分裂を収めて建国し、宋・遼・金・元といった周辺王朝との複雑な国際関係のなかで独自の秩序を築きました。国内では科挙(科田制と併行する官僚登用試験)の整備、州郡県制の再編、仏教を国家の正統理念とする体制が進み、文化面では青磁(高麗青磁)や仏教美術、世界有数の大蔵経彫刻(高麗大蔵経=八万大蔵経)、さらには金属活字の使用など、東アジアの中世文化を代表する成果を残しました。他方で、武臣政権(1170〜1270)や蒙古襲来(13世紀)といった内外の危機を経験し、元との冊封‐婚姻関係を軸に王権が再編されます。最終的には新儒教(朱子学)を掲げる新勢力が台頭し、李成桂による王朝交替(1392年)を招くことになりました。

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成立と国家構造──王建の統一路線と官僚国家の形成

高麗は918年、開城(開京)を拠点とした豪族王建が、後高句麗(泰封・後高句麗)を率いる弓裔政権から主導権を奪って成立しました。彼は諸豪族の連合を巧みにまとめ、交易と軍事の要地である松嶽(開城)を都と定め、国号を「高麗」として古代国家高句麗の継承を意識づけました。936年には後百済を併合し、いわゆる「後三国」の分裂期を終わらせて半島を統一します。王権強化の柱は、婚姻政策による豪族ネットワークの編み替え、土地制度の再整理、そして中央官制の整備でした。

中央では尚書省・中書門下・三省六部に準じる中国型官制が導入・変形され、御史台や三司(財政)などの監察・会計機構が整えられました。地方は州・郡・県を基盤にしつつ、在地の豪族(郡望勢力)を官僚として取り込み、中央から文武官を派遣して統制する仕組みが構築されます。10世紀末から11世紀にかけては、科挙(科田制とは別)による文人官僚の登用が制度化され、儒教教育(国子監・郷校)と官僚制の連動が強まりました。古代新羅の骨品制(身分制)の残響は続きますが、実務官僚の比重が増し、国家運営は血縁・豪族連合から「文治」へ重心を移していきます。

王室の権威づけには仏教が用いられました。華厳・法相・天台・禅(禅宗=禅林)など多様な宗派が共存し、寺院は祈祷と学問、救済と流通の拠点として機能しました。国家は仏教を保護するとともに、寺社の経済力や僧籍の濫用を抑えるためにたびたび整理令を出し、王権‐仏教勢力のバランス調整を図りました。〈王建訓要十条〉に代表される統治理念は、在地支配の尊重・仏教保護・民生安定を掲げ、統治の現実主義をうかがわせます。

国際関係と軍事的試練──遼・宋・金・元とのはざまで

高麗の対外環境は変転に富みます。10〜11世紀には北方の遼(契丹)が圧迫を強め、遼の侵攻に対して高麗は江東六州の領有をめぐって抗戦し、最終的に講和と交易の枠組みを整えました。宋とは海上・陸上の交易で結びつき、文物の交流が活発化します。宋の書籍・陶磁技法・学芸は高麗文化の洗練に寄与し、高麗青磁の発展は宋磁との相互作用の成果でした。

12世紀に入ると女真が台頭し、金朝が遼と宋を圧倒する勢いで拡大します。高麗は金との関係で臣属的立場をとりつつも、国内の政争や武臣政権の成立が重なり、対外政策はしばしば現実主義に傾斜しました。1170年の武臣政変は、文臣優位に不満を募らせた武官がクーデターを起こして政権を掌握した事件で、以後、およそ1世紀にわたり崔氏らの軍事政権(崔忠献・崔瑀・崔義方ら)が実権を握ります。この過程で民衆反乱や地方勢力の動揺が続き、国家の統合力は低下しました。

13世紀、モンゴル帝国が東アジアに進出すると、高麗は度重なる侵攻に直面します。王室は江華島に遷都して海上防衛に活路を求めましたが、長期戦は財政と社会を疲弊させました。最終的に講和ののち元との冊封関係が確立し、王室は元皇室との婚姻で地位を保ちます。元の影響下では行政・軍事の再編が進み、征東行省などの機構が高麗領域に置かれました。にもかかわらず、高麗は一定の自治を維持し、元の日本遠征(文永・弘安の役)に船舶・兵站で協力する一方、国内では反元武装勢力(例えば三別抄)の抵抗が続きました。三別抄は武臣政権の私兵組織が転じて対元抵抗勢力となったもので、済州島などで最後まで抗戦しますが鎮圧されます。

元の衰退とともに、高麗宮廷内では改革派が伸長し、14世紀後半には新儒家官僚と新興武人が連携して対外政策と国内統治の立て直しを試みます。紅巾の乱などの動揺を挟みつつ、最終的には将軍李成桂が威化島回軍を経て政権を掌握し、1392年に朝鮮王朝(李氏朝鮮)を創建して高麗は終焉を迎えます。

社会・経済と文化──土地・都市・信仰、そして技術の革新

高麗社会の基盤は土地制度と身分秩序にありました。国家は功臣への土田支給や官僚給与としての職田・公田の仕組みを運用し、課役と軍役を村落単位で賦課しました。地方には郷・里の共同体が根づき、在地勢力が橋渡しとなって税・労役を調整します。商業は都城開城と港湾(例えば甕津・釜山浦など)を結ぶネットワークで発展し、宋・日本・女真との交易が陶磁・織物・金属・書籍の流通を生みました。貨幣流通は限定的ながら、銀・布など複数の価値尺度が併用され、13世紀以降は元の紙幣制度の影響も受けます。

身分秩序では、良民(良人)と賤民(賤人)の区分が存在し、内臣・外臣、文班・武班の序列が政治秩序に反映されました。文臣優位が強い一方、武臣政権期には軍事貴族が台頭し、政権の性格は揺れ動きます。都市では市肆・行・作などの職能集団が形成され、寺院経済と結びついた流通・金融活動もみられました。灌漑や水利の発達は稲作の生産性を高め、在地の土豪や寺社が水利権をめぐる紛争の当事者となることもありました。

文化面で高麗を象徴するのは、まず仏教美術です。国家的な護国思想のもと、木造・石造の仏像、壁画、舎利容器、荘厳具が制作され、建築では多宝塔・石窟・山寺伽藍などが整備されました。なかでも高麗大蔵経(八万大蔵経)は、蒙古侵攻の危機のさなかに国難克服・国家安泰を祈念して再彫された膨大な経板群で、彫工技術・統一書体・版木管理の面で驚異的な完成度を誇ります。印刷文化は仏典・史書・実用書の流布に貢献し、やがて世界最古級の金属活字印刷(13世紀)へとつながりました。

工芸では、高麗青磁が翡翠色の釉薬と象嵌(象眼)技法で名高く、蓮華・雲鶴・牡丹・菊・鴛鴦などの文様が洗練された意匠で表現されました。象嵌青磁は胎土に白土や黒土を埋め込む高度な技術を要し、宋磁との交流と在地窯業の発展が相乗的に技術革新を促しました。書画では、文人官僚が唐・宋の法帖を学びつつ、独自の韻律感を持つ書風を育て、絵画は山水・人物・仏画が宮廷と寺院を中心に発達しました。

思想では、仏教が国家理念の核であり続ける一方、儒学教育(科挙)を通じて統治技術が高度化し、13〜14世紀には朱子学が広がり始めます。朱子学は身分秩序・家族倫理・学問方法を統一する規範として受容され、寺社経済の肥大化や僧官の政治介入を批判する理論的武器ともなりました。この流れは次王朝の国家理念の転換(仏教中心から儒教中心へ)を準備します。

体制変容と終焉──武臣政権から元の影響、そして朝鮮へ

高麗の政治体制は、11世紀の文治安定から、12世紀の武臣政権、13世紀の元の干渉、14世紀の改革試行へと段階的に変容しました。武臣政権は、在地勢力・私兵・寺社経済と結びついて独自の秩序を形成し、中央の文臣官僚を抑え込みましたが、統治の正統性を補う理念を欠き、長期化するにつれて派閥抗争と暴政が頻発します。蒙古の圧力は政権の求心力をさらに弱め、三別抄の反乱や各地の擾乱が社会の疲弊を深めました。

元との冊封・婚姻関係は、高麗王室に一方で権威の後ろ盾を与え、他方で官僚機構や軍事に外圧的改革をもたらしました。征東行省の設置、戸口調査、交通・伝馬制度の整備は、国家の可視化を進める一方、過重な負担と文化的軋轢を引き起こしました。元の衰微とともに復権した王朝内部の改革派は、朱子学を理念に財政・軍制・身分・土地の再編を試み、倭寇対策や税制整理に乗り出しますが、在地勢力の抵抗と外患の重圧で抜本的転換には至りません。

14世紀末、将軍李成桂は対明関係の調整と国内改革の必要を掲げ、威化島回軍で既存政権を転覆し、1392年に朝鮮王朝を樹立します。王朝交替は単なるクーデターではなく、仏教中心から朱子学中心へ、豪族連合から科挙官僚中心へ、寺社経済から国家直轄財政へという長期的な構造転換の完成を意味しました。高麗はこうして歴史の幕を閉じますが、行政区画・印刷文化・陶磁・都市構造・交易ネットワークなど、後代に引き継がれる制度と文化の「型」を数多く残しました。

まとめると、高麗は東アジアの王朝ネットワークの中で、交易と戦争、仏教と儒教、文治と武断という複数の軸を調停しながら、半島社会の枠組みを更新し続けた国家でした。武臣政権と蒙古襲来という危機は、体制の弱さを露呈させると同時に、印刷・陶磁・行政の革新を促し、次の王朝の基盤を用意しました。高麗を理解することは、東アジア中世のダイナミズムと、朝鮮史における制度と文化の連続と断絶を読み解く鍵となります。