シリア – 世界史用語集

「シリア」とは、西アジア(中東)の地中海東岸に位置する地域・国家を指す名称です。現在はシリア・アラブ共和国という国家の名前ですが、歴史的にはフェニキア人都市国家やアッシリア・新バビロニア・ペルシア・ヘレニズム諸王国・ローマ帝国・イスラーム帝国など、さまざまな勢力が支配した文明の十字路でした。古代から東西交易の要衝として栄え、「シリア」という地域名は、オスマン帝国支配期を経て、第一次世界大戦後にフランス委任統治領シリアとして再び国際政治に登場し、やがて現代国家シリアへとつながっていきます。

現代のシリアは、1946年にフランスからの独立を達成したのち、クーデタや軍事政権、バアス党政権を経て、アサド父子による長期支配のもとで政治的安定と強い国家統制を維持してきました。一方で、冷戦下のアラブ民族主義、イスラエルとの対立、パレスチナ問題、レバノン内戦への介入などを通じて、中東政治の対立構造の中心にも立たされてきました。21世紀に入ると、「アラブの春」を契機とした民主化要求と政権弾圧から内戦状態に陥り、国内での甚大な被害と難民の大量流出を招いています。

以下では、まず古代からオスマン帝国期までの「シリアという地域」の歴史的背景を概観し、つづいて第一次世界大戦後のフランス委任統治と独立国家シリアの成立、バアス党政権とアサド体制の成立と対外関係、最後に21世紀のシリア内戦とその歴史的意味について整理していきます。

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古代からオスマン帝国までの「シリア」―文明の十字路

シリアという名称は、古代にはおおむね地中海東岸から内陸のオロンテス川・ユーフラテス川付近に至る広い地域を指していました。最古の都市文明として知られるエブラ(テル・マルディフ)や、フェニキア人の都市国家(ビュブロス、シドン、ティルスなど)が栄え、多くの都市が海上交易と内陸キャラバン貿易の結節点として繁栄しました。この地域は、エジプト文明とメソポタミア文明の中間に位置し、文化や宗教、技術が行き交う「文明の交差点」だったと言えます。

紀元前1千年紀には、アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシアなどの大帝国がシリアを支配します。その後、アレクサンドロス大王の東方遠征によりマケドニアの支配下に入り、ヘレニズム時代にはセレウコス朝シリア(セレウコス朝)がこの地域を中心に支配しました。この時代、シリアの都市アンティオキアは大王都として栄え、ギリシア文化と東方文化が混じり合う国際都市となります。

前1世紀にはローマ帝国がシリアに進出し、シリア属州が設置されました。パウロの改宗で知られるダマスカスや、キリスト教徒の中心地の一つとなるアンティオキアなど、シリアは早くからキリスト教の重要な拠点となります。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下に入り、コンスタンティノープルを中心とするギリシア正教圏の一部として位置づけられました。

7世紀にはイスラーム勢力が急速に拡大し、イスラーム軍はヤルムークの戦い(636年)で東ローマ軍を破ってシリアを征服します。その後、ウマイヤ朝の首都ダマスカスはイスラーム世界の政治・文化の中心都市となり、アラビア語とイスラーム文化がこの地域に深く根付いていきました。アッバース朝期には都がバグダードに移りますが、シリアはなお重要な地方として、多様な民族・宗教が共存する空間でした。

中世には、シリアは十字軍の遠征の舞台ともなります。エルサレム王国やアンティオキア公国など十字軍国家が一時的に成立しましたが、サラーフッディーン(サラディン)らイスラーム側の指導者により、多くの都市は再びイスラーム勢力の手に戻ります。その後、マムルーク朝やオスマン帝国などがこの地域を支配しました。

1516年、オスマン帝国のセリム1世はマムルーク朝を破り、シリアをオスマン領に組み込みました。それ以降、第一次世界大戦の終結まで約400年間、シリアはオスマン帝国の一州(またはいくつかの州)として統治されます。ダマスカスやアレッポはオスマン帝国の地方行政と商業の中心として機能し、アラブ人・トルコ人・クルド人・アルメニア人・キリスト教徒・ユダヤ教徒など多様な住民が暮らす社会が続きました。

フランス委任統治領から独立国家シリアへ

19世紀末から20世紀初頭にかけて、オスマン帝国は「瀕死の病人」と呼ばれるほど弱体化し、列強による干渉が深まります。シリアでもアラブ民族主義運動が高まり、第一次世界大戦中には「アラブ反乱」が起こりました。イギリスはフセイン・マクマホン協定などでアラブ側に独立をほのめかす一方、サイクス・ピコ協定でフランスと中東分割案を秘密裏に取り決め、バルフォア宣言でユダヤ人国家建設の支持も表明するなど、矛盾した約束を重ねました。

第一次世界大戦後、オスマン帝国は敗北し、その領土は国際連盟の委任統治制度のもとで英仏が分割統治することになります。1919〜20年には、ダマスカスを中心にアラブ人指導者ファイサルを国王とする「シリア・アラブ王国」が一時成立しましたが、フランス軍により打倒されました。1920年以降、シリアは国際連盟の委任の名目でフランスの支配下に置かれ、「フランス委任統治領シリア」となります。

フランスは統治を容易にするため、シリアを宗派や地域ごとに分割し、ダマスカス・アレッポ・アラウィー派山地・ドゥルーズ人地域などに別個の行政単位を設けました。これは、民族・宗派間の分断を利用して反仏勢力の結集を妨げる「分割統治」の側面を持っていました。一方で、鉄道・道路などインフラ整備や教育制度の近代化も進められ、フランス語教育を受けた新しいエリート層が育ちました。

しかし、シリア人の多くは委任統治を事実上の植民地支配とみなし、独立を求める運動を続けました。1925〜27年には、ドゥルーズ人を中心とする大規模な反仏蜂起(シリア大反乱)が起こり、ダマスカス旧市街の一部が爆撃されるなど激しい戦闘が繰り広げられました。フランスは軍事力で反乱を鎮圧したものの、シリア社会の独立志向を完全に抑え込むことはできませんでした。

第二次世界大戦期、ヴィシー政権のもとでシリアは枢軸寄りの政権に名目上従属しましたが、1941年には自由フランス軍とイギリス軍が進攻し、その後「独立承認」が段階的に進められます。大戦後の国際的な脱植民地化の流れの中で、フランスはもはや中東での植民地支配を維持できなくなり、1946年、シリアからフランス軍が完全撤退しました。これにより、シリアは正式に独立国家として国際社会に認められることになります。

独立直後のシリアは、議会制民主主義を掲げる共和国としてスタートしましたが、国内には諸政党・軍部・宗派勢力・地主階級など多くの利害集団が存在し、政治は不安定でした。1948年には第一次中東戦争(アラブ・イスラエル戦争)に参戦してイスラエルと戦いますが、アラブ側の敗北に終わり、パレスチナ難民問題が発生します。この敗北は、シリアを含むアラブ諸国で既存の政治エリートへの不信と軍部の台頭を招く一因となりました。

バアス党政権とアサド体制―アラブ民族主義と強権国家

独立後のシリアでは、クーデタと政権交代が相次ぎました。1949年には初の軍事クーデタが起こり、その後数年の間にさらにいくつものクーデタが続きます。この不安定な状況の中で台頭してきたのが、アラブ民族主義と社会主義を掲げるバアス党(バアス・アラブ社会主義党)でした。バアス党は、宗派や部族を超えた「アラブ民族」の統一と、反帝国主義・社会的平等を主張し、若い将校や都市中間層の支持を集めました。

1958年、シリアは同じくアラブ民族主義を掲げるナセル大統領率いるエジプトと合邦し、「アラブ連合共和国」を成立させます。これはアラブ世界の統一を目指す試みとして注目されましたが、実際にはエジプト側への権力集中やシリア経済への負担などが問題となり、シリア側の不満が高まりました。1961年にシリア軍内部のクーデタによって合邦は解消され、シリアは再び独立国家に戻ります。

その後も軍部とバアス党内の主導権争いが続く中、1963年にはバアス党がクーデタで政権を掌握しました。以後、バアス党はシリアの与党として一党支配体制を築き、土地改革や国有化など社会主義的政策を実行しますが、党内ではイデオロギー路線と権力配分をめぐる内紛が続きました。

この混乱の中から台頭したのが、アラウィー派出身の軍人ハーフィズ・アル=アサドです。アラウィー派はイスラーム・シーア派系の少数派宗派で、シリア山地出身者が多い集団でしたが、フランス委任統治期に軍隊への登用が進んだ結果、軍部や治安機関に一定の影響力を持つようになっていました。アサドは空軍出身の将校として頭角を現し、1970年のクーデタ「矯正運動」によって実権を掌握します。

ハーフィズ・アサド政権(1971〜2000年)は、バアス党の枠組みを維持しつつ、実質的にはアサド個人とその一族・側近による強力な権威主義体制を築きました。彼は農村部・公務員・軍人などの支持を基盤に、政敵やイスラーム主義勢力への弾圧を行いながら、国内の治安と国家統一を維持しました。1982年のハマーにおけるイスラーム主義勢力(ムスリム同胞団)鎮圧は、その象徴的事件として知られ、多数の犠牲者を出しました。

対外的には、アサド政権はソ連との関係を重視し、冷戦下で「反イスラエル・反西側」陣営の一角を占めました。1967年の第3次中東戦争では、イスラエルにゴラン高原を占領され、これは現在もシリアとイスラエルの最大の領土問題となっています。1973年の第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)ではエジプトとともにイスラエルに攻撃を仕掛けましたが、戦略的には決定的勝利を収めることはできませんでした。

また、シリアはレバノン内戦(1975〜1990年代)にも深く関与し、自軍をレバノンに駐留させて政治的影響力を行使しました。パレスチナ問題においても、さまざまなパレスチナ組織に支援と圧力を使い分けながら、自国の地域的影響力を高めようとしました。このように、アサド政権は国内の強権統治と、域内での「中核国家」としての地位を維持することを目指した体制だったと言えます。

2000年にハーフィズ・アサドが死去すると、息子のバッシャール・アル=アサドが大統領に就任し、父子二代の政権が続くことになります。当初、バッシャールは医師出身であり、一定の経済改革や政治的開放への期待も抱かれましたが、実際には治安機構とバアス党の支配構造は大きく変わらず、限定的な改革と抑圧的統治が併存する状態が続きました。

21世紀のシリア内戦と歴史的意味

2010年代初頭、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動の波がチュニジアからエジプト、リビアなどアラブ世界に広がると、シリアでも政治的自由の拡大と腐敗の是正を求める抗議行動が各地で起こりました。2011年、南部都市ダラアでの反政府デモに対する治安部隊の発砲と逮捕がきっかけとなり、抗議は全国規模に拡大します。

バッシャール政権は、当初一部の改革を約束しながらも、デモ参加者への弾圧を強化しました。これに対し、野党勢力や離反兵士から成る自由シリア軍など武装勢力が生まれ、事態は急速に武力衝突・内戦へとエスカレートしていきます。さらに、宗派間対立(アラウィー派を中心とする政権側とスンナ派住民の反政府勢力)や、クルド人勢力の自立志向、過激派組織の台頭など、複数の対立軸が絡み合う複雑な構図となりました。

シリア内戦には、多くの外国勢力も介入しました。アサド政権側にはイランやヒズボラ(レバノンのシーア派組織)、そしてロシアが軍事・政治面で支援を行い、反政府側にはトルコ、湾岸アラブ諸国、欧米諸国などが程度の差はあれ関与しました。とくにロシアは2015年以降、本格的な空爆と軍事支援を行い、政権の存続に決定的な役割を果たしました。

内戦の混乱の中で、「イスラム国(IS、ISIS)」と呼ばれる過激派組織がシリア東部・イラク西部にまたがる広い地域を一時支配し、残虐な支配とテロ行為を行いました。これに対し、国際社会は対IS軍事行動を展開し、クルド人勢力などと連携してIS支配地域を縮小させていきましたが、シリア全体の政治的解決にはなお長い道のりが残されています。

シリア内戦は、莫大な人的被害とインフラの破壊をもたらしました。多くの市民が空爆や地上戦、包囲戦の犠牲となり、さらには化学兵器使用が疑われる事例も国際的非難を浴びました。国内避難民と国外難民の数は数百万人規模に達し、隣国トルコ・レバノン・ヨルダンやヨーロッパ諸国に大きな負担と政治的緊張をもたらしました。

歴史的に見れば、シリアの内戦は、オスマン帝国崩壊後に列強が引いた国境線と委任統治体制、冷戦期の権威主義体制と外部支援、アラブ民族主義とイスラーム主義、民族・宗派の多様性と国家アイデンティティの問題など、20世紀中東史が抱えてきた矛盾と課題が一挙に噴出した事例だとも言えます。また、難民問題やテロ問題を通じて、遠くヨーロッパや世界全体にも影響を及ぼし、「内戦は一国だけの問題ではない」という現代国際社会の現実を改めて浮き彫りにしました。

「シリア」という用語を世界史で見るときには、古代から続く文明の十字路としての側面とともに、オスマン帝国の一州からフランス委任統治を経て独立国家となり、バアス党政権とアサド体制のもとで近代国家としての道を歩みながら、21世紀に深刻な内戦に直面している国、という長い歴史の流れをあわせてイメージしておくとよいです。その背後には、地域秩序と大国政治、民族・宗派・イデオロギーの複雑な絡み合いがあり、シリアの歴史は中東全体の近現代史を理解する鍵の一つとなっています。