ヴェルサイユ行進は、1789年10月5日から6日にかけて、食糧不足に怒るパリの民衆、とりわけ市場の女性たちを先頭にした群衆がヴェルサイユ宮殿へ向けて行進し、国王ルイ16世と王妃マリー=アントワネット、そして国民議会を事実上パリへ移転させた出来事を指します。革命勃発から数か月、パンの価格高騰と政局不安が重なる中で起きたこの行動は、革命の主導権が宮廷から都市の民衆へと移ったことをはっきり示しました。以後、政治の舞台はヴェルサイユからパリ中心部へ移り、国王はチュイルリー宮に「事実上の居所」を定め、議会もパリで活動することになります。ヴェルサイユ行進は、飢餓の抗議と政治要求が結びついた「パンと政治」の事件であり、女性たちの集団行動が革命の進路を変えた象徴的な瞬間でした。
当時の人々は「十月事件(Journées d’octobre)」とも呼びました。背景には、1788年の不作と厳冬に始まる穀物危機、流通の停滞、投機や買い占めへの疑惑がありました。さらに、ヴェルサイユ宮で催された近衛連隊の宴会における「三色章への侮辱」の噂が、宮廷の反革命姿勢を印象づけ、民衆の不信を刺激しました。こうして食糧問題が政治不信と連結したとき、行進は単なる価格値下げ要求を超え、国王に対する明確な政治的プレッシャーとなったのです。以下では、背景、行進の展開、宮殿での衝突とパリ移送、そして影響と記憶の四つの観点から、この出来事の意味を丁寧に解説します。
背景――「パンの危機」と「反革命の影」
ヴェルサイユ行進の土壌は、まず経済にありました。1788年の悪天候と翌年の厳冬で収穫は落ち込み、粉挽きや輸送にも支障が出ました。パンは都市庶民の主食であり、価格の急騰は生活の直撃となります。市場では投機や買い占めの噂が飛び交い、パン屋や商人の前で抗議が頻発しました。市当局は価格統制や配給で対応しようとしましたが、需要と供給のギャップは埋まりませんでした。こうした「パンの政治(politique du pain)」は旧体制末期のほぼ恒常的な現象で、地方でも穀物暴動が起きていました。
第二に、政治的不信が高まっていました。1789年5月に招集された三部会は、第三身分が「国民議会」を名乗って主導権を握り、国王は6月末にこれを容認します。7月14日のバスティーユ襲撃以後、パリでは市民軍(のちの国民衛兵)が秩序維持に当たりましたが、宮廷の一部には、軍を集結させ議会を牽制する発想も残っていました。10月1日、ヴェルサイユでフランドル連隊の歓迎宴が開かれ、王妃臨席のもと白い王党派の徽章が称揚され、三色章(革命の象徴)が踏みつけられたという噂は、宮廷が反革命に傾いているとの印象を強めます(実際の詳細は議論がありますが、当時の民衆心理に与えた影響は大きかったのです)。
第三に、指導者と組織の問題です。ジャーナリズムと政治クラブ(ジャコバン派など)がパリで勢いを増し、演説とパンフレットが日常の政治意識を刺激しました。他方、女性たちの自発的ネットワーク――市場の女たち、洗濯女、職人の妻、行商人――は、日々の購買と近隣のつながりを通じて情報を素早く広げました。パンの列は自然発生的な討議の場であり、怒りはそこから集団行動へと移行します。こうして「パンのために」という具体的要求が、「議会をパリへ」「国王に誓約を」という政治要求へ、短期間でスライドしていきました。
行進の出発――女性たちを先頭に、装備は槍と鼓動
10月5日朝、パリの市場(特に中央市場〈レ・アル〉周辺)で「市庁舎へ行こう」「パンを寄越せ」という叫びが広がり、群衆はパリ市庁舎(オテル・ド・ヴィル)になだれ込みます。太鼓や鐘が鳴り、武器庫から槍や銃が持ち出され、旧式の大砲すら押し出されました。群衆の多くは女性で、彼女たちは家庭の食卓を守る「主婦」として、また市場の担い手として、生活の窮迫を体に刻んだ当事者でした。彼女たちは髪に三色章を挿し、裸足や簡素な靴で雨の中を歩き、互いに声をかけ合いながら進みました。誰かが旗を掲げ、誰かが「王と議会をパリへ」の標語を叫び、行進はしだいに政治的スローガンを明確にします。
午後になると、国民衛兵の一部(指揮官はラファイエット)が市民の圧力を受けて動き、夜には軍紀を保つため自ら先頭に立ってヴェルサイユへ向かう決断を下します。形式上は秩序の回復という名目でしたが、実質的には民衆の行進に護衛を与える結果となりました。こうして、女たちを先頭に、雑多な装備の男性たち、市民兵の隊列が、雨と泥にまみれて約20キロの道のりを進みます。
ヴェルサイユ到着は夕刻から夜にかけてでした。群衆は国民議会の会場(メニュ・プレジール)へ押し寄せ、議員たちに「パンを!」「退位ではなく、約束を!」と詰め寄ります。議会側は混乱の中で陳情を受け、パンの確保や穀物流通の改善を約束しました。同夜、王宮前の広場には火が焚かれ、雨に濡れた人びとは眠らずにざわめき続けます。ラファイエットは王宮の警備を引き受け、王に忠誠を誓いつつ群衆との衝突回避に努めました。
宮殿での衝突と「パリへの移送」――夜明けの悲劇、群衆の勝利
10月6日未明、緊張は爆発します。群衆の一部が宮殿の門を破って突入し、王妃の居室近くまで迫りました。ヴェルサイユ近衛の兵士数名が殺害され、宮廷は修羅場となります。王妃は侍女に導かれて通路を走り、王の部屋へ避難しました。広場では「パン屋(王)とパン屋の女房(王妃)と小さなパン屋(王太子)をパリへ!」という皮肉な掛け声が渦巻きます。
ラファイエットはこの危機の中で王と王妃をバルコニーへ出させ、群衆に姿を見せました。王妃が子どもを伴わず一人で立つと、殺気立っていた群衆も一瞬静まり、やがて「パリへ!」の大合唱に変わります。政治的に最も重要なのは、王がこの時、国民議会が可決していた「八月令(封建的特権の廃止)」や「人権宣言」などに同意を与える意志を表明したこと、そして自らパリへ移る決断を示したことでした。午前中、王族の馬車列と議員たち、そして群衆は、戦利品のパン粉袋や大砲とともに、雨の中をパリへと向かいます。
この「移送」は、象徴的どころか実務的にも決定的でした。国王一家はチュイルリー宮に入り、国民議会も間もなくパリへ移転します。以後、王権は都市世論と国民衛兵の圧力のもとで政治を進めざるを得なくなり、ヴェルサイユの宮廷世界は政治の中心の座を失いました。革命の動力は、宮殿のサロンではなく、パリの広場、印刷所、クラブ、そして市場へと完全に移ったのです。
影響――政治の重心移動、女性の可視化、革命の加速
第一に、政治の重心移動です。ヴェルサイユからパリへの移送は、議会と国王を都市の監視下に置き、行政・財政・軍事の諸決定が世論の熱源に近接した環境で行われることを意味しました。1790年のフランス教会組織の民事基本法(聖職者の公選と国家奉仕化)や、国有財産(特に教会財産)の売却、行政区画の再編など、体制変革の大きな法案が進むには、議会がパリの資金・人材・印刷・通信の中心に座っていることが有利でした。他方で、暴力的圧力が政治判断を歪めるリスクも増し、のちの急進化への道が開かれたとも言えます。
第二に、女性の政治的可視化です。ヴェルサイユ行進は、法的権利が制限されていた女性たちが、生活防衛を軸に政治空間へ踏み出した瞬間でした。市場の女たちは単に「餓えた群衆」ではなく、交渉者、先導者、時に秩序の保護者として立ち回りました。彼女たちは国王への嘆願を行い、議員と渡り合い、行進の規律を保ち、武器を取りました。もちろん、その後の革命が女性の参政やクラブ活動を最終的に抑圧(1793年に女性クラブが閉鎖)したことを考えれば、ヴェルサイユ行進は女性解放の直線的な起点とは言えません。しかし、公共圏における女性の存在感を一気に可視化し、生活の要求が政治の要求に連結しうることを、鮮烈に示しました。
第三に、国王の位置づけの変化です。行進と移送は、国王を「国民の父」に近づけるのではなく、「国民の監督対象」に変えました。王は議会の決議に同意しつつ、同時に拒否権(停止的拒否権)をめぐって駆け引きを行い、政局は複雑化します。宮廷の安全神話が崩れたことで、王妃への敵意は強まり、宮廷と民衆の心理的距離は不可逆的に広がりました。のちに国王一家が国外逃亡を図る(1791年ヴァレンヌ事件)伏線は、すでにこの時点で張られていたとも解せます。
第四に、象徴の転換です。ヴェルサイユは王権の劇場でしたが、行進以後は革命の記憶装置へと変わります。宮殿の豪奢さは旧体制の不正義の象徴として語られ、同時に、のちの世紀には歴史博物館として多様な政治体制が自らの正統性を展示する舞台にもなりました。鏡の間での1919年講和条約調印の遠因に、革命以来の「ヴェルサイユ=政治の舞台」という慣性を読み取ることもできます。
記憶と解釈――暴力か民意か、生活と政治の交差点
ヴェルサイユ行進は、解釈の分岐点でもあります。一方では、暴力的群衆が国家権力を屈服させた「街頭の勝利」として記憶され、法の支配に対する不安の源とみなされます。他方では、飢餓と不信の中で機能不全に陥った政治を、市民が自ら介入して動かした「民意の直接表出」として評価されます。史料を丁寧に読むと、群衆の中には略奪や流血を抑えようとする人々もおり、国民衛兵や議員の一部は調停に努め、ラファイエットは危機管理に動きました。そこには、暴力と交渉、怒りと秩序の綱引きがあり、十月事件はそのせめぎ合いの結果として生まれたのです。
女性の役割も、単純化には耐えません。市場の女たちは「母」や「妻」としての役割を携えながら、同時に都市経済の担い手、情報の媒介者、政治的主体でもありました。パンの列、礼拝、洗濯場、井戸端、市場――こうした生活の場所が、意見形成と動員のインフラでもあった点に、近代政治の草の根が見えます。ヴェルサイユ行進は、生活のリズムが政治の拍動を生み出すことを教える、極めて具体的な教訓を残しました。
最後に、行進の「結果」は、革命の針を一段早く進めたことです。国王と議会をパリに置いたことで、印刷・金融・群衆・クラブ・衛兵が政治に直結し、決定が加速する一方、対立も先鋭化しました。均衡と妥協の余地は狭まり、1790〜91年の改革は前進しつつ、1792年以後の王政廃止と共和化、内外戦争、恐怖政治へと連なる急坂の手前に、十月事件の曲がり角があります。ヴェルサイユ行進は、革命史の中で、生活と政治、女性と公共、都市と国家が交わる交差点として、今もなお読み直され続けているのです。

